監督:ルクサンドラ・ゼニデ
出演:ドロシア・ペトル、エリナ・レーヴェンソン、ボグダン・ドゥミトラケ
原題:Miracolul din Tekir
制作:ルーマニア、スイス/2015
URL:http://eufilmdays.jp/ja/films/2017/miracle-of-tekir/
場所:東京国立近代美術館フィルムセンター

毎年、欧州連合(EU)加盟国の作品を紹介する映画祭が開かれている。その「EUフィルムデーズ2017」にはじめて行ってみた。と云っても、ラインナップの中から特定のタイトルを選んで観に行ったわけではなくて、ちょうど都合が良かった時間にたまたまやっていた映画を観に行ったので、はたしてどんな内容のものなのかもさっぱり検討もつかなかった。でも、そんな映画の見方も楽しい。

たまたま当たった映画はルーマニアの『テキールの奇跡』と云う映画だった。

ルーマニアの地図を見た時に一番最初に目に付くのは、やはり、「ドナウ川」と「黒海」だとおもう。「ドナウ川」がルーマニアを横断して「黒海」へ流れ込み、その河口を「ドナウデルタ」と呼ぶらしい。『テキールの奇跡』は「ドナウデルタ」から生まれる「黒い泥」を使って病を治す女の治療師マラ(ドロシア・ペトル)のストーリーだった。

この独身の治療師マラが、奇跡の「黒い泥」によって男と交わることなく妊娠したと言い張ることからストーリーが展開して行って、そこにマラに対して思いを寄せる神父や、避暑地の豪華なスパホテル「テキール」に宿を取る不妊に悩む金持ち未亡人などが絡んで、不思議な宗教的で民俗的な寓話が成立して行く。

何となく持っていた「黒海」のイメージも、映画に出てくる「黒海」とぴったりと一致して、どことなく地の果てをおもわせる景色がこの映画の舞台としてふさわしかった。黒海の海岸際に突如として現れる豪華なスパホテルも、その豪華さゆえに、キューブリックの『シャイニング』さながら、云いようもない不安感をあおっているのも治療師マラのおとぎ話にぴったりだった。

この映画の中でホテルとして使われた建物は、実は1910年に開業したカジノで、戦後の共産主義政権下でレストランとして運営されていて、1990年に閉鎖されたそうだ。

http://www.slate.com/blogs/atlas_obscura/2013/11/13/abandoned_constanta_casino_sits_ruined_beside_the_black_sea.html

不妊に悩む金持ち未亡人の女優をどこかで見たことがあるなあとおもっていたけど、そうか、ハル・ハートリーの映画に出ていたエリナ・レーヴェンソンだったのか! 彼女はルーマニア出身だったのだ。

→ルクサンドラ・ゼニデ→ドロシア・ペトル→ルーマニア、スイス/2015→東京国立近代美術館フィルムセンター→★★★

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:エイミー・アダムス、ジェレミー・レナー、フォレスト・ウィテカー、マイケル・スタールバーグ、マーク・オブライエン、ツィ・マー
原題:Arrival
制作:アメリカ/2016
URL:http://www.message-movie.jp
場所:109シネマズ菖蒲

最近の一番のお気に入りの監督であるドゥニ・ヴィルヌーヴがSF映画を撮ったとの情報がずいぶんと前から流れていた。その映画『メッセージ』がやっとのことで日本公開となったので、いつもならグズグズとしていて公開終了も押し迫った頃合いでしか観に行かないのに、いてもたってもいられないので公開1週間にしてさっそく観に行ってしまった。

予告編を見たかぎりの印象では、地球人と得体の知れない異星人とのコンタクトの映画だった。まあ、たしかにその通りではあったのだけれど、映画の最初のシーンからして、今までの似たような映画とは微妙に趣が違うことがわかって来る。異星人とのコンタクトと同時に、エイミー・アダムスが演じている言語学者ルイーズ・バンクスの回想がところどころに差し込まれることによって、もっと、なにか、彼女自身のパーソナルな映画でもあるとの印象を与えるのだ。

以下、激しくネタバレ。

その回想はおもに彼女と娘との想い出に費やされていて、夫は登場しない。おそらくは、娘が幼いころに別れてしまったのではないかとの想像ができる。そして、娘が抗がん剤治療を受けているシーンが差し込まれるに至っても、夫は登場しない。娘が死に際しているのに現れない父親にはどんな事情があるんだろう? もしかすると亡くなってしまっているのだろうか? とのおもいが立つ。

ここが、この映画の「仕掛け」の一つだった。夫(父親)を見せないのは、のちに映画的な効果を引き立たせるためだった。

エイミー・アダムスが演じるルイーズ・バンクスがチームを組んで異星人の「文字」の解明を一緒に行うのはジェレミー・レナーが演じる物理学者イアン・ドネリーだった。言語学の観点からと、この宇宙に普遍的に存在する物理学(数学?)的な観点から解明を行うためにコンビを組んでいたのだ。この二人の会話の中に、エイミー・アダムスが自分の娘の話題を持ち出したことから、ジェレミー・レナーが「えっ? 結婚してたの?」と疑問を投げ掛けるシーンがあった。なんだ、この二人、コンビを組んでいながらパーソナルな世間話は何もしてないのか? とおもったのと同時に、あっ! と啓示のような衝撃を受けた。

もしかすると、今までのものは回想ではなかったのか? じゃあ、なんなんだ? これから起こることなのか?

エイミー・アダムスが異星人とコンタクトを行ううちに、徐々に、未来を瞑想するようになっていった事実をこの映画では回想のように見せていたのだ。まるで『惑星ソラリス』の海のように、得体の知れない異星人から影響を受けた結果だった。

当初から彼らが地球人たちに「武器を与える」との言葉を発していることが解明できていたけど、「武器」が何を意味するのかはわからなかった。その「武器」とは、つまり、未来を見ることができる能力だったのだ。それを彼らはエイミー・アダムスに与えたのだった。彼女はその能力を使って、先走った中国が異星人たちに核攻撃を仕掛けることを未然に防ぐことが可能となったのだった。

映画のストーリーは、まあ、こんな感じで進んで行き、予想通りにエイミー・アダムスの夫がジェレミー・レナーであることも示される。

でも、このストーリーだけでは、なぜ、異星人たちが地球へ来たのかがよくわからなかった。それは「3000年後に地球人に助けてもらうため」とのことらしいが、エイミー・アダムスに「武器を与える」行為が、いったいどのようなかたちで彼らの助けとなるのかがまったく想像がつかなかった。

その理由を解明したくて、さっそくテッド・チャンの原作小説を読んでみた。タイトルは「Arrival」ではなくて「あなたの人生の物語」だった。それも短編小説だった。

小説では映画よりも詳しく異星人(ヘプタポッド)とのコンタクトの過程が描かれていた。まず、ヘプタポッドたちは、地球人と違って、発話する言葉と書く文字とがまったくリンクしていない言語体系を持っていることがわかる。映画で、タコ墨みたいなものが形作る円環の文字が書き文字(ヘプタポッドB)だった。そして彼ら(”それら”)は、ものごとを捉えるときに、地球人にとって慣れ親しんだ時間経過とともに変化する物理現象ではなくて、ある一定の期間にのみ作用する「原因と結果を同時に認識する」物理現象をとても好んでいることもわかってくる。

この「原因と結果を同時に認識する」物理現象を説明するために小説では「フェルマーの原理」が例として取りあげられている。「フェルマーの原理」とは「光は進むのにかかる時間が最小になる経路を通る」ことらしい。このことは、つまり、小説の中でルイーズ・バンクスが云うように「光線は動きはじめる方向を選べるようになるまえに、最終的に到達する地点を知っていなくてはならない」ことだった。うーん、この現象が実際の生物の思考過程に入り込む方法がまったく想像できないけど、さらに小説では演劇的な「パフォーマンス」をも例にあげている。演劇は、映画もそうだけど、台本や脚本でストーリーの「原因と結果」がすでに設定されていて、その予めわかっているストーリーを我々は観て行く(認識して行く)のだと。

この小説のポイントは、つまり、地球人と”それら”の認識方法の違いを見せることだった。そしてルイーズ・バンクスが”それら”の「書き文字(ヘプタポッドB)」を習得することによって、次第に自分の思考にも「原因と結果を同時に認識する」意識が芽生えてきて、自分の未来をも見えるようになって行く、と云うものだった。この思考過程の変化を見せることのみが小説の主要なテーマなので、なぜヘプタポッドたちは地球に来たのか? なんてものはどうでも良かった。いや、”それら”は、目的のために地球に来て何かの結果を得る、と云うような「逐次的意識」でもって行動はしていなかったのだ。

でも、映画という視覚的な媒体は、そのような思考的な違いをビジュアルにして見せることに長けていない。だから、エイミー・アダムスとジェレミー・レナーの関係に映画的効果をしくんだり、なぜヘプタポッドたちは地球に来たのか? の説明をまがりなりにも入れたり、原作にはまったくない中国が異星人たちに核攻撃を仕掛るくだりを入れたのだった。

それに、この人のブログを読んで、ああ、そうか! と、もう一つの映画的な仕掛けに納得した。

「那珂川の背後に国土なし! : スクリーンの中のスクリーン ヘプタポッドと人間を隔てているもの」

確かに映画の中ではエイミー・アダムスたちとヘプタポッドのあいだに透明な仕切りガラスが設置されていたけど、小説にはそのような記述はなかった。彼女の住む部屋にある大きなガラス窓も小説にはなかった。そこに演劇的な舞台を設けて、ヘプタポッドたちの認識方法を隠喩させていたのだった。

テッド・チャンのSF小説「あなたの人生の物語」はとても刺激的な小説だった。そして、ドゥニ・ヴィルヌーヴは、その小説をうまく映像化していたとおもう。ドゥニ・ヴィルヌーヴは、やっぱり、最近の一番のお気に入りの監督だ。

いやあ、この映画はもう一度観ないと! もう一度観ると云うことは、つまり、すでにストーリーがわかっているので、ヘプタポッドの思考と同じ作用を行うことになるのか?

→ドゥニ・ヴィルヌーヴ→エイミー・アダムス→アメリカ/2016→109シネマズ菖蒲→★★★★

監督:ケネス・ロナーガン
出演:ケイシー・アフレック、ミシェル・ウィリアムズ、カイル・チャンドラー、ルーカス・ヘッジズ、ベン・オブライエン、グレッチェン・モル、カーラ・ヘイワード、アンナ・バリシニコフ、マシュー・ブロデリック
原題:Manchester by the Sea
制作:アメリカ/2016
URL:http://www.manchesterbythesea.jp
場所:新宿武蔵野館

今年のアカデミー主演男優賞は『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の演技でケイシー・アフレックが受賞した。その『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は、アカデミー賞授賞式の時に流れた断片的なクリップ映像から判断して、アメリカ北東部の寂れた片田舎に住む孤独な男のものがたり、と云う暗いイメージだった。ああ、また、主演男優賞を獲るような映画はシリアスな映画なんだなあ、と覚悟を決めて観に行ったら、まあ確かに真面目な映画ではあったのだけれど、ところどころのケイシー・アフレックの会話に可笑しさがあって、その天然ボケにも見えるユーモアが映画の全体的な暗さを適当に和らげていた。映画の悲壮的な部分と、会話のシーンでのクスクス笑える部分のバランスがとても良かった。

それに、取り返しようのない失敗から自分の殻に閉じこもってしまったダメなケイシー・アフレックの叔父と、女にだらしのないルーカス・ヘッジズ の甥のコンビも、父の亡くなった甥の面倒を後見人として叔父が見ると云うシビアな問題で衝突ばかりしているのに、いがみ合っている中にも、うすーく相手に対する愛情が見え隠れしていて、そのあんばいがこれもまた絶妙に良かった。その微妙な差異を的確に演技で表現できているケイシー・アフレックは確かに主演男優賞にふさわしかった。

→ケネス・ロナーガン→ケイシー・アフレック→アメリカ/2016→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:パク・チャヌク
出演:キム・ミニ、キム・テリ、ハ・ジョンウ、チョ・ジヌン、キム・ヘスク、ムン・ソリ
原題:아가씨
制作:韓国/2016
URL:http://ojosan.jp
場所:丸の内TOEI

ナ・ホンジンの『哭声/コクソン』、キム・ソンスの『アシュラ』と来て、日本で同時期に公開された韓国ハチャメチャ3部作のトリは、映画館を変えての最終的な公開終了も押し迫ってしまったパク・チャヌクの『お嬢さん』。

『哭声/コクソン』も『アシュラ』もバイオレンス表現の度合いがハチャメチャで、アタマがおかしい監督が撮っているとしかおもえない徹底した描写が痛快だったけれど、『お嬢さん』の場合はそれが全面的にエロへ向かっていて、それも韓国人の俳優が日本人の設定で喋るアクセントのおかしな日本語で、特にキム・ミニやキム・テリの女優に「ちんぽ」とか「おまんこ」とかを喋らせるプレイは、どちらかと云えば日本語のセリフの部分を字幕で読まなければならない韓国を含めた他国の人へと云うよりも、ピンポイントで日本人に向けての徹底した変態プレイとしかおもえなかった。おそらくそれは日本の「春画」がストーリーの根幹にあるからで、パク・チャヌクがそこまで日本に向けていることを設定したわけじゃないのだろうけど、結果、そうなっていることが日本人にとって嬉しいような、嬉しくないような。いや、嬉しかった。

とにかく韓国映画はいろいろとバラエティに富んできて、アタマがおかしい監督も増えてきて、ほんと、面白い。日本も、もっと変態の監督が欲しいなあ。

→パク・チャヌク→キム・ミニ→韓国/2016→丸の内TOEI→★★★☆

監督:ジェームズ・ガン
出演:クリス・プラット、ゾーイ・サルダナ、デイヴ・バウティスタ、ヴィン・ディーゼル、ブラッドリー・クーパー、マイケル・ルーカー、カレン・ギラン、ポム・クレメンティエフ、エリザベス・デビッキ、シルベスター・スタローン、カート・ラッセル
原題:Guardians of the Galaxy Vol. 2
制作:アメリカ/2017
URL:http://marvel.disney.co.jp/movie/gog-remix.html
場所:109シネマズ木場

第1作目の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が、「マーベル・シネマティック・ユニバース」のシリーズの中に位置していると云うこと以外の部分でビビッときたのは、やはり70年代、80年代の音楽の使い方だった。そんなに音楽好きとは云えない自分にとっても、MTVをテレビで良く見ていたので、

「帰ってほしいの(I Want You Back)」ジャクソン5
「チェリー・ボム(Cherry Bomb)」ザ・ランナウェイズ
「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ(Ain’t No Mountain High Enough)」マーヴィン・ゲイ & タミー・テレル

なんて曲が流れると、不思議と脳内が活性化されてウキウキとした気分にさせられて、ちょっと踊り出したくなってしまう。

それに、映画の中で流れる音楽が「カセットテープ」と云う過去のメディアに収められている設定も、エアチェック全盛の時代に生きた自分にとってはビビッと来る部分だった。ピーター・クイルの母親と同じように「最強 Mix」カセットテープを編集したものだった。

その『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のVol.2である『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー: リミックス』も、前作よりはストーリーがスッキリとしてなくて、ちょっと混乱しているきらいはあるけど、やはり懐かしい音楽が流れると気分が高揚して体が勝手に動き出してしまう。人間には「踊る」奴と「踊らない」奴の2種類に分類できるとドラックスは云うけど、自分は絶対に「踊る」奴だ。誰も見てないところでの話だけど。

ただ今回は、良く聞いていた音楽と云うよりは、な〜んとなく聞いたことのある音楽、が多かった。

「ミスター・ブルー・スカイ(Mr. Blue Sky)」エレクトリック・ライト・オーケストラ

「マイ・スウィート・ロード (My Sweet Load) 」ジョージ・ハリスン

特にキャット・スティーヴンスの曲は、その曲を知らなくても、あの歌声にやられてしまった。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は、「マーベル・シネマティック・ユニバース」の中でも特殊な懐メロ歌謡SFショーになっているところが今後も楽しみでならない。

→ジェームズ・ガン→クリス・プラット→アメリカ/2017→109シネマズ木場→★★★☆

監督:ケリー・フレモン・クレイグ
出演:ヘイリー・スタインフェルド、ウッディ・ハレルソン、キーラ・セジウィック、ブレイク・ジェナー、ヘイリー・ルー・リチャードソン、ヘイデン・ゼトー、メレディス・モンロー
原題:The Edge of Seventeen
制作:アメリカ/2016
URL:http://www.sweet17monster.com
場所:新宿シネマカリテ

同じ年代の子たちからは浮いていて、彼女たちの常識からすれば外れた行動をするので友達もいなくて、かと云って同級生からいじめを受けているわけではなく、どこか、常人から見ればおかしな方向に突っ張って生きているような女の子が主人公の映画がアメリカではたまに作られる。『ゴーストワールド』とか『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!』とか『JUNO/ジュノ』とか。この映画群が、なぜかめちゃくちゃ面白い。このへんてこりんな女の子たちがとても愛おしく感じてしまうのは性格的に自分に近いものを感じるからなのかなあ。

『スウィート17モンスター』もそんな映画群の一つだった。まったく自分に自信を持てない主人公のネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)は、自信がないと云っておきながらも内向的になるわけではなくて、どちらかと云えば確固たる自分の世界があって、そこでの自尊自大な空回りが、もう、小憎らしいけど可愛くて、笑っちゃうけど泣けてくる映画だった。この映画が初監督作品で脚本も書いたケリー・フレモン・クレイグは、女性であるからこそ撮ることの出来るような描写が満載で、アメリカのこの世代の女の子たちに蔓延しているだろうジャンクな食生活とか、同世代の子が着ないようなダサいながらもネイディーンにぴったりの服装とか、スマートフォンでのショートメッセージのクールなやり取りとか、その一つ一つのリアリティがこの映画の面白さを下支えしていた。

ヘイリー・スタインフェルドは、コーエン兄弟の『トゥルー・グリット』やジョン・カーニーの『はじまりのうた』と、いままでの出演作品にとても恵まれていて、この映画のネイディーンも彼女にぴったりのキャラクターだった。それに、いつの間にか、ヒット曲も飛ばしていた!

→ケリー・フレモン・クレイグ→ヘイリー・スタインフェルド→アメリカ/2016→新宿シネマカリテ→★★★★

監督:ウディ・アレン
出演:ジェシー・アイゼンバーグ、クリステン・スチュワート、スティーヴ・カレル、ブレイク・ライヴリー、ジーニー・バーリン、パーカー・ポージー、コリー・ストール、ケン・ストット
原題:Café Society
制作:アメリカ/2016
URL:http://movie-cafesociety.com
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

ウディ・アレンの映画と云えば、はじめのころは、自分の生まれ故郷であるニューヨークを舞台にすることがトレードマークで、アカデミー賞の授賞式でハリウッドからお呼びがかかってもニューヨークのカフェ「カーライル」でサックスを吹くことが優先になってしまうほどの西海岸嫌いが定着していたような気がする。でも、歳を重ねてからはそこまでの頑なな態度は取らなくなって行って、陽光きらめくロサンゼルスを舞台にした映画も数多く撮るようになったし、最近ではヨーロッパを舞台にした映画を立て続けに撮るようになった。

ウディ・アレンも81歳となって、人生の晩年に世界を見て歩く道楽も終わりを告げて、この『カフェ・ソサエティ』ではついにニューヨークに帰って来ることとなった。それも自分の生まれた1930年代を『ラジオ・デイズ』と同じようにノスタルジーたっぷりに描いているので、どうしても彼の初期の映画をおもい出さざるを得なくて、ラストでジェシー・アイゼンバーグがクリステン・スチュワートに対するおもいを断ち切れなくて遠い目になるシーンを見るに及んでは、『アニーホール』の中でウディ・アレンがダイアン・キートンに対して持ち続ける未練とすっかりとダブってしまった。ウディ・アレンはもう一度、ダイアン・キートンと映画を撮るべきだなあ。老いた二人の丁々発止のストーリーが見たい!

それにしてもこの映画のプロットは、同じようにジェシー・アイゼンバーグとクリステン・スチュワートが共演したグレッグ・モットーラ監督『アドベンチャーランドへようこそ』とそっくりだなあ。

→ウディ・アレン→ジェシー・アイゼンバーグ→アメリカ/2016→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★☆

監督:ベン・ウィートリー
出演:ブリー・ラーソン、シャールト・コプリー、アーミー・ハマー、キリアン・マーフィ、ジャック・レイナー、バボー・シーセイ、エンゾ・シレンティ、サム・ライリー、マイケル・スマイリー、ノア・テイラー、パトリック・バーギン、トム・デイヴィス、マーク・モネロ
原題:Free Fire
制作:イギリス/2016
URL:http://freefire.jp
場所:新宿武蔵野館

今から考えると1970年代の映画は一つのシチュエーションで最後まで強引に押し切っちゃうアクション映画が多かった。ドン・シーゲル『突破口!』とか、リチャード・C・サラフィアン『バニシング・ポイント』とか、H・B・ハリッキー『バニシング in 60』とか、スティーヴン・スピルバーグ『激突』『続・激突!カージャック』とか。そんな、シンプルで、アグレッシブで、ハイテンションな映画はいつの間にか廃れてしまって、もっと複雑で、場面展開も多くて、こね繰り回す映画が多くなってしまった。

ベン・ウィートリー監督の『フリー・ファイヤー』は、銃の取引の交渉がこじれて二組のチンピラたちが延々と撃ち合うと云うワン・シチュエーションの内容で、まるで1970年代のアクション映画のようだった。ああ、やっぱり、1970年代の映画に影響を受けたタランティーノの映画が大好きなだけあって、この映画も気持ちよく観てしまった。タランティーノに比べると過激さや血糊の量がちょっと少なかったけど。

ブリー・ラーソンは『ルーム』の演技でアカデミー主演女優賞を獲ったけど、エドガー・ライトの映画とか、『21ジャンプストリート』とか、この映画とかにも出てて、演技派はぶらなくて凄く良いイメージ。

→ベン・ウィートリー→ブリー・ラーソン→イギリス/2016→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
出演:アデル・エネル、オリビエ・ボノー、ジェレミー・レニエ、オリビエ・グルメ、ファブリツィオ・ロンジョーネ
原題:La fille inconnue
制作:ベルギー、フランス/2016
URL:http://www.bitters.co.jp/pm8/
場所:新宿武蔵野館

主人公の生活範囲内で繰り広げられるだけのコンパクトなストーリーをコンスタントに撮る監督の映画が大好きだ。例えばウディ・アレンとかケン・ローチとか。最近ここに、ベルギーのダルデンヌ兄弟が加わっていることに気が付いた。いや、『サンドラの週末』を観るまでは、日本で公開される映画を追いかけてはいたけれども、とりたてて、そんなに愛着を持った監督では無かったような気がする。でも、マリオン・コティヤールの演技にやられてしまった。彼女の演技を引き出したダルデンヌ兄弟を俄然注目するようになってしまった。

『午後8時の訪問者』も素晴らしかった。若い診療医を演じるアデル・エネルの周りで引き起こるちょっとした事件をサスペンス仕立てで描きながらも、そこから現在のベルギーが抱える社会問題が浮き彫りになって来る描写力はさすがだった。

ただ、とても細かいことだけど、一つだけ注目するポイントがあった。
アデル・エネルがワッフルを食べるシーンが出て来たのだ。

ベルギーと云えば、ワッフルだ。
そのベルギー・ワッフルにはブリュッセル・ワッフルとリエージュ・ワッフルの2種類あって、日本で良く見られる丸形(楕円)のものはリエージュ・ワッフルだそうだ。

あれっ? いつもベルギーのリエージュ(の近郊のセランという街)を舞台にしているダルデンヌ兄弟の映画にリエージュ・ワッフルが出て来たことがあっただろうか?
無かった気がする。

と云うようなことをTweetしたら、親切にも『午後8時の訪問者』の公式Twitterの人が答えてくれた。

ああ、そうだった。確かに『ロゼッタ』で主人公がワッフル屋で働くシーンがあった。でも、問題にしていたのは、ワッフルを食べるシーンがあったかなあ、だった。

ワッフルを食べると云う行為は、やはり、どこか、生活に余裕があるように見える。
たいした余裕では無いのかもしれないけれど、今までのダルデンヌ兄弟の映画には、そんなちょっとした余裕もない人物ばかりが主人公だった。だから、ワッフルを食べるシーンなんて無かったんじゃないのかなあ、とおもったまでだった。

『午後8時の訪問者』の主人公は、保険診察ばかりの開業医と云えども医者と云う高収入が得られる職業に就いている人物だったところが今までのダルデンヌ兄弟の映画とは違うところだった。だからワッフルを食べるシーンが出て来たのかなあ、なんて、ものすごく細かいところに目が向いてしまった。

ダルデンヌ兄弟をしっかりと注目しはじめたのは『サンドラの週末』からなので、もしかするとワッフルを食べるシーンを忘れていたりする可能性もある。もう一度、すべてを見返したいなあ。

→ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ→アデル・エネル→ベルギー、フランス/2016→新宿武蔵野館→★★★★

監督:チャン・イーモウ
出演:マット・デイモン、ジン・ティエン、ペドロ・パスカル、ウィレム・デフォー、アンディ・ラウ、ルハン、チャン・ハンユー、ジュンカイ
原題:The Great Wall / 長城 / 长城
制作:中国、アメリカ/2016
URL:http://greatwall-movie.jp
場所:109シネマズ木場

チャン・イーモウ監督が撮る映画なわけだから、てっきり万里の長城を舞台にした中世の史劇ではないかと勝手におもい込んで観に行ったら、なんとこれが怪獣映画だった。万里の長城は、中国神話の怪物「饕餮(とうてつ)」の攻撃から守るために作られたのだった。

「饕餮」と聞いて、たしか、小野不由美の「十二国記」のシリーズのどれかに出て来たんじゃないかとネットで調べたら、「風の海 迷宮の岸」の中で戴極国(たいきょくこく)の麒麟「泰麒(たいき)」が伝説の妖魔「饕餮」を自分の使令にするくだり(P243あたりから)があることがわかった。さらに「魔性の子」(こっちは読んでいない)にも出てくるらしい。で、その「十二国記」では「饕餮」を「すでに伝説の一部だとさえ信じられている妖(あやかし)」と表現していて、その姿は千変万化する、としていた。

ところが『グレートウォール』ではその「饕餮」を「十二国記」のような妖魔ではなくて、どちらかと云えば恐竜のような怪獣として描いていた。それが大量に押し寄せてくる様子はいかにもハリウッド的で、チャン・イーモウなんだからもっと東洋的な「妖(あやかし)」のほうが良かったんじゃないかとおもわざるを得なかった。

でも、それにひきかえ「饕餮」を迎え撃つ禁軍側のカラフルさは、まさにチャン・イーモウが得意とするところの原色を基調とした鮮やかな色使いだった。特に女性ばかりの軍隊「鶴軍」の目の覚めるような青が美しく、ジン・ティエンをリーダーとした彼女らが万里の長城から飛び降りるさまはカッコよくて、「饕餮」と死闘を繰り広げるシーンにはちょっと鳥肌が立つくらいだった。

チャン・イーモウにしては単純なアクション映画だったけれども、こちらで勝手に勘違いしていた映画のイメージとは良い方向にズレていたので、そこのギャップで充分に楽しめてしまった。やはり映画は事前に情報を入れなければ入れないほど楽しめる。

→チャン・イーモウ→マット・デイモン→中国、アメリカ/2016→109シネマズ木場→★★★☆