網走番外地

監督:石井輝男
出演:高倉健、丹波哲郎、南原宏治、安部徹、嵐寛寿郎、待田京介、田中邦衛、潮健児、関山耕司、沢彰謙、風見章子
制作:東映/1965
URL:
場所:丸の内TOEI

高倉健が亡くなった。

映画の黄金時代から50年以上が経って、銀幕のスタアたちが鬼籍に入るサイクルになっているとは云え、やはり高倉健クラスの大スタアが亡くなるニュースを目にすると、えっ! とショックを受けてしまう。

高倉健の映画を初めて映画館で観たのは『幸福の黄色いハンカチ』(なんと『ロッキー』と2本立て!1978年5月4日丸の内松竹にて )だった。映画を映画館で数多く見はじめた当時、なぜか山田洋次の『男はつらいよ』シリーズをバカにしていて、あんな同じようなことを何度も繰り返しているようなマンネリ映画はジジババのもんだ、と、いま考えれば映画のことを何もわかってない幼稚な思考に捕らわれていた。そんな山田洋次に対する過小評価を一変させたのが『幸福の黄色いハンカチ』だったのだろうとおもう。めちゃくちゃ面白くて、ご多分に漏れずラストの黄色いハンカチが掲げられるシーンで感動してしまった。それは、当時はまだ良くわかっていなかったのだろうけど、監督のテクニックによるところのなせる技だったのだ。俳優の使い方も巧かった。高倉健はもちろんのこと、桃井かおりや武田鉄矢など、今まで気にも留めてなかった俳優に対する評価もがらりと変わるほどの素晴らしい映画だった。

高倉健に対するイメージは、その後ずっと亡くなるまで、『幸福の黄色いハンカチ』の時に植え付けられたままだった。「スジを通す男」だ。過去の映画を名画座やビデオ、DVDでたくさん観ても、それはまったく変わらなかった。仁侠映画ではもちろんのこと、大作の映画でも、晩年の映画でもそうだった。

ただ、なぜか『網走番外地』シリーズはまったく見てなくて、先日のテレビでの追悼放送で『網走番外地 北海篇』と『網走番外地 南国の対決』をはじめて見たばかりだった。そして今回の丸の内TOEIでの追悼上映で『網走番外地』と、3本を立て続けに見た。そこにはやはり「スジを通す男」がいた。『網走番外地』での網走刑務所に入所する時の、教育課長の関山耕司に自己紹介をするシーンでも、そのものズバリ、「俺は、スジが通らねえことが大嫌いなんです」と云っていた。

自分でも高倉健のようにスジを通したいとおもいつつ、でも、それにこだわると世渡りが難しくなって、妥協を余儀なくされてしまう。そんな、スジの通らないことをする自分に嫌気がさしたりもする。いま一度、高倉健の映画を見て、やはりスジを通そうと決意をするけど、ああ、どうかなあ。それを許さない難しい世の中だ。

→石井輝男→高倉健→東映/1965→丸の内TOEI→★★★☆

滝を見にいく

監督:沖田修一
出演:根岸遙子、安澤千草、荻野百合子、桐原三枝、川田久美子、徳納敬子、渡辺道子、黒田大輔
制作:「滝を見にいく」製作委員会/2014
URL:http://takimini.jp
場所:新宿武蔵野館

前作の『横道世之介』が面白かった沖田修一監督の新作は、7人のおばちゃんたちが山で迷うだけのストーリーだった。それも前作の160分の映画から一気に88分と云う短さの映画に切り替えて、職人監督が撮るようなプログラムピクチャーを作ったのはびっくりした。

映画が全盛期のころにはこのようなB級映画がたくさんあって、短期間で撮影して、90分弱の上映時間の中にきっちりと起承転結をまとめて、テンポよく笑ったり、泣いたりできる映画がどこの映画館でも2本立ての一つとして上映されていた。そんな懐かしきプログラムピクチャーたちをおもい出してしまった。最近、無駄に上映時間の長い映画がやたらと多いので、この映画はわざとそこに切り込んだような気もする。沖田修一監督はウディ・アレンのように、このくらいの尺の映画毎年一本くらいのペースで作っても良いんじゃないのかなあ。

無名のおばちゃん俳優たちも素晴らしかった。根岸遙子や荻野百合子が素人と云うからびっくりだ。

→沖田修一→根岸遙子→「滝を見にいく」製作委員会/2014→新宿武蔵野館→★★★☆

日曜日の人々

監督:ロバート・シオドマク、エドガー・G・ウルマー
出演:ブリギッテ・ボルヒャルト、ヴォルフガンク・フォン・ヴァルタースハウゼン
原題:Menschen am Sonntag
制作:ドイツ/1930
URL:
場所:本郷中央教会

ユダヤ人であるためにナチスから逃れてハリウッドに渡ったロバート・シオドマクと、F・W・ムルナウと一緒にハリウッドへ渡って「B級映画の王様」と呼ばれるようになるエドガー・G・ウルマーが、まだアマチュアだったドイツ時代に撮った『日曜日の人々』は、脚本がビリー・ワイルダー、撮影助手がフレッド・ジンネマンと云う、今から考えるととても豪華なスタッフの映画。

1930年ごろのドイツ映画と云えばフリッツ・ラングやF・W・ムルナウなどの表現主義の映画を真っ先におもい浮かべるわけで、この映画もその影響が多分にあるのかとおもって構えて見たらその気配はまったくなく、どちらかと云えば戦後イタリアのネオリアリズモのような映画だった。同時に、ところどころに当時のベルリンの人々の日常風景も挟み込まれ、一般の人々を正面から捉えたクローズアップなども一緒に挿入されて、ドキュメンタリー映画のような体裁の映画でもあった。

このようなドラマ部分とドキュメンタリー部分がミックスされた映画をどこかで見たよう気がして、映画的記憶にサーチをかけて答えを見つけようとしたけれどまったくわからず、家に帰ってからネットを駆使しながらおもいを巡らせていたら突然とおもい出した。ロバート・フラハティの映画だ!

ロバート・フラハティはドキュメンタリー映画の父と呼ばれ、2年に1回開催される山形国際ドキュメンタリー映画祭の大賞は「ロバート・フラハティ賞」と呼ばれている。そのロバート・フラハティの映画は『アラン』しか見たことがないんだけど、それがドラマのような、ドキュメンタリーのような映画だった。

さらにいろいろと調べてみると、フレッド・ジンネマンはロバート・フラハティに影響を受けているらしい。エドガー・G・ウルマーの師匠F・W・ムルナウはハリウッドに渡ってからロバート・フラハティと一緒に『タブゥ』を撮っている。おお、どんどんと繋がって行く。エドガー・G・ウルマーやフレッド・ジンネマンが当時、どれだけロバート・フラハティの映画を見ていたのかわからないけれど、何かしら影響があったんじゃないかと推測している。積ん読の状態のままにしている「フレッド・ジンネマン自伝」を早く読まねば。

本郷中央教会での『日曜日の人々』の上映は、ピアニストの柳下美恵さんが毎年行っている「聖なる夜の上映会」の8回目だった。古い教会の中でピアノ伴奏(+菊池かなえさんのフルート)付きのサイレント映画を観るのはなかなかお洒落な感じで毎回のリピーター客も多いらしく(漫画家の今日マチ子さんもそうらしい!)150席が満席だった。礼拝堂の椅子がちょっと固いので背中が痛くなってしまったのだけれど。

→ロバート・シオドマク、エドガー・G・ウルマー→ブリギッテ・ボルヒャルト→ドイツ/1930→本郷中央教会→★★★☆

紙の月

監督:吉田大八
出演:宮沢りえ、池松壮亮、大島優子、田辺誠一、小林聡美、近藤芳正、石橋蓮司、伊勢志摩、佐々木勝彦、天光眞弓、中原ひとみ
制作:「紙の月」製作委員会/2014
URL:http://www.kaminotsuki.jp
場所:ユナイテッド・シネマとしまえん

角田光代の小説「紙の月」は、原田知世主演ですでにNHKがドラマ化していて、それを何となくダラダラと、そんなに熱中することもなく見てしまった。だから、ぼんやりとストーリーを理解してしまったので、この映画を見る楽しみと言えば原田知世と宮沢りえの女優比較をするくらいしかないのかな、とおもっていたところにいきなり小林聡美が切り込んで来た。

宮沢りえが勤めている銀行の同僚で「お局」的な存在を演じている小林聡美は、おかっぱの髪形には乱れが一つもなく、仕事上の些細なミスも許さない何事にもキッチリとした性格で、同僚の女性の服装や装飾品の変化までチェックして、銀行員としての品行方正さに目を光らせている(と言うシーンは出てこないけど、大島優子の言動からそんな感じ)ようなカタブツの女性銀行員。この映画は、次第に変化して行く宮沢りえとこの小林聡美とを比較することにポイントを置いて、二人の対決をラストのクライマックスに持って来るような構成となっていた。このようなシーンはテレビドラマには無かった。いや、小林聡美が演じているキャラ自体が無かったような気がする。とすると、映画用の創作なのか。原作を俄然読みたくなってしまった。

小林聡美のセリフのシーンにはクローズアップを多用していて、表情をあまり見せない能面のような顔がスクリーンいっぱいに広がるのはインパクトがあった。そのあまりの強烈さに宮沢りえが霞んでしまったほどだった。いわゆる、主役を食ってしまっていた。

→吉田大八→宮沢りえ→「紙の月」製作委員会/2014→ユナイテッド・シネマとしまえん→★★★☆

6才のボクが、大人になるまで。

監督:リチャード・リンクレイター
出演:エラー・コルトレーン、パトリシア・アークエット、イーサン・ホーク、ローレライ・リンクレイター、リビー・ヴィラーリ、マルコ・ペレッラ、ブラッド・ホーキンス、ゾーイ・グラハム、チャーリー・セクストン、ジミー・ハワード 、アンドリュー・ヴィジャレアル、イライジャ・スミス、ニック・クラウス、トム・マクテイグ、スティーヴン・チェスター・プリンス、エヴィー・トンプソン、ジェニファー・グリフィン、タマラ・ジョレイン、テイラー・ウィーヴァー、ライアン・パワー
原題:Boyhood
制作:アメリカ/2014
URL:http://6sainoboku.jp
場所:新宿武蔵野館

12年ものあいだ同じ俳優、子役を使って、彼らの肉体的成長とともにストーリーを同時進行で進めて行く方法は誰もが考えつきそうだけれど、でも、そのコストや俳優の拘束期間を考えたら今まで誰もが手を付けなかった事だとおもう。それをリチャード・リンクレイターが『6才のボクが、大人になるまで。』で実現させてしまった。その冒険心が素晴らしい。

そして、そこまで苦労して作り上げた映画を実際に見てみると、ストーリーはフィクションでも肉体的な成長はノンフィクションで、まるでリアルな事が展開されているドキュメンタリー映画を見ているような感覚に陥って、まったく新しいジャンルの映画を見ているようだった。特に子役のエラー・コルトレーンやローレライ・リンクレイターが大きく成長して行く姿は、まるで自分の親戚の子の成長をポイント、ポイントで見て、わぁー、見ないうちに大きくなったねえ、と言いたくなるほどだった。彼らが成長とともに関わる小道具たち、iPod、ボンダイブルーiMac、ドラゴンボールZ、ブリトニー・スピアーズ、ハリー・ポッター、Halo、Wii Sports、Facebookなども、自分がそれに関わった時代をオーヴァーラップすることが出来て、さらにリアルさを倍増させてくれた。

イーサン・ホークやパトリシア・アークエットも、実際の子供の親としての成長、歳の取り方を見ているようで、とりわけパトリシア・アークエットは、最初のシーンの容姿が『トゥルー・ロマンス』の時とそんなに変わらなかったので、何となく今もそのような容姿のままなんじゃないかと勘違いしてしまって、それが映画を見て行くうちにどんどんと膨らんで行ってしまうので、ああ、歳月と云うものは厳しいもんだなあと痛感して行くのもドキュメンタリーっぽかった。

2時間46分の上映時間は映画としては長いけれど、ドキュメンタリー映画として見ればあたりまえの長さで、家族の一人一人が12年間に渡ってさすらう時間の中に身を置くことを考えれば決して長くなかった。最後に、ポンッ、と終わった時には、どこか寂しさを感じてしまった。

→リチャード・リンクレイター→エラー・コルトレーン→アメリカ/2014→新宿武蔵野館→★★★★

誰よりも狙われた男

監督:アントン・コービン
出演:フィリップ・シーモア・ホフマン、レイチェル・マクアダムス、ウィレム・デフォー、ロビン・ライト、グレゴリー・ドブリギン、ニーナ・ホス、ダニエル・ブリュール、ホマユン・エルシャディ
原題:A Most Wanted Man
制作:アメリカ・イギリス・ドイツ/2013
URL:http://www.nerawareta-otoko.jp
場所:新宿武蔵野館

フィリップ・シーモア・ホフマンが今年の2月2日に亡くなった。まだ46歳の若さだった。彼を意識し出したのは、おそらくポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』あたりだとおもう。そして『カポーティ』で決定的となって、『その土曜日、7時58分』『脳内ニューヨーク』『ザ・マスター』と彼の演技の鬼気迫る凄さに夢中になってしまった。特にポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』の演技はどこか異次元に行ってしまったかのような神々しさを感じて、この人、ちょっとヤバいんじゃないのか、とおもったくらいだ。それが的中してしまったかのように今年、薬物の過剰摂取で逝ってしまった。

そのフィリップ・シーモア・ホフマンの遺作(厳密に云えば『ハンガー・ゲーム3』になるのかな)は、彼としてはフツーの演技の映画ではあるけれども、ジョン・ル・カレが原作なので男の哀愁が甚だしく、亡くなってしまったフィリップ・シーモア・ホフマンに重ね合わせてしまって余計にしんみりしてしまった。まあ、ドイツのテロ対策チームを率いる人間にはまったく見えないんだけどね。ドイツ人にも見えないし、肉体的にも精神的にもギリギリのプレッシャーに耐えうる人間の体躯にも見えないし。

CIAに出し抜かれて作戦が失敗するフィリップ・シーモア・ホフマンの最後のセリフが「FUCK!」の絶叫だった。まるで亡くなった彼が自分の死に様について絶叫しているようだった。

→アントン・コービン→フィリップ・シーモア・ホフマン→アメリカ・イギリス・ドイツ/2013→新宿武蔵野館→★★★☆

ニンフォマニアック Vol.1

監督:ラース・フォン・トリアー
出演:シャルロット・ゲンズブール、ステラン・スカルスガルド、ステイシー・マーティン、シャイア・ラブーフ、クリスチャン・スレーター、ユマ・サーマン、ソフィー・ケネディクラーク、コニー・ニールセン、ジェームズ・ノースコート、チャーリー・G・ホーキンス、イェンス・アルビヌス、フェリシティ·ギルバート、イェスパー·クリステンセン、ヒューゴ・シュペーア、サイロン・メルヴィル、サスキア・リーヴス、ニコラス・ブロ、クリスチャン·ガーデビヨ
原題:NYMPH()MANIAC
制作:デンマーク/2013
URL:http://www.nymphomaniac.jp
場所:新宿武蔵野館

ラース・フォン・トリアーの前作『メランコリア』は、映画館で観た時にはそんなに気にも止める映画でもなく、ラース・フォン・トリアーにしては不快さが足りないな、と云う感想しか持たなかったのだけれど、その後なぜかジワジワと『メランコリア』への愛着が募り、WOWOWで再見した時にはその映画がすっかり好きなっていた。でもそれは、ラース・フォン・トリアーへの期待がしっかりと映像化された結果に対する愛着ではなく、映画の中で描かれる絶望のイメージが自分の中でおもい描いていたイメージとぴったりと合致していたことが時が経つにつれて次第に鮮明になって来たにすぎなかった。自分にとってラース・フォン・トリアーに対する期待とは絶えず『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のラストシーンなんだとおもう。あのラストシーンは私が見てきた映画史上最低だった。最低の最低の最低映画だった。だからこそ素晴らしかった。

今回はそんなラース・フォン・トリアーの最低映画に久しぶりに会えるのかな、と期待したけど、またちょっとはぐらかされてしまった気がする。特に「第3章ミセスH」は何なんだろう? 笑えるのだ。ラース・フォン・トリアーの映画で笑えるとはおもっていなかった。それもしっかりと笑わす工夫をしているコントのようだった。ユマ・サーマンに復讐劇をやらせるなんて、タランティーノのパロディなのか!

パロディの兆候は「第1章コンプリートアングラー」からあった。アイザック ウォルトンの名著「釣魚大全」を引き合いに出した色情狂成長記録は、フライ・フィッシングの作法とセックスするために男をピックアップする手法を重ね合わせたパロディのような体裁で、そこかしこに笑わせるような仕掛けを用意していた。この段階からして今回のラース・フォン・トリアーの映画に対して?マークが付いたのだけれど、それが「第3章ミセスH」ではっきりしたわけだった。うーん、ラース・フォン・トリアーに対して求めているのはこれではまったくない。どうしてこんな映画を撮ることになったのだろう。はたしてこんな気持ちでVol.2も観るべきか。どうしよう。

→ラース・フォン・トリアー→シャルロット・ゲンズブール→デンマーク/2013→新宿武蔵野館→★★★

雲晴れて愛は輝く

監督:ハワード・ホークス
出演:ジョージ・オブライエン、ヴァージニア・ヴァリ、ウィリアム・パウエル、トーマス・ジェファーソン、J・ファーレル・マクドナルド、フランシス・マクドナルド、ハンク・マン
原題:Paid to Love
制作:アメリカ/1927
URL:
場所:東京国立近代美術館フィルムセンター大ホール

今年の東京国際映画祭の一環として企画された「N.Y.近代美術館映画コレクション」には観たい映画がいっぱいあったけど、結局は体調を崩したこともあってこのハワード・ホークスのサイレント映画だけしか観ることができなかった。でも、そのたった1本の映画のピアノ伴奏が新垣隆と云う豪華さで、想像していたよりも生ピアノの心地良さにびっくり。最近よく生ピアノ伴奏付きのサイレント映画があちこちで上映されていたけど、これはもっと体験しておくべきだったと反省しきり。

このハワード・ホークスの監督としての4作目は、まるで教科書のような映画だった。物語の構成や場面展開、笑わせるツボを押さえた演出のどれをとっても基本となるような映画で、ハワード・ホークスのその後の綺羅星のごとく輝く映画群のスタートラインに立つ映画としても納得のできる映画だった。人物の動きで説明する必要のあるサイレント映画で培った演出術のベースがあるからこそ、例えば『リオ・ブラボー』での寡黙なジョン・ウェインの存在感を引き立たせることができるのだ。

自分の隣に座った学生とおぼしき人が暗闇の中で器用に、しきりにノートを取っていた。いつもなら映画を楽しんでいないそんな行為に憤慨するところだけど、このお手本となるような映画ならノートを取るのも当たり前だなと変に納得してしまった。

→ハワード・ホークス→ジョージ・オブライエン→アメリカ/1927→東京国立近代美術館フィルムセンター大ホール→★★★★

アバウト・タイム 愛おしい時間について

監督:リチャード・カーティス
出演:ドーナル・グリーソン、レイチェル・マクアダムス、ビル・ナイ、トム・ホランダー、マーゴット・ロビー、リディア・ウィルソン、リンゼイ・ダンカン、リチャード・コーデリー、ジョシュア・マクガイア、ウィル・メリック、バネッサ・カービー、トム・ヒューズ
原題:About Time
制作:イギリス/2013
URL:http://abouttime-movie.jp
場所:新宿武蔵野館

タイムスリップものの映画を観た時に、何よりもまずタイムスリップのルールが気になってしまう。そこに粗が目立つと一気に映画を見る気が失せてしまう。タイムスリップ映画の大前提としてタイム・パラドックスがあるので必ず矛盾があるわけだけど、その矛盾を意識させないようなキッチリとしたルールを作っている映画か、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のような勢いで見せてしまうような映画でなければ、どうしても途中で白けてしまう。

この『アバウト・タイム 愛おしい時間について』はそのルールが適当だった。

タイムスリップのルールとして、以下の事があったとおもう。

・タイムスリップの能力は男系に遺伝する
・暗闇の中で目をつぶって両手のこぶしを握りしめればタイムスリップできる
・未来へはタイムスリップできない
・自分に男系の子供が産まれたら、その時点の年齢以前にはタイムスリップできない

まず、大前提として「未来へはタイムスリップ出来ない」と掲げて置きながら、簡単にそれを破っている。ルールを決めて置きながら、どうしてそんなに簡単に反故にできるんだろう。いや、もしかして、あれは未来へ戻ったわけではなくて、過去へのタイムスリップを取り消したんだろうか。でも、そんなことが出来るなんて聞いてない!

この映画の分岐点とでも云える、妹が事故を起こす重要なシーンにこの矛盾を突きつけられてしまったので、その解釈をめぐって頭の中がフル回転してしまって、主人公の感情の機微にしっかりと感情移入するべきポイントをすっかり逃してしまった。

それから、「自分に男系の子供が産まれたら、その時点の年齢以前にはタイムスリップできない」は最初にキッチリと説明して欲しかった。ラストの感動を盛り上げるためにいきなりそんなことを云われても!

過ぎ去った時間が、それが自分にとって良い事でも悪い事でも、何ものにも代えがたい重要な一瞬であると云うことをタイムスリップを多用することによって明らかにして行く。映画自体の主題はとても共感できるものだっただけに、このルールの矛盾が残念すぎて。

→リチャード・カーティス→ドーナル・グリーソン→イギリス/2013→新宿武蔵野館→★★★

猿の惑星: 新世紀

監督:マット・リーヴス
出演:アンディ・サーキス、ジェイソン・クラーク、ゲイリー・オールドマン、ケリー・ラッセル、トビー・ケベル、ジュディ・グリア、コディ・スミット=マクフィー
原題:Dawn of the Planet of the Apes
制作:アメリカ/2014
URL:http://www.foxmovies-jp.com/saruwaku-r/
場所:新宿ミラノ

スウェーデン映画の『ぼくのエリ 200歳の少女』をハリウッドでリメイクした『モールス』が素晴らしかったマット・リーヴスが、今度は「猿の惑星」の新シリーズを撮った。

ドラマの構造としては往年の西部劇をおもい出した。エイプをインディアンに代えれば、1950年のデルマー・デイビス監督の『折れた矢』のストーリーとそっくりだった。ジェイソン・クラークがジェームズ・スチュアートで、エイプのシーザーがアパッチ族の大酋長コチーズで、シーザーに反旗を翻すコバが若いインディアンのジェロニモだ。まあ、このあたりの構造のドラマは、元を辿ればシェークスピアの「ロミオとジュリエット」になるのだろうけど、映画の原作になるピエール・ブールの「猿の惑星」が、第二次世界大戦中に日本軍の捕虜となった経験から書かれたのではないか(ピエール・ブールがそのことに言及したことはないらしい)と前作の『猿の惑星: 創世記』の公開時に話題になったことから、なんとなく、同じ有色人種であるインディアンのストーリーをおもい浮かべたのだった。

二つの対立軸があって、その中に穏健派と強硬派がいて、対立軸の双方に通じ合う人物がいるような構造のドラマが絶えず作られるのは、そこに映画を観ているもののエモーションを呼び起こしやすい構造があるからなんだとおもう。とは云え、そのような構造を持ってしても面白くない映画はいっぱいあるのだけれど、マット・リーヴスはさすがに巧かった。特にエイプたちのキャラクターをキッチリと描き分けて、それがストーリーにしっかりと効いているのが良かった。無残に殺されるアッシュがちょっと可愛そうだったけど。

→マット・リーヴス→アンディ・サーキス→アメリカ/2014→新宿ミラノ→★★★☆