ダゲレオタイプの女

監督:黒沢清
出演:タハール・ラヒム、コンスタンス・ルソー、オリビエ・グルメ、マチュー・アマルリック、マリック・ジディ、バレリ・シビラ、ジャック・コラール
原題:La femme de la plaque argentique
制作:フランス、ベルギー、日本/2016
URL:http://www.bitters.co.jp/dagereo/
場所:新宿シネマカリテ

黒沢清監督がすべて外国人のキャストで全編フランス語で撮った初の海外作品。

黒沢清監督の映画はいつも評論家筋には好評で、映画を見ればその評価の高さはわからないでもないのだけれど、いやあ、面白かったあ! と、気持ちよくなって映画館を出ることがあまりない。それはなぜなんだろうといつも考える。自分にとって、いやあ、面白かったあ! と云える映画とは、プロットがぴったりとおさまって、そこに小道具が有効に使われていたり、役者の演技がそのプロットにしっかりとマッチしていたり、音楽が効果的に使われていたりと、そう云う部分に面白味を見いだす傾向にあるんだとおもう。黒沢清監督の映画の場合、いつも「霊」が主要な題材となるので、その「霊」の扱いの整合性が絶えず気になってしまう。主人公による主観の幻影なのか、登場人物全員の共同による幻視なのか、はたまた我々にはまだ理解することのできない「何か」なのか。そのあたりのことが自分の中できっちりと整理できないでいると、もやもやしたまま映画を見終えることになってしまう。

まあ、でも、そのあたりが曖昧でも、昔のゴシックホラーの映画のような、例えばジャック・クレイトンの『回転』のように、黒沢清の映画ならば『回路』のように、イメージ的にぞわーっと鳥肌が立つような怖さがあれば、それだけで面白さが出てくるとはおもうのだけれど、『ダゲレオタイプの女』はそれがあまりにも少なかった。背中からのショットで、一人では着る事の出来ない背中にジッパーやボタンのある服をコンスタンス・ルソーが着ているところにはちょっぴりゾクっと来たけど、そんな感じのシーンがもっと欲しかった。

→黒沢清→タハール・ラヒム→フランス、ベルギー、日本/2016→新宿シネマカリテ→★★★☆

淵に立つ

監督:深田晃司
出演:浅野忠信、筒井真理子、古舘寛治、篠川桃音、太賀、三浦貴大、真広佳奈
制作:映画「淵に立つ」製作委員会、COMME DES CINEMAS/2016
URL:http://fuchi-movie.com
場所:角川シネマ新宿

カンヌ映画祭に行った知り合いから、そのカンヌの「ある視点」部門で審査員賞を獲った『淵に立つ』を絶対に観るようにと指示されたので観てみた。

どんなストーリーなのかまったく知ることもなくこの映画を観たので、浅野忠信が登場した時点で、昔の西部劇の『シェーン』のような、「外」からやって来た部外者が次第に「中」に溶け込んで行って、しまいには「中」にあった問題点をも解決するほどの影響を残して静かに去って行くタイプの映画ではないかと勝手に推測して見始めていた。

ある意味、それは正解だった。古舘寛治の古い知り合いである浅野忠信がふらりとやって来て、すでに形骸だけの古舘寛治の家族に大きなショックを与えて、たとえそれが「後悔」や「自責の念」であったとしても血の通った感情をぶつけ合える家族に再生させて静かに去って行く。まるで善と悪とにきっちりと境界線が引かれていた古い時代のまやかしを取り去った『シェーン』のようだった。

でも、浅野忠信の演じる人物は何だったんだろう? と後から考えてしまう。キッチリとした服装と折り目正しいしぐさや言動から、たとえ過去に殺人を犯していたとしても、それをしっかりと反省をし、更生を済ませた人物のように見える。その反面、能面のような表情の乏しさからは、それがまやかしのようなイメージをも与える。一度だけ、冗談のような口ぶりながらも「なんでオレがお前じゃないのかと思う時がある。なんでお前だけ結婚して、セックスしまくって、子供を作ってんだろうと思うときがあるよ」と感情を爆発させる時があった。この時のみが浅野忠信を血の通った人間と感じる唯一の時だった。

あの公園での事件が「故意」ではなくて「過失」であったことを少なからず匂わせていることを考えると、おそらく、浅野忠信の演じる「八坂草太郎」と云う人物を単純な「悪人」にはしていなかった。自分が殺してしまった人物の遺族に真摯な手紙を書き、古舘寛治と筒井真理子の夫婦の一人娘にやさしくオルガンを教える姿はおそらくストレートな感情から来るものだとおもうし、だからこそ筒井真理子に対してストレートに欲情を催してしまう単純さも持ち合わせているし、内心には古舘寛治に対する不満も単純にくすぶっているんじゃないかと想像できる。

おそらく浅野忠信の演じる「八坂草太郎」と云う人物は、カリカチュアされているけど、悪人でもなく、かと云って善人でもなく、我々と同じようなフツーの人間だったんじゃないかとおもう。でもそんなフツーの人間の行う所業が不気味に見えることこそが、いまのネットのSNSにも云える本当の恐怖で、そんなフツーな人間によってもたらされる事件によって、死人のようだった古舘寛治はかえって生き生きと行動が活発となり、筒井真理子は誰もが不潔に見えてしまう潔癖症に陥ってしまうと云うように、その影響がどっちに転ぶかわからないような複雑な時代に我々は生きているんだという困難さがことさら際立って見えるような映画になっていた。

キリスト教の「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」の教えがところどころに顔を出す部分にも、この複雑な時代にとっての宗教の教えが、人びとがまだまだ無垢だったころの遺物でしかなくて、そこで説かれる単純な自己犠牲の説教だけでは自分自身を追い込むことにしかならないことを暗に示していた。でも、その単純さに感動を示す浅野忠信には、かえって時代遅れのヒーローとも見えてしまうところがこの映画の複雑さだった。

映画のラストで、筒井真理子が娘と一緒に絶望の淵に立った時に、隣に見えた浅野忠信の幻影に後光が差して美しく見えたのは、彼こそが二人を導く救世主をも意味しているようにも見えてしまった。映画のはじめに浅野忠信が登場した時点で、どこかにこのような結末を期待している自分がいて、やっとそのとおりの結果に導かれて、残酷な結末でありながら不思議な安堵感に包まれるラストシーンだった。

→深田晃司→浅野忠信→映画「淵に立つ」製作委員会、COMME DES CINEMAS/2016→角川シネマ新宿→★★★★

怒り

監督:李相日
出演:渡辺謙、宮崎あおい、松山ケンイチ、池脇千鶴、妻夫木聡、綾野剛、森山未來、広瀬すず、佐久本宝、原日出子、高畑充希、三浦貴大、ピエール瀧
制作:「怒り」製作委員/2016
URL:http://www.ikari-movie.com
場所:109シネマズ木場

李相日監督が吉田修一の小説を『悪人』に続いて映画化。

『悪人』についてはめずらしく小説を読んでから映画を観るパターンだった。その小説は、評判のわりにはそんなに面白いと感じることもなかったのに、もしかしたら映画化は面白くなるんじゃないかと期待を込めて観に行ったら、自分にとってはやはり小説と同じく人物描写に共鳴するところもなく、どこかボヤッとしていて面白く感じることはなかった。

もしかすると吉田修一の小説が、残念ながら自分には合わないのだろうと次の作品を読むこともなかったのだけれど、映画『怒り』の予告編に興味がそそられて、SNSでの評判もそんなに悪くないのでちょっと観てみた。

映画の冒頭で、閑静な住宅街で起きる殺人事件が示されて、その犯人の顔をこちらにはっきりと見せない段階で、犯人がいったい誰なのかで興味を惹きつける映画であることがわかるわけだけど、ああ、もうそんな犯人探しの映画は飽きたなあ、とおもいつつも、犯人を想像させる三人(松山ケンイチ、妻夫木聡、森山未來)の人物模様が三者三様で面白く、2時間20分と云う長さを感じさせない映画だった。

ただ、警察が作る犯人の顔のモンタージュ写真は、もうちょっと三人の顔の中間にするべきだったんじゃないのかなあ。どう見ても一人に偏りすぎている。それに、犯人の人物的背景が他の二人に比べてちょっとおざなりで、育ってきた環境や関わってきた人物が何も示されないので、ただの精神異常者としか捉えることが出来ないのが残念だった。

→李相日→渡辺謙→「怒り」製作委員/2016→109シネマズ木場→★★★☆

マルタ

監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
出演:マルギット・カルステンセン、カール・ハインツ・ベーム、ブリジット・ミラ、イングリット・カーフェン
原題:Martha
制作:西ドイツ/1975
URL:
場所:アテネフランセ文化センター

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの映画をあまり見てこなかったので、機会があればちょこちょこと拾ってる。今回はアテネフランセ文化センターで「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2016」が行われたので、今まで何となく気になっていた『マルタ』を観てみた。

昨年、イマジカBSで見た『ベルリン・アレクサンダー広場』の素晴らしさの余韻がまだ頭にあったので、その路線の腹積もりで『マルタ』を観たら、もっと単純な、サディスティックな夫(カール・ハインツ・ベーム)を持ったマルタ(マルギット・カルステンセン)の心理サスペンス的な要素が強い映画だった。そしてその夫のサディズム描写が、例えば陽に焼き過ぎた肌をいたぶるシーンとか、「ダムの建築方法」の本を読め! とか、微妙にピントを外した残酷さにもおもわず笑ってしまうほどだった。映画の最後のほうの、突然の夫の登場に恐怖のあまり叫んでしまうマルタには映画館内でさえ笑いが起きたほどだった。これはあまりにも怖すぎて笑ってしまうホラー映画の感覚かもしれない。

ファスビンダーの代表作とは云えないのかもしれないけど、夫の常軌を逸した行為に責めさいなまれるマルタの「受け」の描写が素晴らしく、そこを見るだけでも充分にこの映画を楽しむことができた。次のファスビンダーの映画は何が見られるのか楽しみだ。

→ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー→マルギット・カルステンセン→西ドイツ/1975→アテネフランセ文化センター→★★★★

スーサイド・スクワッド

監督:デビッド・エアー
出演:ウィル・スミス、ジャレッド・レト、マーゴット・ロビー、ジョエル・キナマン、ビオラ・デイビス、ジェイ・コートニー、ジェイ・ヘルナンデス、アドウェール・アキノエ=アグバエ、アイク・バリンホルツ、スコット・イーストウッド、カーラ・デルビーニュ、アダム・ビーチ、福原かれん、ベン・アフレック
原題:Suicide Squad
制作:アメリカ/2016
URL:http://wwws.warnerbros.co.jp/suicidesquad/index.html
場所:109シネマズ木場

マーベル・コミックのスーパーヒーローを原作とした映画群を「マーベル・シネマティック・ユニバース」と名前を付けて、主に「アイアンマン」「キャプテン・アメリカ」「マイティ・ソー」を中心として続々と公開されている。この「マーベル・シネマティック・ユニバース」の面白さは、それぞれのスーパーヒーロー映画が独立して存在しているだけではなくて、他の映画にもキャラクターをクロスオーバーさせて、一つの大きな世界を形成している点にある。その集合体のメインの映画を「アベンジャーズ」として、さらに「マーベル・シネマティック・ユニバース」のフラッグシップ的な映画として存在させているところも面白い。

アメリカン・コミックのもう一つの雄、DCコミックスも、このマーベル・コミックの成功にだまっていられなくなったのか「DCエクステンデッド・ユニバース」を打ち出してきた。その3つ目の映画がこの『スーサイド・スクワッド』だった。

「DCエクステンデッド・ユニバース」の映画は、『マン・オブ・スティール』も『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』も観てなくて、いきなりこの『スーサイド・スクワッド』を観てしまったわけだけど、ストーリーを理解するのにそれほど支障もなく、それなりに楽しめることができた。特に、マーゴット・ロビーが演じているハーレイ・クインが素晴らしかった。『ハーレイ・クイン』として、一人で看板を背負っても良いんじゃないかなあ。

とはいえ、もうイヤと云うほど「マーベル・シネマティック・ユニバース」の映画を観ているで、そのうえに「DCエクステンデッド・ユニバース」までも追いかけて行くのはちょっとキツいなあ。次の『ワンダーウーマン』を追いかけるのかどうかは不透明。

→デビッド・エアー→ウィル・スミス→アメリカ/2016→109シネマズ木場→★★★

オーバー・フェンス

監督:山下敦弘
出演:オダギリジョー、蒼井優、松田翔太、満島真之介、北村有起哉、優香、松澤匠、鈴木常吉、塚本晋也(声のみ)
制作:「オーバー・フェンス」製作委員会/2016
URL:http://overfence-movie.jp
場所:テアトル新宿

佐藤泰志の小説をまったく読んだことがないのだけれども、『海炭市叙景』と『そこのみにて光輝く』が映画化されて、映画評論家には好評を得るくらいの話題となって、でも公開の時にはその話題が耳に入ってこなかったから映画館に足を運ぶこともなく、なんとかWOWOWや日本映画専門チャンネルで追いかけることができた程度の興味で映画を見てみると、内容があまりにも辛気臭くて、まるで昔のATG映画を見ているようで、暗く、重く、見終わったあとの喪失感がはなはだしくて、いやなものを見たなあ、くらいの感想しか持てなかった。

この二つの映画のイメージから考えると、同じ佐藤泰志の小説なんだから、やっぱりその内容は日本の地方都市の持つ閉塞感あふれた行き場のないどん詰まりな状況の中でのあがく暗い人間模様しかあり得ないと想像できるけど、それを山下敦弘が監督したら、もしかすると、もう少しは人間の優しさにも焦点が結んで、あたりの柔らかい映画になっているのではないかとおもって期待を込めて観てみた。

オダギリジョーが演じている主人公の白岩義男を、すぐに暴力に訴えるような人間にすることなく、感情の抑揚をあまり付けずにフラットに描くことによって、どんなものをも拒否しているように見えるが故に相手を傷つけてしまう反面、見方によってはどんなものをも受け入れられる度量の深さみたいなものをも感じられて、忙しない都会では前者に、のんびりとした田舎では後者に見えるように設計しているところが山下敦弘らしいやさしさが見られたのが『海炭市叙景』や『そこのみにて光輝く』とはちょっと違う点だった。

ただ、そんなやさしさが含まれていたとしても、『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』に続けてこの『オーバー・フェンス』を観たとしたら、やはり重く落ち込んでげんなりしたかもしれない。ところが、あまりにもシンプルで、浅くて、感覚だけで押し通してしまう『君の名は。』を観たばかりだったので、なんだろう? かえって救われた気持ちになってしまった。絵空事は絵空事としてそれで楽しんでいれば良いんだけど、リアルな現実へ帰ることも時には大事だってことだとおもう。

キャラクターとしては、職業訓練校でオダギリジョーと一緒に学んでいる、老年に差し掛かろうとする鈴木常吉の役が良かった。学生の頃、建築現場へアルバイトに行った時に見たような、すぐに奇策に声をかけてくる古株でありながら管理職に付いていないようなオヤジな感じだった。

(追記)
映画の中で見せる蒼井優の鳥を真似る仕草は映画のオリジナルなんだそうだ。この鳥の仕草をすることによって蒼井優の「ちょっとイッちゃってる」度合いがアップしてしまっている。このシーンを入れた意味は何なんだろう? オダギリジョーが蒼井優に惹きつけられる要素にはなってなくて、かえって引いてしまう方向に向いているとはおもうんだけど、映画ではそうにはなっていなかった。そこがちょっと違和感があった。

→山下敦弘→オダギリジョー→「オーバー・フェンス」製作委員会/2016→テアトル新宿→★★★☆

君の名は。

監督:新海誠
声:神木隆之介、上白石萌音、長澤まさみ、市原悦子、成田凌、悠木碧、島崎信長、石川界人、谷花音、てらそままさき
制作:「君の名は。」製作委員会/2016
URL:http://www.kiminona.com/index.html
場所:109シネマズ木場

すでに公開してから1ヶ月以上も経って、興行収入が100億円を突破したとのニュースも飛び込んできて、それほどに大ヒットした映画を、生来のあまのじゃくな性格から、ふん、と簡単に邪険にするわけにもいかず、やっぱりここは大衆の多くに受け入れられているものをちゃんとこの目で確認しないといけないとおもって映画館で観ることにした。

これがおもったよりも面白かった。

日本のアニメーションの演出方法には、時にはその過剰さにうんざりすることが多くて、この『君の名は。』でもやたらと主人公がベラベラとしゃべって、ギャアギャアと騒ぐ騒々しさに辟易する部分もあるのだけれど、それを補って有り余るほどのロマンチックなストーリー展開には、そんな甘ったるい感傷に弱い自分のような性格の人間はコロリとやられてしまった。

過剰に感傷に訴えるストーリーって、『世界の中心で、愛をさけぶ』もそうだったけど、大ヒットする方程式のひとつで、それが「震災後」と云う時代の流れに合わせたストーリーと相まって、多くの人に受け入れられるムーブメントを作り出したのかもしれない。

テレビも含めると、日本で作られるアニメーションの数は尋常なくて、半端ない。その中から才能ある若い人たちが切磋琢磨して出てくる構図は、大庭秀雄監督の『君の名は』が公開された時代の日本映画界を見るようで、実写の日本映画界から見れば羨ましい。

→新海誠→神木隆之介(声)→「君の名は。」製作委員会/2016→109シネマズ木場→★★★☆

チリの闘い 第三部:民衆の力

監督:パトリシオ・グスマン
出演:サルバドール・アジェンデ
原題:La batalla de Chile
制作:チリ、フランス、キューバ/1976
URL:http://www.ivc-tokyo.co.jp/chile-tatakai/
場所:ユーロスペース

『チリの闘い』の「第三部:民衆の力」は、「第一部:ブルジョワジーの叛乱」や「第ニ部:クーデター」でも描かれていた労働者側の運動の部分だけを再構成してまとめたかたちをとっている。

1972年10月にアメリカが主導した右派の策謀によるトラック業者のストライキによってチリ国内の物流がマヒし、さらに商店の多くが商品を流通させない右派の策略に加担することによって、日用品や食料品が手に入らなくなった一般大衆の生活は大混乱に陥ってしまう。しかし、このことによってチリ各地の労働者たちに組織化する機運が高まり、地域労働者連絡会や地域部隊が結成されて行く民衆の労働運動がこの「第三部:民衆の力」の主題で、この労働者の運動の部分だけを切り取って見ると、アジェンデ政権とリンクした彼らの労働運動がチリを社会主義国家として成長させて行く過程のように見えてしまう。

ところが、実際にはそうならなかった。

そこには「軍部のコントロール」と云った労働運動とはかけ離れた次元の部分があって、その大きな力によって大上段から押さえつけられると大衆の労働運動なんてものは簡単に消し飛んでしまう。そのような空しい事実は史実としてわかってはいるけれども、でも、パトリシオ・グスマンが「第三部:民衆の力」として大衆の労働運動の部分だけをまとめたのは、やはり、そのような希望の萌芽が1973年のチリには実際にあったのだと強調したかった所為だとおもう。『チリの闘い』を観終える余韻としてはこれで正解だったとおもう。

→パトリシオ・グスマン→サルバドール・アジェンデ→チリ、フランス、キューバ/1975→ユーロスペース→★★★★

チリの闘い 第ニ部:クーデター

監督:パトリシオ・グスマン
出演:サルバドール・アジェンデ
原題:La batalla de Chile
制作:チリ、フランス、キューバ/1976
URL:http://www.ivc-tokyo.co.jp/chile-tatakai/
場所:ユーロスペース

1973年6月29日、チリの軍部と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃する。『チリの闘い 第ニ部:クーデター』はここからはじまる。しかし、まだ時期尚早とみた将校が多かったためかこのクーデターは失敗に終わる。

この最初の小規模なクーデターからピノチェト将軍がCIAの全面的な支援の下にクーデターを起こすのが1973年9月11日。そのあいだの約2ヶ月間の動向がこの『第ニ部:クーデター』に描かれていて、すでに史実としてチリのクーデターが成功することを知っている我々は、この2ヶ月のあいだにアジェンデ大統領が反共勢力に対して何の手だても出来ないままにジリジリと追い込まれて行く様子を暗澹たる気持ちで見て行くことになってしまう。それもはじめのころにはピノチェト将軍がアジェンデ大統領側の要人として加わっていたりするものだから、ますます大統領側の情報収集能力の乏しさに陰鬱な気持ちでもって映画を観ていかなければならない。

ソビエト連邦を代表とする社会主義国家は、社会主義体制を維持して行くための秘密警察が発達してしまって、民衆のための社会主義国家と云うよりも恐怖政治で民衆を従わせようとする全体主義国家のような様相を呈してしまったところが一番の問題だったのだけれども、でも、アジェンデのようにあまりにも社会主義の理想を追い求めてしまうと、秘密警察とまでは行かないまでも様々な情報を収集する機関に予算をつぎ込むことが出来なくて、反共勢力に対する抵抗ができないままに簡単に転覆させられてしまう。

映画のラストに流れるアジェンデ大統領の辞世の句のような最後の演説はその理想に満ちあふれている。

このあと、コスタ=ガヴラス監督の『ミッシング』に描かれているとおりに、左派弾圧の恐怖政治がはじまることがわかっているので、この演説の「歴史は我々のものであり、人民がそれを作るのです」の部分はことさらに辛い。

→パトリシオ・グスマン→サルバドール・アジェンデ→チリ、フランス、キューバ/1975→ユーロスペース→★★★★

チリの闘い 第一部:ブルジョワジーの叛乱

監督:パトリシオ・グスマン
出演:サルバドール・アジェンデ
原題:La batalla de Chile
制作:チリ、フランス、キューバ/1975
URL:http://www.ivc-tokyo.co.jp/chile-tatakai/
場所:ユーロスペース

昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の上映ラインナップに入っていたのに、全編で4時間23分と云う長尺(それにメイン会場ではないパイプイスの小屋)に恐れおののいて観ることをやめてしまって後悔していたパトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』が、おそらくいろいろな方面からの絶賛の声に後押しされたために、めでたくロードショー公開されたのでじっくりと吟味するためにもまずは第一部だけを観た。

1973年3月の総選挙からはじまる第一部は、アジェンデ大統領率いる左派の人民連合に投票するのか、キリスト教民主党と国民党の右派の野党に投票するのか、カメラが街に出てインタビューするところからはじまる。まずは公平性を期して、左派推しの人たちと右派推しの人たちを平等にインタビューするかたちで映画は進んで行くのだけれども、右派推しの人の自宅にカメラが入って行くと、調度品も立派な裕福な家の人であることがわかって来る。貧しい労働者は左派に、裕福な人たちは右派に投票する構図が見えてくる。

この選挙でアジェンデ大統領率いる人民連合は議席数を伸ばしはしたが、選挙以前にはアジェンデ支持だったキリスト教民主党が反アジェンデへと転向したために議会では議席数で劣勢に立たされて行く。そのために、与党の法案はことごとく否決され、物資が充分に民衆に行き渡らない経済悪化の状況を改善する手だてさえも頓挫するようになってしまう。

で、ここからがアメリカの関与が見え隠れしてくる。当時、第2のキューバが生まれることを危惧していたアメリカは、チリの社会主義政権をなんとかして倒そうとCIAを使っていろんな妨害を仕掛けてくる。キリスト教民主党が反アジェンデになったのも、右派にストライキやデモを行わせたのもアメリカ(CIA)の後押しらしいことが見えてくる。このことが『第一部:ブルジョワジーの叛乱』にはあますことなく記録されている。特に、銅山のストライキを行っているのは右派の一部の人間でしかないことを世間に解らせようと、左派の人たちの必死の姿が白黒のスクリーンいっぱいから溢れ出てくる。『第一部』のテーマは、労働者階級の人たちが必死にアジェンデ政権を擁護しようと走り回る姿だった。

いままでストライキと云えば労働者のものだと思っていたけれど、そのストライキを労働者たちを分裂させるための道具として使うなんてどこまで汚いんだCIA! と憤懣やる方ないおもいでまずは『第一部』を観終えた。

→パトリシオ・グスマン→サルバドール・アジェンデ→チリ、フランス、キューバ/1975→ユーロスペース→★★★★