ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日

監督:アン・リー
出演:スラージ・シャルマ、イルファーン・カーン、アーユッシュ・タンドン、ゴータム・ベルール、アディル・フセイン、タッブー、シュラヴァンティ・サイナット、レイフ・スポール、ジェラール・ドパルデュー
原題:Life of Pi
制作:アメリカ/2012
URL:http://www.foxmovies.jp/lifeofpi/
場所:ユナイテッド・シネマとしまえん

今年の第85回アカデミー監督賞は、『ブロークバック・マウンテン』で一度授賞したことのあるアン・リーが二度目の授賞となった。アカデミー賞の投票は映画関係者によって行われるので、業界内の流言蜚語も含めたその場の空気に流されやすく、ある一定方向に票が流れてしまうことが多い。だから、好かれる人はとことん好かれているように見えるし、嫌われている人はとことん嫌われているように見えてしまう。今年も主演男優賞を獲ったダニエル・デイ=ルイスは史上初の3度目の授賞なのに対して、レオナルド・ディカプリオは今年はノミネートさえされなかった。監督についてもアルフレッド・ヒッチコックが獲れなかったように、評価の固まっている巨匠と呼ばれる監督が獲っていなかったりする。その点、アン・リーは、アジア系と云うハンデキャップがありながら、業界内でとても好かれている。それは、あの温和な雰囲気がなせる技なんだろうか。同じアジア系としてとても嬉しい。

もちろん人柄だけではなくて、技術的にも卓越している。この『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』も、限られたシチュエーションでのストーリー展開がとても巧く、下手に使えばあざとく映ってしまう眩いばかりの奇麗なCGグラフィックも、3Dを意識した的確なカメラワークによって感動を盛り上げている。特に、島いっぱいに溢れんばかりのミーアキャットをフレーム内に納めた俯瞰ショットは、もう、ぞわーっと鳥肌が立つくらいだった。それに、宗教の垣根や種の隔たりを越えようとする主人公“パイ”のひた向きな姿勢も、3Dによって広がった奥行き感とぴったりマッチしている。このようにテーマと3Dとがうまく織りなしている映画ならば3D映画を観ようとする気が起きるのに、あまりにも安易な3D映画が多すぎる。マーティン・スコセッシ監督の『ヒューゴの不思議な発明』と同じように、3D映画は力量のある映画監督だからこそ手に負えるもので、半端な映画監督が扱うものではないとこの映画を観てあらためて実感した。

→アン・リー→スラージ・シャルマ→アメリカ/2012→ユナイテッド・シネマとしまえん→★★★☆

影の列車

監督:ホセ・ルイス・ゲリン
出演:ジュリエット・ゴルティエ、イヴォン・オルヴァン、アンヌ=セリーヌ・オーシュ
原題:Tren de sombras
制作:スペイン/1997
URL:
場所:下高井戸シネマ

NHKアーカイブなどで、どこかの家庭で撮られた古い8mmフィルムを見ると、まったく知らない家族の映像なのに、そこに焼き付けられている過去がとても懐かしく、自分の記憶の一断面が映像化されているんじゃないかとおもう時がある。自分が生きてきた時代の映像ならもちろんのこと、例えば昭和初期の映像であったとしても、そこに映る着物姿の子供に自分を見たりしてしまう。おそらく映像に対する執着が人一倍強いので、そんなことが起こるのだろうとおもうのだけれど、だから過去の記憶や残された映像を使って郷愁を誘う題材の映画にとことん弱い。ヤノット・シュワルツ監督の『ある日どこかで』(1980)や大友克洋監修のアニメ映画『MEMORIES』の中の森本晃司監督『彼女の想いで』(1995)などがそれにあたる。神山健治監督の「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」シリーズにもそう云った題材のエピソードが多い。昨年のカン・ヒョンチョル監督の『サニー 永遠の仲間たち』もそうだ。

この『影の列車』もそのジャンルに属する映画ではないかとおもう。ただ、とりわけてストーリーがあるわけではない。1930年にフランスで実際に撮られた(とされる)家族のフィルムが延々と流れるだけだ。それも同じシーンを何度も何度も繰り返す。この執拗なまでの執着さは『シルビアのいる街で』と同じモチーフだ。ところが、この執拗さから不思議な感覚が生まれている。古いフィルムなので、ところどころに傷があり、酷いところでは映像が溶け出してしまっている。全体的にまだらになっている部分もある。何度も繰り返される映像の中に挟み込まれるこれらの不協和音によって幻覚的な作用を引き起こし、次第にその時代にタイムスリップしているような感覚にさえ陥ってしまうのだ。これこそ『ある日どこかで』のタイムスリップを実際に行っている感覚だ。

「映画」と云うよりも、どちらかと云ったらビデオ・インスタレーションに近いとはおもうのだけれども、でも、なんとも新しく、野心的で、挑発的な映画だった。

→ホセ・ルイス・ゲリン→ジュリエット・ゴルティエ→スペイン/1997→下高井戸シネマ→★★★☆

ルビー・スパークス

監督:ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス
出演:ポール・ダノ、ゾーイ・カザン、アネット・ベニング、アントニオ・バンデラス、スティーヴ・クーガン、エリオット・グールド、クリス・メッシーナ、アリア・ショウカット、アシフ・マンドゥヴィ、トニ・トラックス、デボラ・アン・ウォール
原題:Ruby Sparks
制作:アメリカ/2012
URL:http://movies.foxjapan.com/rubysparks/
場所:新宿武蔵野館

この映画は、例えばフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』のように、主人公の苦悩を解消させるために非現実的な状況を作って、その中へと追い込む映画ではあるとおもうのだけれど、そのファンタジーな部分がキャプラの映画とは違って、主人公の利己的な部分にだけ作用するので、まるでホラー映画のような醜悪さが画面を支配して観ていて辛かった。途中から、これはもう、とことんホラー風味にしてもらって、ポール・ダノの小説家がゾーイ・カザンのルビー・スパークスを殺してしまうくらいの残酷な結末にしてしまうほうが映画としては成立するんじゃないかとおもいはじめたくらいだった。

ファンタジーな映画の特異現象の部分をどんどんと怪奇のほうへ寄せて行くとホラー映画へと変貌して行く。ポール・ダノが演じている小説家の自己中心的な考えが爆発してルビー・スパークスの暴走を許すあたりはホラーのほうへと寄ってはいたが、でも、もちろんそのまま突き抜けずにファンタジーへと引き戻している。このあたりの境界線上でふらついている微妙な感覚が自分にはまったく合わなかった。

ハーヴェイ
1950年のヘンリー・コスター監督の映画『ハーヴェイ』がこの映画の中にセリフとして登場する。ジェームズ・スチュワートにしか見えない身長6フィートの“ハーヴェイ”と云う白ウサギを誰彼となく人に紹介していくさまはちょっと不気味ではあったのだけれど、でもしっかりとその加減を抑えてファンタジーな映画として穏やかな優しさを残していた。この『ルビー・スパークス』も『ハーヴェイ』くらいの加減の映画なら良かったのに。
→ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス→ポール・ダノ→アメリカ/2012→新宿武蔵野館→★★☆

アルバート氏の人生

監督:ロドリゴ・ガルシア
出演:グレン・クローズ、ミア・ワシコウスカ、アーロン・ジョンソン、ジャネット・マクティア、ブレンダン・グリーソン、ポーリン・コリンズ、ブレンダ・フリッカー、ジョナサン・リース=マイヤーズ、マリア・ドイル・ケネディ、ブロナー・ギャラガー、アントニア・キャンベル=ヒューズ、エメラルド・フェンネル、アニー・スターク、ケネス・コラード、マーク・ウィリアムズ
原題:Albert Nobbs
制作:アイルランド/2011
URL:http://albert-movie.com/
場所:TOHOシネマズシャンテ

映画女優としてのクレン・クローズは、デビュー作であるジョージ・ロイ・ヒル監督『ガープの世界』(1982)のジェニー・フィールズで、いきなり強烈な印象を見るものに与えた。ジョン・アーヴィングの小説が原作のその映画の中で、テクニック・サージェント(技術軍曹)との私生児“ガープ”を独特な方法で子育をてして行き、突然、自分をモデルにした小説「性の容疑者」を書いたことから女性解放運動家に祭り上げられて、そのために暗殺されてしまう女性を颯爽と、クールに演じていた。そのデビュー作の後、『ナチュラル』『危険な情事』と話題作に連続して出演したが、やっぱり『ガープの世界』のジェニー・フィールズの印象は強く、どの役を演じても違和感しか覚えなかった。

ジョン・アーヴィングの小説「ガープの世界」は、その中に含まれているいろいろな要素の一つに「ジェンダー」があって、主にその象徴として性転換者のロバータ(映画ではジョン・リスゴーが演じている)が登場するのだけれども、映画の中でクレン・クローズが演じたジェニー・フィールズも、ベッドの上の動けない負傷兵の上にまたがって、まるで女が男を襲うようにして子供を作ってしまう逸話が代表するように、一般的な男性と女性の区別には囚われない人物として登場している。結局、この人物の印象が強過ぎて、クレン・クローズ=性差のない人物、になってしまったので、『ナチュラル』の貞節な妻も『危険な情事』の強烈なストーカーもあまりにも正反対の人物を堅苦しく演じているように見えてしまった。

自分の見る最近の映画にクレン・クローズが登場することはめっきり少なくなってしまったが、未だにクレン・クローズ=ジェニー・フィールズのままだったので、昨年のアカデミー賞主演女優賞で男性を演じた『アルバート氏の人生』でノミネートされたと聞いた時、ああ、ついにクレン・クローズが帰って来たと嬉しくなってしまった。もちろん映画の中のアルバート・ノッブスがジェニー・フィールズを覆すようなことはなかったが、クレン・クローズの演技の巧さは際立っていた。不遇な生い立ちから男性として生きるしかなかったアルバート・ノッブスが、彼の実直で、計画的で、正確無比な性格からすれば、どう見てもそぐわない俗っぽい小娘を好きになってしまうと云う葛藤を静かに、切なく演じていた。

ジャネット・マクティア
ただ、この映画の一番の拾い物は、やはり男性を演じたジャネット・マクティアだった。まったく女優であるとは気付かず、着ている服の前をはだけて乳房を見せた時の衝撃と云ったら! グレン・クローズと一緒に女装(と云うか、これが正装なんだけど)をして浜辺を走るシーンの、まるで男が女装をしているような女性の服の似合わなさは素晴らしかった。
→ロドリゴ・ガルシア→グレン・クローズ→アイルランド/2011→TOHOシネマズシャンテ→★★★

LOOPER/ルーパー

監督:ライアン・ジョンソン
出演:ブルース・ウィリス、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット、エミリー・ブラント、ポール・ダノ、シュイ・チン、ノア・セガン、パイパー・ペラーボ、ギャレット・ディラハント、ピアース・ガノン、トレイシー・トムズ、ニック・ゴメス、マーカス・ヘスター、フランク・ブレナン、ジェフ・ダニエルズ
原題:Looper
制作:アメリカ/2012
URL:http://looper.gaga.ne.jp/
場所:新宿ミラノ1

タイムパラドックスを考えると、意識下で自分が存在していると認識している時間軸がたった一つのものではなくて、同時にパラレルに幾つもの時間軸が走っているとしか考えようがなくなってくる。この映画でも、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットが歳を取ってブルース・ウィリスになった時間軸と、そのブルース・ウィリスが過去に戻ってジョゼフ・ゴードン=レヴィットと対決する時間軸が同一のものであるはずがない。それが一緒ではパラドックスが生じてしまうから、平行して走る違う時間軸へ戻って来たと考えれば何となく自分の中で整合性を取ることができる。でも、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドクは、未来の自分と鉢合わせしたらタイムパラドックスの連鎖反応によって時空連続体がねじれて全宇宙が崩壊してしまうって言ってたなあ。まあ、タイムリープものの映画は勝手な理論展開の果てのストーリーだから、そんなところに整合性を求めてもしょうがないんだけど。

以下はラストのネタバレ。

と、そんなふうに自分の中で整合性を求めた結果、何とか落とし所を見つけて納得をしていたのに、ラストシーンでジョゼフ・ゴードン=レヴィットが自殺すると同時にブルース・ウィリスの存在が消えてしまってはその辻褄が崩壊。そのジョゼフ・ゴードン=レヴィットが歳を取ったあとのブルース・ウィリスは、その対峙しているブルース・ウィリスとはまた違う奴なんだけどなあ。

予告編ではこのラストシーンを「衝撃のラスト」とか謳っていたけど、いやいや、この映画の衝撃は、未来においてブルース・ウィリスの妻を殺すことになる子供、シドを演じたピアース・ガノンって子の演技でしょう。『エクソシスト』のリンダ・ブレアのような鬼気迫るものがあって、この映画の一番の見どころだった。

→ライアン・ジョンソン→ブルース・ウィリス→アメリカ/2012→新宿ミラノ1→★★★

ふがいない僕は空を見た

監督:タナダユキ
出演:永山絢斗、田畑智子、窪田正孝、小篠恵奈、田中美晴、三浦貴大、梶原阿貴、吉田羊、藤原よしこ、山中崇、山本浩司、銀粉蝶、原田美枝子
制作:「ふがいない僕は空を見た」製作委員会/2012
URL:http://www.fugainaiboku.com/
場所:新宿武蔵野館

予告編を観たかぎりでは、アニオタでコスプレ好きの主婦が男子高校生と不倫をして修羅場となってしまう映画としかおもえなかったのだけれど、それはこの映画(と云うか、おそらく原作)のほんの一部で、生命とか人間の本質とか、そんなところの壮大なテーマを扱っている映画だった。でも、そうだとすると、永山絢斗と田畑智子のセックス描写が長過ぎて、本題を語る上での導入部としてはあまりにも頭でっかちになってしまっている。だから映画の後半で、永山絢斗の同級生である窪田正孝や小篠恵奈が、優しさが弱さに繋がって意地悪さに転換したり、それを後悔してまた優しさに戻ったりする部分の、グラグラと揺れている心情描写がとても中途半端に見えてしまう。さらに、永山絢斗の母親である原田美枝子があまりにも息子の不倫騒動に介在しないので、そのクールさはトラブルに対応する当事者の心の持ち方としてはかっこ良さを感じるのだけれども、映画全体として見ればそれぞれのエピソードが分断してしまっているように見えてしまう。助産師である原田美枝子のサポートをする梶原阿貴のぶっきらぼうな快活さも、ものすごく良いいんだけど、とても笑えるんだけど、ああ、残念ながら、映画からは浮いてしまっている。

この映画は2012年のキネ旬ベストテンの7位にランクされたようなので、以上のような感想を持つ人はあまりいないのかもしれないんだけど、でも、やっぱり、うーん、いまひとつだよなあ。

→タナダユキ→永山絢斗→「ふがいない僕は空を見た」製作委員会/2012→★★

好きな小説が映画化され、喜んで劇場に足を運んでみると、ほとんどの場合においてガッカリする。小説にあったいろいろな要素がゴッソリそげ落ち、魅力ある登場人物が減り、原作と比べるとその映画化作品は何かスカスカした印象を必ずしも持ってしまう。いや、もちろんわかっている。たとえば文庫本300ページもの小説を忠実に映画化したら、まず尺がえらいことになってしまう。それに映画には映画の文法がある。小説ではサラリと描写されていた部分を膨らませて、観客に視覚的なエモーションを与えなければならない場合もあるわけだから、さらに上映時間が必要になってしまう。長編小説を上映2時間にまとめるには、ある程度小説をダイジェスト化せざるを得ない。そんなことはわかっているんだけど、でもそこに歴然と原作が存在してしまうわけだからどうしても比較をしてしまう。

長編小説を映画化するにはだいぶ無理がある。もし長編小説を映画化するのなら、一度すべてを解体して、一から組み立て直さなければならないだろう。でもそんなのは、小説の映画化作品じゃない。監督(脚本家)のオリジナルに近い。そんなことから、映画化をするなら短編小説だ、とよく言われる。映画監督のヒッチコックは以下のように言っている。

映画は長編小説や舞台劇とは似て非なるものだ。あえて比較するとしたら、映画にいちばん近いものは短編小説(ショート・ストーリー)だ。というのも、短編小説には原則としてただひとつのアイデアがあるだけでいい。そして、そのアイデアをドラマの頂点でいっきょに表現するというのが原理だからね。(『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』山田宏一・蓮實重彦訳、晶文社刊)

数ある映画の中から小説の映画化に成功した作品を考えるとなると、やっぱり短編小説の映画化だ。そして、まずまっさきに思い浮かべてしまうのが豊田四郎監督の『夫婦善哉』(1955年・東宝)。原作は織田作之助の短編小説。脚色は八住利雄。

大阪を舞台にしたこの小説『夫婦善哉』は、“ぼんぼん”の柳吉と“芸者”の蝶子の関係を淡々と描写している。ヒッチコックが「短編小説には原則としてただひとつのアイデアがあるだけでいい」というように、この短編小説は二人の関係を描くことだけにポイントを絞っている。ときおり、大阪の“うまいもん”を織り交ぜながら。

映画『夫婦善哉』では、この“ひとつのアイデア”がうまく視覚化されている。なんといっても森繁久弥と淡島千景というキャラクターを得たことがもちろん最大の要因だが、この二人が絡むセリフのやり取りも小説の雰囲気をうまく汲み取って映像化している。小説の中からビジュアルに適している部分をピックアップして拡大する。それが小説の映画化にはとても重要だ。

小説『夫婦善哉』の中に以下のくだりがある。

柳吉は二十歳の蝶子のことを「おばはん」と呼ぶようになった。

脚本家の八住利雄は小説のこの一行に、映画化へ向けてのビジュアル的な拡大要素を見出したのではないか。自分より十一歳も年下の二十歳の芸者を「おばはん」と呼んでいるのだ。このセリフだけで柳吉と蝶子の力関係が明確になっているのと同時に、この「おばはん」と呼ぶシーンを森繁久弥に演じさせたら良い絵になる。ここを強調すれば、映画の中心的イメージになる。そう脚本家の八住利雄は思ったのかも知れない。

そんな「おばはん」が出てくる小説の中のセリフは、

「おばはん小遣い足らんぜ」
「おばはん、何すんねん、無茶しな」
「く、く、く、るしい、苦しい、おばはん、何すんねん」
「おばはん、せせ殺生やぜ」
「ああ、お、お、お、おばはんか、親爺は今死んだぜ」

のたったの5箇所。しかし映画では、事あるごとに柳吉は蝶子のことを「おばはん」と呼ぶように脚色されている。森繁久弥と淡島千景が絡むシーンは、この「おばはん」をキーに、丁々発止、とても活動的なシーンの連続で、見るものをストーリーに引き込ませる。

「そんなに怒らんときイな、おばはん!」
「おばはん、あけてエな」 「何すんのや、おばはん! わい腹が減っているのや」
「おいおばはんわいが大事か親が大事か?」

そして、なんといっても映画のラスト近くに出てくる名セリフ。

「たよりにしてまっせ、おばはん」

小説のラストは、座蒲団という小道具を使って、柳吉が蝶子の尻に敷かれて行くだろうことを暗示して終わるのだが、映画ではこの「たよりにしてまっせ、おばはん」のセリフと、さらにラストに進んで、蝶子の「あんた、どうするねん、これから?」という問いに、柳吉の「任せるがな! たよりにしてまっせ」というセリフで、同じような行く末を暗示させて終わらせている。結局、柳吉が年下の蝶子のことを「おばはん」と呼ぶのは相手を頼りきっているからで、この「おばはん」というセリフこそが、小説においても映画においても全体のトーンを表していたのだ。

小説と映画は、似て非なるものである。しかし、その非なることを理解した上で、両方を比べて読んだり観たりすることは楽しいものだ。小説に比べて映画はつまんない、なんて言うのはやめて、映画ではどんな部分が強調されているのか、俳優がどんな風にキャラクターを作っているのか、そんな細かい部分に注目してみると、また違った楽しみ方ができるものである。

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織田作之助『夫婦善哉』の図書カード