アメリカン・バレエ・シアターの世界

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:アメリカン・バレエ・シアター(ABT)のダンサーたち
原題:Ballet
制作:アメリカ/1995
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

いつだったか、ふとテレビで見たコンテンポラリー・バレエに衝撃を受けた。目も止まらぬ素早い動きのダンサーの躍動感に目を奪われてしまった。カナダのラララ・ヒューマンステップスと云うダンスカンパニーだった。すぐさまAmazonでDVDも買ってしまった。

自分にとってのバレエの接点はそんなもので、おそらく普通のクラシック・バレエは退屈するんだろうなあ、と云う懸念はぴったりと当たってしまった。いくらフレデリック・ワイズマンの映画でもバレエのシーンではちょっとウトウトと。でも、そのクラシック・バレエの練習風景はコンテンポラリー・バレエのダイナミズムを感じてとても面白かった。それは最近のフレデリック・ワイズマンの映画『パリ・オペラ座のすべて』や『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』に通じて行く。

→フレデリック・ワイズマン→アメリカン・バレエ・シアター(ABT)のダンサーたち→アメリカ/1995→アテネ・フランセ文化センター→★★★

監督:デヴィッド・ロウリー
出演:ケイシー・アフレック、ルーニー・マーラ、ウィル・オールドハム、ソニア・アセヴェド、ロブ・ザブレッキー、リズ・フランケ
原題:A Ghost Story
制作:アメリカ/2017
URL:http://www.ags-movie.jp
場所:シネマカリテ

映画のタイトルだけを見れば軽いホラー系の映画にも見えるけど、実際には不慮の事故で死んでしまった男の現世への強烈な執着を描いた映画だった。

「ゴースト」となった男が連れ立っていた妻を忘れられずに、ずっとその場所にとどまって妻を見守って行くストーリーではないかと誰もが最初は想像するのだけれど、未亡人となった妻に新しい男が出来てからはなぜかその住んでいた「家」に執着して、未来に向かって永遠ともおもわれる時間そこに居続けるストーリーとなって行くところがとても不思議な映画だった。あとから考えれば、住んでいた「家」への執着に関する夫婦の会話があったことがその伏線で、日本でも幽霊は「人」に憑くことよりも「家」に憑くことのほうが多いんじゃないかと、最近読んだ小野不由美の「営繕かるかや怪異譚」からもおもいあたる部分だった。

ただ、その行為が未来永劫に続くのではなくて、途中から時空をさかのぼって、アメリカの開拓史の時代からその土地の歴史をなぞって行くところがさらに不思議さを増していた。そして、夫婦がその「家」に住んでいたときに聞いたラップ現象が実は「ゴースト」となった男が立てた音だったことがわかる部分をどのように解釈すればいいのか難しかった。自分の生きているこの瞬間にも、先々に死んだ自分の魂の影響が及んでいることの意味を脚本も書いたデビッド・ロウリーに聞いてみたい気がする。

→デヴィッド・ロウリー→ケイシー・アフレック→アメリカ/2017→シネマカリテ→★★★

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:アラバマ聾盲学校(AIDB)内のヘレン・ケラー校の人びと
原題:Multi-Handicapped
制作:アメリカ/1986
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

フレデリック・ワイズマンのカメラは、障害者施設の子どもたちに対してもしっかりと視線を送っていた。日本でもこのような施設での取り組み方をブラックボックス化しないで、もっと公にしらしめる活動をするべきなんじゃないかと、この映画を観ながらずっと考えていた。どんなにアピールしてたとしても、津久井やまゆり園の事件の犯人のような考えを持っている人間に対しては何の効力も発揮しないのかもしれないけれど、でも、少なくとも、多様性の大切さが叫ばれる今の世の中に対して、彼らもその一つの要素として認識してもらう必要はあるんじゃないかと、重度の障害を持つ人や特別支援施設に多少なりとも関わっている人間としては考えざるを得なかった。

フレデリック・ワイズマンの映画は、いつの時代に観ても、その時々の問題にぴたりと寄り添ってくる汎用性がある。スゴイことだ。

→フレデリック・ワイズマン→アラバマ聾盲学校(AIDB)内のヘレン・ケラー校の人びと→アメリカ/1986→アテネ・フランセ文化センター→★★★☆

監督:ブライアン・シンガー
出演:ラミ・マレック、ルーシー・ボイントン、グウィリム・リー、ベン・ハーディ、ジョゼフ・マゼロ、エイダン・ギレン、トム・ホランダー、アレン・リーチ、マイク・マイヤーズ
原題:Bohemian Rhapsody
制作:イギリス、アメリカ/2018
URL:http://www.foxmovies-jp.com/bohemianrhapsody/
場所:109シネマズ木場

アメリカやUKのロックを聴くには聴くけど、曲名やバンドのメンバー名をしっかりと覚えていない自分にとっても、クィーンだけは「Killer Queen」や「We Are the Champions」や「Bicycle」などの曲名も覚えているし、フレディ・マーキュリーはもちろんのことブライアン・メイやロジャー・テイラーと(ジョン・ディーコンだけは覚えてなかった、ごめん)メンバーの名前も知っている稀有なバンドだった。でも、もちろんのこと、彼らの出自については何も知らなかった。だからイギリス人であるとおもっていたフレディ・マーキュリーがインド系であることにまずは驚いたし、あんなに出っ歯だったことにも衝撃を受けてしまった。クィーンのファンからはそんな初歩的なことも知らねえのかよ、と云われそうだけど、だからこそ、ブライアン・シンガーの撮った『ボヘミアン・ラプソディ』は最初から、ああそうだったのか、とか、そういう経緯だったのね、とか、無知だからこそやたらとグイグイと引き込まれる映画だった。

ヒット曲にめぐまれたバンドにとっての宿命でもある中心メンバーのソロ活動による内部亀裂などお決まりの展開がありながらも、それでもライブシーンのVFXを使ったカメラワークなどに斬新さがあって、そしてラミ・マレックが演じているフレディ・マーキュリーの歌声を担当したマーク・マーテルのそっくりさ!(正確にはフレディとマーク・マーテルとラミ・マレックが歌ったもののミックスらしい)もあって、クィーンのファンでなくても充分に楽しめる音楽映画になっていた。特にウェンブリー・スタジアムで行われたライヴエイドに出演したクィーンを俯瞰からなめるカメラワークがすごかった! VFXがある今の時代はイメージさえあれば何でも実現できる。

→ブライアン・シンガー→ラミ・マレック→イギリス、アメリカ/2018→109シネマズ木場→★★★★

監督:パノス・コスマトス
出演:ニコラス・ケイジ、アンドレア・ライズボロー、ライナス・ローチ、ネッド・デネヒー、オルウェン・フエレ、リチャード・ブレイク、ビル・デューク
原題:Mandy
制作:ベルギー/2017
URL:http://www.finefilms.co.jp/mandy/
場所:シネマカリテ

「映画秘宝」方面から『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』がスゴイ! との情報が流れてきて、「映画秘宝」方面の人たちが推す映画を全面的には好きにはなれないんだけど、なんとなくこの映画には食指が動いて、相変わらず何の情報も入れずに観に行ってしまった。

オープニングに流れるクレジットのフォントからして何やら80年代の匂いが漂ってきて、そこに流れる音楽(故ヨハン・ヨハンソン!)もプログレッシブ・ロックのようで、なにやらF・ポール・ウィルソンのホラー小説を原作としたマイケル・マン監督の1983年の映画『ザ・キープ』をおもい出さずにはいられなかった。カルト集団が善良な市民を襲う内容も70年代、80年代の映画のようで、さらに『悪魔のいけにえ』や『ヘル・レイザー』を彷彿とさせるキャラクターたちも、今の2018年の映画ではなくてひとむかし前の映画のようだった。

最近のゆる〜い映画からするとズシンと精神に直撃する映画なので、観ていて、ある意味、わくわくする映画なんだけれども、その情け容赦のない内容に気分は落ち込み、観終わってからはヘトヘトに疲れてしまった。このような映画の評価はむずかしくて、誰もが許容できる内容ではないので、簡単に人には勧めることはできない。まあ「映画秘宝」お墨付きの映画である時点でそれはわかることなんだけれども。

監督がパノス・コスマトスと聞いて、コスマトス? えっ、じゃあ、ジョルジュ・パン・コスマトスの息子? とおもったら、そうだった。

→パノス・コスマトス→ニコラス・ケイジ→ベルギー/2017→シネマカリテ→★★★☆

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:ニューヨークのモデルエージェンシー「Zoli」に所属するモデルたち
原題:Model
制作:アメリカ/1980
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

1980年ごろのニューヨークのモデル業界にカメラを向けたこの映画を観て、なにが一番おもしろかったのかと云えば、女性モデルのファッションや髪型や化粧がまるでそのまま80年代音楽のMTVに登場してくるようなイメージで、この映画の中でCM撮影を行っているモデルの人たちも、もしかしたらデュラン・デュランなどのミュージック・クリップに出ていたんじゃないのかなあ、と見えるところだった。それだけでも懐かしくて、そして今よりもどこか脳天気な時代をうらやましくも感じてしまった。ドキュメンタリーは、時代の断片を切り取って記録しているとろが素晴らしい。フレデリック・ワイズマンの映画がなければ、誰も80年代のモデル業界を振り返りもしないとおもう。

デジタル技術が進んで、なんでも修正ができる今現在のモデル業界って、80年代と比べて何が違うんだろう? フレデリック・ワイズマンの『モデル2』が観たいような気がする。

→フレデリック・ワイズマン→ニューヨークのモデルエージェンシー「Zoli」に所属するモデルたち→アメリカ/1980 →アテネ・フランセ文化センター→★★★☆

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:ニューヨーク州のジャクソンハイツの人びと
原題:In Jackson Heights
制作:アメリカ/2015
URL:http://child-film.com/jackson/
場所:シアター・イメージフォーラム

フレデリック・ワイズマンの『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』は、ニューヨークのクイーンズ地区にあるジャクソンハイツに住む人びとにカメラを向けていた。このジャクソンハイツはマンハッタンに近いわりには家賃も安く、治安もそれほどひどくないこともあって中南米からの移民の人も多く、さらにそのような多様性に惹きつけられてかLGBTの人びとも多く住むようになって、まるで『スター・ウォーズ』に出てくるチャルマンの酒場のような様相になっていることに驚いてしまった。これって、もしかするとわれわれの「未来」でもあるんじゃないのか。日本も高齢化で労働人口も減って、海外からの労働力に頼らざるを得なくなって、いつしかジャクソンハイツになって行くのかもしれない。そのときに、いかにして多様な文化を受け入れることができるんだろうか? ひとつの民族(正確には違うけど)、ひとつの言語、そして宗教にも無関心。おなじときに休んで、おなじような場所に行って、おなじことをすることで安心しているわれわれがジャクソンハイツになれるのかなあ。ならざるを得ないときのひずみがとても心配だ。

→フレデリック・ワイズマン→ニューヨーク州のジャクソンハイツの人びと→アメリカ/2015→シアター・イメージフォーラム→★★★★

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:コロラド州のモンフォート・ミート・パッキング・ファームの人びと
原題:Meat
制作:アメリカ/1976
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

牧場で飼われている牛たちがどのような経緯を経て我々の食卓に並ぶのかは、なーんとなく理解はしているけれど、それを深く考えると肉が美味しく食えなくなってしまうかもしれないので、そこは無理やりスルーしておきましょう、ってはなしになっていたはずだった。でもそれをフレデリック・ワイズマンは許さなかった。つぶらな瞳をしたいたいけな牛や羊たちが集められて、運ばれて、吊るされて、血を抜かれて、バラバラにされて、小分けにされて、梱包されて出荷される過程をまざまざと見せつけてくれた。うーん、やっぱり辛い。辛すぎる。我々はどうしてそこまでして生きている動物を殺して食わなければならないのだろう。動物性タンパク質は、なにか、他のもので補えるはずだ。もう、可愛い動物たちを食べるのはよそう…。

と決意した帰り道、いつのまにかラーメン屋でチャーシューを食っていた。ああ…。

→フレデリック・ワイズマン→コロラド州のモンフォート・ミート・パッキング・ファームの人びと→アメリカ/1976→アテネ・フランセ文化センター→★★★★

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:ベネディクト会エッセネ派の人びと
原題:Essene
制作:アメリカ/1972
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

エッセネ派とは紀元前2世紀から紀元1世紀にかけて存在したユダヤ教のグループの呼称らしい。そして現代では、その厳格な教えを受け継いだキリスト教のグループなどの呼称にも使われているらしい。フレデリック・ワイズマンはベネディクト会のエッセネ派の人びとを追った。

どんな宗教でも聖職に身を置く人たちは、一般の人たちよりも人間としてのステージを上げることを目的とした人びとだろうと勝手に解釈しているんだけど、このフレデリック・ワイズマンの『エッセネ派』の中に登場する神父たちは、やたらと俗っぽい人間関係で悩みを抱えていて、それだったら我々のコミュニティで起こる問題と何ら変わることがなくて、修道会で行われる厳しい修行とはいったい何のためなんだろう? と、あきれて映画を観続けていた。

どんなところへもズケズケと入り込んでいくフレデリック・ワイズマンのカメラが客観的に捉える人間たちはどこまでも可笑しすぎる。

→フレデリック・ワイズマン→ベネディクト会エッセネ派の人びと→アメリカ/1972→アテネ・フランセ文化センター→★★★☆

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:メトロポリタン病院の人びと
原題:Hospital
制作:アメリカ/1970
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

いつのころからか「病院」に関連するすべてのものを忌み嫌うようになってしまった。建物も備品も医師も看護婦も病人も、とにかくすべて。でも、いつしか自分も大病を患って「病院」に世話にならざるを得ない状況が生まれるんだろうなあ。そうしたときに、どんな顔をして「病院」へ行くことになるんだろう? 不安、不信、怖れ、動揺、混乱、心労、そのすべてがにじみ出ているに違いない。

フレデリック・ワイズマンの『病院』は、まさにそんな感情を抱えた人たちの表情がスクリーンいっぱに広がっていた。病院を訪れる病人やその家族にぴったりと寄り添ったカメラに映る人間はまさに自分だった。そこまでのめり込んで観てしまった映画は、あっという間の84分だった。

→フレデリック・ワイズマン→メトロポリタン病院の人びと→アメリカ/1970→アテネ・フランセ文化センター→★★★★