ソニはご機嫌ななめ

監督:ホン・サンス
出演:チョン・ユミ、イ・ソンギュン、キム・サンジュン、チョン・ジェヨン、イェ・ジウォン、イ・ミヌ
原題:우리 선희
制作:韓国/2013
URL:http://www.bitters.co.jp/h_s/
場所:シネマート新宿

ホン・サンスに熱狂する人たちをTwitter上で見かけるようになって、これは一度観てみようかなとおもっていたところに、タイミングよくホン・サンスが2013年に撮った『ヘウォンの恋愛日記』と『ソニはご機嫌ななめ』が同時公開されたので、まずはソニのほうを観てみた。

そのほとんどがテーブルを挟んで左右に配置させた人物のワンシーン・ワンカットの会話劇。カメラもフィックスで、なぜか中途半端なズームやパンがある。それがホン・サンスのスタイルだった。アブデラティフ・ケシシュの『アデル、ブルーは熱い色』がクローズアップ多用の会話劇だったのに対して、ホン・サンスの場合は人物を同時にフレームに収めた固定カメラの会話劇で、どちらも会話主体の映画でありながらまったく趣が違うのが面白かった。固定カメラの会話劇がお金のかかってない自主映画を連想させて、素人くささを醸し出しているところも面白い。もちろん素人の映画じゃなくて、しっかりとした映画なので、そのアンバランスも楽しい。

『ヘウォンの恋愛日記』も観に行こう。

→ホン・サンス→チョン・ユミ→韓国/2013→シネマート新宿→★★★☆

アデル、ブルーは熱い色

監督:アブデラティフ・ケシシュ
出演:アデル・エグザルホプロス、レア・セドゥ、ジェレミー・ラウールト、カトリーヌ・サレ、オーレリアン・ルコワン、サンドール・ファンテック
原題:La vie d’Adèle – Chapitres 1 et 2
制作:フランス/2013
URL:http://adele-blue.com
場所:新文芸座

2013年の第66回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールを獲った映画で、観よう、観よう、とおもいながら、なかなか重い腰を上げることができずに9月にまでひっぱって来てしまって、やっと新文芸座で観た。

想像以上に面白かった。今年の百合ブームの締めくくりの映画としては最高だった。そこまでしつこく描写する必要はないよ、と突っ込みを入れたくなるレズのSEXシーンにはちょっと引いたけど、状況を説明するシーンを入れずに会話劇だけで組み立てて行くタイプの映画が好きなので、そのリズムに乗って3時間の映画を一気に見てしまった。アデル・エグザルホプロスの張りのある、ちょっとふっくらした肌も奇麗だし。

アメリカ映画ならセリフやテロップに説明が出てこなくても、映画を見て行くうちに何となくどこの都市が舞台なのかがわかって来るんだけど、さすがにフランスだとさっぱりわからない。あとからネットで調べてみたら北フランスのリールやランスがロケ地らしい。最初のシーンの、アデルが家から出た時に坂道の下に広がるランスの景色がめちゃくちゃ奇麗でとても行ってみたくなった。

アデル、ブルーは熱い色
(ロケ地はここ→ http://filmap.tumblr.com/post/89542163749/la-vie-dadele-chapitres-1-et-2-blue-is-the

→アブデラティフ・ケシシュ→アデル・エグザルホプロス→フランス/2013→新文芸座→★★★★

思い出のマーニー

監督:米林宏昌
声:高月彩良、有村架純、松嶋菜々子、寺島進、根岸季衣、森山良子、吉行和子、黒木瞳、杉咲花、大泉洋、安田顕
制作:スタジオジブリ/2014
URL:http://marnie.jp/index.html
場所:109シネマズ木場

スタジオジブリのカラーがあるとすると、それはやっぱり宮崎駿のカラーであって、女の子が主人公で、内面葛藤のモノローグがあって、自分の殻を打ち破って成長して行く過程に風変わりなキャラクターが絡んできて、最後はみんながハッピーになって大団円を迎える、と云うのがスタジオジブリの作品なんじゃないかとおもう。とすれば、それを受け継ぐ後継者は今となっては米林宏昌しかいなくて(ああ、近藤喜文!)、今回の『思い出のマーニー』もしっかりと宮崎駿を継承していた。

でも、そうなると、宮崎駿を越えることなんて並大抵の才能では無理なわけで、どうしても二番煎じ見られてしまう。この『思い出のマーニー』も、まあ、宮崎駿の亜流だ。ベースに宮崎駿があるので安心感はいっぱいだけど、どこに米林宏昌の色が出ていたんだろうかと考えると、うーん、たぶんどこにもない。

映画としては面白かった。その面白さはもしかするとストーリーによるところが大きかったのかも知れないけれど、それでも原作を日本に置き換えて、スタジオジブリの映画としてしっかりと再構築させた米林宏昌には才能はあるとおもう。今後もがんばって、なんとか宮崎駿を越えて欲しい。そのためには何か、しっかりとした米林宏昌の色を。

→米林宏昌→(声)高月彩良→スタジオジブリ/2014→109シネマズ木場→★★★☆

プロミス・ランド

監督:ガス・ヴァン・サント
出演:マット・デイモン、ジョン・クラシンスキー、フランシス・マクドーマンド、ローズマリー・デウィット、スクート・マクネイリー、タイタス・ウェリバー、ハル・ホルブルック
原題:Promised Land
制作:アメリカ/2012
URL:http://www.promised-land.jp
場所:新宿武蔵野館

『プロミス・ランド』はガス・ヴァン・サントが2012年に撮った映画で、このたび日本でもやっと公開されれる運びとなった。それなりに有名な監督の、これくらいのレベルの作品が日本では公開されなくなるのが一番怖い。でも、なんとなく、そうなって行く現実が…。

今回のガス・ヴァン・サントの映画は社会派ドラマだった。取り立ててガス・ヴァン・サントが撮るような映画ではなくて、スティーブン・ソダーバーグが撮っても良いような映画なんだけれども、それでもガス・ヴァン・サントがそつなく、丁寧に撮っている。時事ネタのシェールガスを持って来ているところも面白かった。

次世代エネルギーとして注目されている新しい天然ガス資源のシェールガスは、なぜか北アメリカに集中して土の中に眠っていて、世界の生産量の99.9%が北アメリカに集中している(Wikipediaより)。農業以外に取り柄のないアメリカの辺鄙な田舎にも、地下深くの頁岩(けつがん)層にシェールガスが多く眠っていて、今までは二束三文の価値しかなかった自分の土地が莫大な利益を生むこととなって、多くの農家が大金持ちになったらしい。

『プロミス・ランド』はそんなアメリカのとある田舎に、大手エネルギー会社の採掘権買い占め担当としてマット・デイモンが派遣される。映画の冒頭に、マット・デイモンが幹部候補に推されるシーンがまずはあって、おそらくはその幹部への推薦が有利になるようにと、簡単に莫大な利益を生む仕事をはなむけとしてプレゼントされたように見える映画の導入部だった。マット・デイモンはそこまで上層部に愛されていて、仕事の出来る人間なんだなあとおもわせる映画の始まりだった。

ところが、映画を見て行くうちに、マット・デイモンが幹部候補になるほど仕事が出来る人間にはまったく見えないことに驚いた。一緒に行動するフランシス・マクドーマンドのほうが有能に見えるし、シェールガス開発に反対する環境保護団体(に見える)のジョン・クラシンスキーにも行動力において圧倒的に負けていた。この男のどこが幹部候補なんだ! となってしまった。どうやら、バリバリの仕事人間が地方に派遣されて、その地の朴訥な田舎の人びとに感化されて、次第に人間らしさを取り戻して行く、と云う平凡なパターンの映画ではないらしい。

じゃあ、どんな映画なのかと云うと、そこへの疑問の一つのカギとしては、マット・デイモンがアイオワの田舎の出身で、子供のころにアイオワにまで進出してきた企業の工場が閉鎖したことによって田舎の人びとが貧乏で苦しんだことに言及するシーンが何度か出て来ることだった。おそらく、そんな自分の田舎がイヤで飛び出して、都会の大企業に就職したマット・デイモンの過去への回帰がこの映画のポイントで、幹部候補にまで昇りつめた男が、くしくも自分の田舎と似たような転換期に追い込まれている場所に派遣されたことから、あんなにイヤだった田舎に自分の気持ちを回帰させて、贖罪して行くことがこの映画の主題であることがだんだんと見えてくる。

となると「幹部候補」はどこに効いてくるんだろう? 人を押しのけてまでも自分の野心を叶えようとするプライドの高い「幹部候補」が田舎の純粋さに染まって行く落差を描くのならば「幹部候補」である意味があるのだけれど、自分の過去に回帰して行くだけの映画ならば「幹部候補」はいらなかった。環境汚染から来る「成長しきれていない牛」をおもわせるシーンもいらないし。

この映画を観て、ビル・フォーサイス監督の『ローカル・ヒーロー/夢に生きた男』をおもいだした。バリバリの仕事人間がスコットランドの田舎に染まって行く映画で、そこに登場する田舎の人びとも含めてスコットランドと云う土地がとても魅力的に映る映画だった。『プロミス・ランド』も、もうちょっとその田舎が魅力的に見えるような登場人物が必要だった。

→ガス・ヴァン・サント→マット・デイモン→アメリカ/2012→新宿武蔵野館→★★★☆

リアリティのダンス

監督:アレハンドロ・ホドロフスキー
出演:ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、イェレミアス・ハースコヴィッツ、アレハンドロ・ホドロフスキー、アクセル・ホドロフスキー、アダン・ホドロフスキー
原題:La danza de la realidad
制作:チリ、フランス/2013
URL:http://www.uplink.co.jp/dance/
場所:新宿シネマカリテ

東京国際ファンタスティック映画祭’86で観たアレハンドロ・ホドロフスキーの『エル・トポ』は衝撃的だった。1985年に第1回目が開催された東京国際ファンタスティック映画祭の興奮を再び体験できるんだと云う高揚感もあったのだろうけれど、アングラな前衛芸術に慣れていないウブな人間に『エル・トポ』の映像は、まるでカーニバルでのフリークショーを見ているような、日本だったらお祭りでのバケモノ屋敷を見るような、見てはイケないものをのぞき穴から覗いているような後ろめたさいっぱいの異様な興奮に支配された映像体験だった。

1970年に作られた『エル・トポ』から43年が経って撮られた『リアリティのダンス』は、この長い年月の隔たりを考えずにそのまま60年代、70年代のアングラ的なイメージが展開されることをアレハンドロ・ホドロフスキーに期待して見てしまったら、導入部からクリアな美しい現代アートのような映画になってしまっているのにちょっと裏切られた感じがしてしまった。でも、よくよく考えてみると、どんな映像もネットによってあからさまに公開されている現在、手足の無い男たちの集団が暴れるシーンも、妻が夫に跨がって小便をするシーンも、数ある現代的なパフォーマンスの一つに見えてしまうのはあたりまえで、時代の空気がその時に作られる映像のトーンをも決定してしまうんだなあと改めておもい知らされた。もうすでに60年代、70年代の前衛演劇など存在していなかったのだ。とすれば、もし寺山修司が生きていたとしたら、今の時代にどんな映画を撮っていたんだろう? この対談を読んで、遠い目になってしまった。

→アレハンドロ・ホドロフスキー→ブロンティス・ホドロフスキー→チリ、フランス/2013→新宿シネマカリテ→★★★☆

GODZILLA ゴジラ

監督:ギャレス・エドワーズ
出演:アーロン・テイラー=ジョンソン、渡辺謙、エリザベス・オルセン、ジュリエット・ビノシュ、サリー・ホーキンス、デヴィッド・ストラザーン、ブライアン・クランストン
原題:Godzilla
制作:アメリカ/2014
URL:http://www.godzilla-movie.jp
場所:109シネマズ木場

ハリウッド版「ゴジラ」がまたやって来た。前回のローランド・エメリッヒ版「ゴジラ」は、まるで『ジュラシックパーク』の延長線上のような恐竜映画で、「ゴジラ」と云える代物ではまったくなかった。で、今回はその反省もふまえて、日本の「ゴジラ」への敬愛の念を込めて作ってあるとの情報を得ての映画鑑賞だったけど、うーん、もちろんローランド・エメリッヒ版よりは断然良い。それは間違いない。でも、この映画の中の登場人物は、あまりにも活躍しなさすぎ。特にジュリエット・ビノシュやサリー・ホーキンスの女優陣の扱いが酷い。ジュリエット・ビノシュなんて出て来てすぐ死ぬだけ。そこにはいろいろと含みがあって、あとからジュリエット・ビノシュの死がストーリーに効いてくるのかとおもったら、それも全然なし。サリー・ホーキンスなんて渡辺謙のあとを追いかけてあたふたしているだけ。二人ともなんでこんな役を受けたんだろう。あまりにも酷いシナリオだ。

人間が描けていないから、反核のテーマも中途半端になって、そこから訴えるメッセージが何もない。あまりにも「ゴジラ」や「ムートー」を見せることに重きを置いてしまって、映画としてのバランスがとても悪い。

そんな「ゴジラ」や「ムートー」を見せることに腐心しているのに、クリーチャーデザインの酷さがさらに追い討ちをかける。「ゴジラ」なんて鴨川に打ち上がったオオサンショウウオのようだ。「ムートー」のデザインの適当さはエヴァンゲリオンの使徒のようだ。もっと「ラドン」に似せても良かったんじゃないかと。

オープニングシーンで、渡辺謙がヘリコプターから下りるシーンは、なんとなく『未知との遭遇』のフランソワ・トリュフォーをイメージさせて、芹沢博士=ラコーム博士なのか、と狂気したけど、どんどんと尻つぼみ。芹沢博士もおもわせぶりの発言をするだけで、まったく存在感なし。ああ、もっと人間を描いて欲しかった。

→ギャレス・エドワーズ→アーロン・テイラー=ジョンソン→アメリカ/2014→109シネマズ木場→★★☆

複製された男

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ジェイク・ギレンホール、メラニー・ロラン、サラ・ガドン、イザベラ・ロッセリーニ
原題:Enemy
制作:カナダ/2013
URL:http://fukusei-movie.com
場所:新宿シネマカリテ

ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画は、WOWOWで見た『灼熱の魂』に衝撃を受けて、さらに今年になってから映画館で観た『プリズナーズ』もまた素晴らしくて、今年のベストワンに推しても良いくらいの映画だった。今後のドゥニ・ヴィルヌーヴは注目だぞ、とおもっていたら、早くも次回作がやって来た。

『複製された男』と云うタイトルからSF映画だと勝手に推測していた。映画のあたまからクローンの話しであるとおもいこんでストーリーを追っていたら、どんどんと辻褄が合わなくなって来て、ああ、これはクローンの話しじゃないな、と気が付いたのは映画も半ば過ぎ。そこから一人の男のイメージが錯綜しているストーリーとして映画を捉えてはみたものの、細かいところがはっきりとしないまま、最後に大きな蜘蛛が出て来て突然終わってしまった。

このままではもやもやとしたままだったので「町山智浩の映画ムダ話⑧ 『複製された男(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督) 』」を200円払って聞いてしまった。(200円と云う値段付けが良い!)そうしたら細かいところまですべてが氷解。やっぱり町山さんは素晴らしい。

で、映画としてどうだったかと云われると、まあ、町山さんの云われるように類型の映画の域は出ないものの、でも、一人の男の内なる葛藤のイメージ化としては、ところどころにクローネンバーグやエゴヤンを見るようで、とてもカナダ的な乾いた殺伐さが自分にはとてもしっくりと来て気持ちよかった。なぜだかはわからないけど、トロント系の映画作家とはウマが合う。

→ドゥニ・ヴィルヌーヴ→ジェイク・ギレンホール→カナダ/2013→新宿シネマカリテ→★★★★

ジゴロ・イン・ニューヨーク

監督:ジョン・タートゥーロ
出演:ジョン・タートゥーロ、ウディ・アレン、バネッサ・パラディ、リーブ・シュレイバー、シャロン・ストーン、ソフィア・ベルガラ、ボブ・バラバン
原題:Fading Gigolo
制作:アメリカ/2013
URL:http://gigolo.gaga.ne.jp
場所:新宿武蔵野館

ストーリーの入り方はまるでウディ・アレンの映画のようだった。代々続いて来たブルックリンの本屋を潰してしまったウディ・アレンが、かかりつけの皮膚科の女医から「レズビアンのパートナーとのプレイに男を入れたい」と相談を持ちかけられる。ウディ・アレンは友人のジョン・タートゥーロをその男娼に仕立て上げるが、これがおもっていたよりも有閑マダムたちに人気となってしまって大成功。さあ、ここからが、旨い話は長く続かないのが世の常で、おもわぬ落とし穴にはまって転落へ向かってのドタバタがはじまって大騒動、となるのがウディ・アレンの映画で、軽快なテンポで笑わせてくれるのを期待するのが彼の映画だった。でも、ジョン・タートゥーロの映画はそうはならなかった。高名なラビの未亡人であるバネッサ・パラディを登場させて、厳格なユダヤ教徒であるがゆえのジョン・タートゥーロとの純愛へとストーリーは進んで行ってしまう。

となると、ウディ・アレンのキャラクターがウディ・アレンの映画に出てくるキャラクターそのものにしか見えないので、せかせかと動き回る道化のウディ・アレンは何のために存在しているのかまったくわからなくなってしまう。バネッサ・パラディに対してずっと想いを寄せているパトロール警官のリーブ・シュレイバーとのドタバタもウディ・アレンの映画ならば笑わせるポイントなんだろうけど、これがぽっかりと浮いてしまっていてまったく笑えない。そもそも笑う映画ではないのか? でもウディ・アレンの演技からすればウディ・アレンの映画のように笑いたいよなあ。それが笑えない苦しさ。なんとも中途半端な映画となってしまった。

→ジョン・タートゥーロ→ジョン・タートゥーロ→アメリカ/2013→新宿武蔵野館→★★★

南相馬の3日目は、相馬小高神社で行われる「野馬懸」を見て、浪江町の病院に努めている方の案内で、通行許可証のある車で浪江町の中へ。

野馬懸

野馬懸

野馬懸

野馬懸

野馬懸

請戸小学校
請戸小学校では、卒業式の最中に地震に会う。そして津波に飲み込まれる。生徒は全員退避して無事だったらしい。すべての時計は3時37分頃を指したまま。

請戸小学校

請戸の海岸
請戸の海岸。南に福島第一原子力発電所。

浪江町一望
浪江町の西病院から浪江町一望。

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