監督:リドリー・スコット
出演:マット・デイモン、アダム・ドライバー、ジョディ・カマー、マートン・チョーカシュ、マイケル・マケルハットン、クライヴ・ラッセル、ハリエット・ウォルター、ナサニエル・パーカー、サム・ヘイゼルダイン、ベン・アフレック
原題:The Last Duel
制作:イギリス、アメリカ/2021
URL:https://www.20thcenturystudios.jp/movies/kettosaiban
場所:109シネマズ菖蒲

リドリー・スコットの『エイリアン』が話題になったころ、すぐさま彼の処女作が日本でも公開された。そのタイトルは『The Duellists』。邦題は『デュエリスト/決闘者』。時代は1800年ごろのフランス。粘着質のハーヴェイ・カイテルに目をつけられてしまったキース・キャラダインのふたりが決闘を繰り返すストーリーで、男の執念がぶつかり合う凄まじい映画だった。

その『The Duellists(デュエリスト/決闘者)』から44年。リドリー・スコットの新作として『The Last Duel』と云うタイトルの映画が公開された。邦題は『最後の決闘裁判』。時代は14世紀末の百年戦争中のフランス。親友であった従騎士のマット・デイモンとアダム・ドライバーのあいだに次第に溝ができて、マット・デイモンの妻ジョディ・カマーをアダム・ドライバーが性的暴行をしたことから裁判に発展。ふたりが決闘をすることでケリをつけることになる。

リドリー・スコットも83歳。処女作と似たような題材の映画を撮ることで、彼の映画人生の締めくくりをするつもりなのかと勘ぐってしまったが、マット・デイモンとアダム・ドライバーの決闘は、ハーヴェイ・カイテルとキース・キャラダインの決闘よりもさらに凄まじく、夫が負ければ生きたまま火あぶりの刑に処せられてしまう(どうしてそんなルールなんだ!)妻のジョディ・カマーの心理的動揺にも緊迫感があって、歳をとってもなお衰えを見せない、リドリー・スコットでしか撮れない鬼気迫る映画だった。

映画の構成としては、まるで黒澤明の『羅生門』(つまり芥川龍之介の小説「藪の中」)のような、マット・デイモン、アダム・ドライバー、ジョディ・カマーのそれぞれの視点で、決闘へと向かう顛末が繰り返して語られていて、『羅生門』ほどには食い違いを見せない、その微妙な視点の差異を見るのも楽しかった。

で、この3つの視点の中から、ジョディ・カマーがアダム・ドライバーに対して恋愛的な感情を持ったのか、がポイントにになって行く。当時は、セックスに快楽がなければ子どもはできない、と云う訳のわからない迷信がまかり通っていて、事件後に妊娠してしまったジョディ・カマーに対して、そのお腹の子どもはアダム・ドライバーの子で、快楽があったからこそ懐妊したのではないのか、と云う裁判での論点の解答を3つの視点から探って行くことができる。

つまりこの映画は、『デュエリスト/決闘者』と同じように男ふたりの決闘がメインの映画なのかとおもって観ていたら、そうではなくて、不必要にプライベートな部分にまでズケズケと踏み込んでくる女性へのレイプ裁判の理不尽さがメインのテーマだった。この映画で描かれる時代から長い時間を経ているのに、まるで現代の女性への人権を踏みにじったレイプ裁判を見ているようだった。

リドリー・スコットの、なおも衰えの見せない演出があってこその鬼気迫る人間模様が素晴らしかった。すぐさま次回作の『ハウス・オブ・グッチ』が控えている。楽しみだ。

→リドリー・スコット→マット・デイモン→ボイギリス、アメリカ/2021→109シネマズ菖蒲→★★★★

監督:ヤスミラ・ジュバニッチ
出演:ヤスナ・ジュリチッチ、イズディン・バイロヴィッチ、ボリス・イサコヴィッチ、ヨハン・ヘルデンベルグ、レイモント・ティリ、ボリス・レアー、ディーノ・バイロヴィッチ、エミール・ハジハフィズベゴヴィッチ、エディタ・マロヴチッチ、エミナ・ムフティッチ、トゥーン・ルイクス、ジョーズブラウアーズ、レイナウト・ブッスマーカー、エルミン・ブラヴォ、ソル・ヴィンケン、ミシャ・フルショフ、ユダ・ゴスリンガ、エルミン・シヤミヤ、アウバン・ウカイ
原題:Quo vadis, Aida?
制作:ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリア、ルーマニア、オランダ、ドイツ、ポーランド、フランス、ノルウェー/2020
URL:https://aida-movie.com
場所:新宿武蔵野館

バルカン半島の北西部に位置していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1991年に起きたユーゴスラビア紛争によって崩壊し、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年3月にボシュニャク人(ムスリム人)を中心に独立を宣言した。この独立に不満も持ったボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人民族主義者は、ボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」を設立。クロアチア人の民族主義者も「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」を設立して、この三者による対立がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。

セルビア共和国に張り出すようにあるボスニア・ヘルツェゴビナの東部地域は、セルビア人にとってはセルビア共和国と地理的に連続した領土としか考えられず、ボシュニャク人住民の殺害や強制追放を繰り返す事態が起きていた。国連によって安全地域と設定された都市スレブレニツァには、そんな迫害から逃れたボシュニャク人の多くが流れ込んでいた。

1995年7月11日、スレブレニツァには国連保護隊(UNPROFOR)のオランダ兵士が駐留していたにもかかわらず、セルビア人の武装勢力が乗り込んできた。そして、ボシュニャク人の成人男性や少年約8000人を連れ去って殺害し、遺体を集団墓地に埋めると云うジェノサイドが起きた。

ヤスミラ・ジュバニッチ監督の『アイダよ、何処へ?』は、この「スレブレニツァの虐殺」を描いている。

この映画の中でのセルビア人武装勢力の野卑な行動があまりにも目に余るのだけれど、いろいろ調べてみるとボシュニャク人側がセルビア人を虐殺する事件も起きていて、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ほど、人間が断ち切ることのできない憎しみの連鎖が繰り返されてしまった戦争だったとおもい知らされてしまう。とにかく、同じ街に住んでいた隣の家の親父が敵となって、そいつに殺されることって何なん? と日本人には想像もできない世界を描いている。

映画の最後には、一見、平和を取り戻したようにボシュニャク人もセルビア人も一緒に暮らしているスレブレニツァが描かれているのだけれど、ちょっとしたきっかけでまた憎しみの連鎖が繰り返される可能性が透けて見えて、なんとも微妙な綱渡りの世界にも見える怖いラストシーンだった。

→ヤスミラ・ジュバニッチ→ヤスナ・ジュリチッチ→ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリア、ルーマニア、オランダ、ドイツ、ポーランド、フランス、ノルウェー/2020→新宿武蔵野館→★★★★

監督:キャリー・ジョージ・フクナガ
出演:ダニエル・クレイグ、ラミ・マレック、レア・セドゥ、ラシャーナ・リンチ、ベン・ウィショー、アナ・デ・アルマス、ナオミ・ハリス、ジェフリー・ライト、クリストフ・ヴァルツ、レイフ・ファインズ
原題:No Time to Die
制作:イギリス、アメリカ/2021
URL:https://www.007.com/no-time-to-die-jp/
場所:109シネマズ木場

イーオン・プロダクションズが製作する「ジェームズ・ボンド」シリーズもこの『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』で25作目となるそうだ。その他の独立プロダクションが制作した『007/カジノ・ロワイヤル』(1967)と『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(1983)を合わせても、おそらくは27本全部見ているとおもう。

ショーン・コネリーが方向づけたジェームズ・ボンドのイメージは、その後のロジャー・ムーアやピアース・ブロスナンも壊さないように大切に受け継いでいたとおもう。でも、ダニエル・クレイグが演るのジェームズ・ボンドは、映画のVFX技術の進化も相まって、アベンジャーズ並みのタフで不死身なヒーローとしてまるっきりイメージが変わってしまった。と云っても、それが悪いわけではなくて、時代とともに変化して行くジェームズ・ボンドを見るのも楽しかった。

ただ、軽妙洒脱なジェームズ・ボンドだろうと、仏頂面の大柄なジェームズ・ボンドだろうと、その対立する悪役に魅力がなければ映画として面白みに欠けるのは云うまでもないことだった。今回の『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』のラミ・マレックが演じる悪役サフィンは、ジェームズ・ボンドとの対立構図が曖昧で、そこにクリストフ・ヴァルツの「スペクター」元首領が絡むので、なおさら対立構図が分散してしまった。この映画でダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドが終わるとするならば、ちょっと寂しい最後だった。

→キャリー・ジョージ・フクナガ→ダニエル・クレイグ→イギリス、アメリカ/2021→109シネマズ木場→★★★

監督:アンドリュー・レヴィタス
出演:ジョニー・デップ、美波、真田広之、國村隼、加瀬亮、浅野忠信、岩瀬晶子、ビル・ナイ
原題:Minamata
制作:アメリカ/2020
URL:https://longride.jp/minamata/
場所:109シネマズ菖蒲

日本の高度成長期に起こった公害病の中のひとつの水俣病のことは、多くの日本人にとっては遠い過去の出来事として忘れ去られてしまっているような気がする。自分はそうだった。でも本当はまだ闘っている人たちが大勢いて、すべてが終わったわけではないと云うことを、なんと、アメリカ映画でおもい知らされることになってしまった。

アンドリュー・レヴィタス監督の映画『MINAMATA-ミナマタ-』は、アメリカの写真家W・ユージン・スミスが日本人からの要請をきっかけとして、日本の水俣で起こっている水俣病のことを写真に撮りに行く過程が描かれている。すでに子供とも疎遠になり、酒に溺れた生活を送っていたユージン・スミスは、雑誌『ライフ』との対立もあって仕事に情熱を持てないでいたが、現地の水俣の人たちとの交流を進めて行くうちに次第に水俣病の恐ろしさを理解して、世界の人びとに水俣の事実を知ってもらうべく決定的な写真を撮ろうと気持ちが変化していく過程がこの映画のメインのテーマとなっている。

この映画は、その決定的な写真として以下のリンクにある「入浴する智子と母」をハイライトに持ってきていた。

http://reelfoto.blogspot.com/2012/07/w-eugene-smith-unflinchingly-honest.html

ただ、この『MINAMATA-ミナマタ-』ような社会的な問題を扱っている映画の場合は、いろいろな要素が複雑に絡み合っている場合が多いので、そのすべてのことを網羅しようとすると、長尺にでもしないかぎり、やや散漫な映画になってしまうのは残念なところだった。水俣病の患者を持つ家族のくらし、水俣病の原因を作った企業チッソへの抗議運動をする人たち、そしてユージン・スミス自身の仕事への葛藤など。どれも重要な要素になるので、たとえば水俣病を今もって解決されていない問題だと認識している人たちはこの映画を観て生ぬるいとおもうだろうし、自分としては「入浴する智子と母」の写真をメインとするのなら、もっとユージン・スミスと住民との交流を丁寧に描くべきだともおもってしまったし。

テレビ朝日系列のドキュメンタリー「テレメンタリー2020」で放映された「MINAMATA~ユージン・スミスの遺志~」は、ユージン・スミスと水俣の少女との交流を扱っていて、彼女の心の中を写真で映し出せない彼の苦悩も見えて素晴らしい内容だった。

『MINAMATA-ミナマタ-』も、これくらいにポイントを絞れていれば、もっと引き締まった映画になっていたのかもしれない。

まあ、でも、この映画のラストクレジットに流れる世界各地で起きている産業廃棄物による公害の写真とともに、水俣病はまだ終わっていないんだと認識させられただけでも、この映画を観てよかったとはおもう。

→アンドリュー・レヴィタス→ジョニー・デップ→アメリカ/2020→109シネマズ菖蒲→★★★

監督:今井友樹
出演:岡林利保、川村芳久、川村紗耶佳、北岡竜之、黒石菊野、黒石正種、繁村周、清和研二、田岡果穂、田岡佐奈、田岡重雄、高橋太知子、高橋寅井、高橋晴雄、高橋富士子、高橋正代、田村寛、田村亮二、筒井茂位、筒井政和、筒井良則、筒井千代、筒井信子、筒井秀、筒井藤代、濵田博正、古松信彬、山下剛司、和田章、和田末子、和田節子、和田光正、和田守正、和田博、和田福美子、スティールパンの演奏:上東パンの学校(高知カリビアンハーツ)の皆さん、ナレーション:原田美枝子
制作:シグロ/2021
URL:https://palabra-i.co.jp/asuwoheguru/
場所:ポレポレ東中野

先日、長らく在庫切れしていた民族文化映像研究所(民映研)総覧の新編集版作成を手伝うために、DVDで民映研の過去の映画を何本か見ることになった。その中に、『薩摩の紙漉』(1990年)、『小川和紙』(1992年)と云う映画があった。どちらも和紙の制作過程を追ったドキュメンタリーで、原料の楮(こうぞ)の皮から繊維質を取り出して紙漉きをする工程が丁寧に描かれていた。この2つの映画の他にもう一つ和紙を扱った映画『越前和紙』(1990年)があって、和紙づくりを追うことがまるで民映研のひとつのライフワークとしてのテーマとなっているようにも見えてしまう。

その民映研の所長であった姫田忠義さんに(最後に?)師事していた今井友樹監督の最新作も、なんと、和紙づくりを追うドキュメンタリーなのにはびっくりした。これは、もしかして、民映研のイズムを継承して行くことの、今井友樹監督なりの宣言なんだろうか? この映画を観ながらそんなことを考えてしまった。

地域の人たちが集まって楮(こうぞ)を刈り、それを束ねて蒸して、柔らかくなった皮(黒皮)を剥いで乾かす。乾燥したその黒皮を川に漬けて、柔らかくなった黒皮を削り、傷を取り、美しい繊維だけを選別して行く。この一連の共同作業は、日本の里山で行われていたものづくりの原風景にも見えるもので、それを記録として残そうとした民映研の活動はとても大切なものだったとおもう。だから、誰かが継いでいくべきものだったのではないかと過去の映画を見ておもっていた矢先の『明日をへぐる』の公開だった。

ドキュメンタリー映画を作る環境がますます厳しさを増して行くなかで、制作費を集めることに何かしらの話題性が必要になるのだとしたら、民映研が行ってきた活動を引き継いで行くことを謳ってしまったほうが良いんじゃないかとおせっかいにも考えてみたりしてしまった。

まあ、とにかく、どんな方向の映画を撮ろうと、今井友樹監督の次回作も楽しみです。

→今井友樹→ナレーション:原田美枝子→シグロ/2021→ポレポレ東中野→★★★☆

監督:濱口竜介
出演:西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、ペリー・ディゾン、アン・フィテ、安部聡子
制作:『ドライブ・マイ・カー』製作委員会/2021
URL:https://dmc.bitters.co.jp
場所:109シネマズ菖蒲

即興演技のワークショップに参加した人たちを起用した濱口竜介監督の『ハッピーアワー』を観たときに、役者としての演技力があまり備わっていないにもかかわらず、映画として面白いものに仕上がっていることに不思議でならなかった。映画の中での役者の演技って何なんだろうなあ、とあらためて感じざるを得なかった。たとえば小津安二郎やロベール・ブレッソンの映画を見たときに感じたことと同じこと。映画の中での俳優の演技に我々がおもうような「上手い演技」なんてものはまったく必要なくて、ストーリーが面白くて、その語り口にリズムがあれば、過剰な演出は必要ないし、過剰な役者の演技も必要ないと云うことを教えてくれる映画だった。

濱口竜介監督の新作『ドライブ・マイ・カー』は、なんと、その濱口竜介監督の演出法を垣間見ることができる映画だった。

西島秀俊が演じている舞台俳優で演出家の家福悠介は広島の演劇祭に招かれる。そこでプロアマ、国籍を問わずに、オーディションで選ばれた人たちを使ってチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を上演することになる。その最初の「本読み」の段階が、ああ、『ハッピーアワー』はこんなふうに作って行ったんだろうなあ、とおもえるシーンだった。

それぞれの役者に、ゆっくりと、感情を入れさせずに、まるで棒読みのようにセリフを読ませていく。そして一人のセリフが終わったら、机をポンと叩いて次の役者にパートを受け渡していく。それをリズム良く、何度も何度も繰り返えさせて、役者の体にセリフを染み込ませていく過程が描かれていた。これがつまり、濱口竜介監督が実践している演出方法なんじゃないかと想像してしまう。何度も普通に読ませることによって、過度な演技を省いて行って、自然なものに整えていく。

昔の映画監督とかも、相米慎二もそうだったのかなあ、まるでパワハラまがいに(いまの尺度で云えばパワハラ確定だ!)、役者に同じシーンのセリフを何度も云わせて、過剰な演技を取り除いて行く方法があった。それの、やさしいバージョンのような気がする。

斉藤由貴「頭もおかしくなりますよ」デビュー映画で浴びた相米監督の洗礼
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202108300000372.html

この『ドライブ・マイ・カー』での西島秀俊も、妻の霧島れいかに相手役のセリフだけをテープに吹き込んでもらって、車での移動時間にその録音テープを使ってセリフの練習をするシーンが出てくる。それはまるで、西島秀俊と霧島れいかが、『ドライブ・マイ・カー』の「本読み」を何度も行っているようにも錯覚してしまうシーンだった。

おそらくは、そのような方法を取って『ドライブ・マイ・カー』自体も作られて行ったんだとおもう。西島秀俊も、妻役の霧島れいかも、運転手役の三浦透子も、過剰な演技することなしに、フラットでありながらも、それでいて内面からにじみ出てくるような自然な演技をしていた。濱口竜介監督はそれを絶えず追求しているんだとおもう。

と考えると、岡田将生だけは、ちょっとだけ芝居がかっているように見えてしまった。まあ、役柄的にどうしようもなかったのかなあ。

反対に、広島演劇祭を主催している柚原を演じていた安部聡子は凄かった。彼女のような、何もかもを削ぎ落としてしまったかのような、能面のような演技が見られるのも濱口竜介監督作品の醍醐味だとおもう。

→濱口竜介→西島秀俊→『ドライブ・マイ・カー』製作委員会/2021→109シネマズ菖蒲→★★★★

監督:トマス・ビンターベア
出演:マッツ・ミケルセン、トマス・ボー・ラーセン、マグナス・ミラン、ラース・ランゼ、マリア・ボネヴィー、スーセ・ウォルド
原題:Druk
制作:デンマーク、オランダ、スウェーデン/2020
URL:https://anotherround-movie.com
場所:新宿武蔵野館

今年のアカデミー外国語映画賞はデンマークのトマス・ヴィンターベア監督が撮った『アナザーラウンド』が受賞した。その授賞式のときに流れた映画のダイジェスト版を見ると「呑んべえ讃歌」のような映画なんだろうなあとイメージできる内容だった。

実際に映画を観てみると、生徒や生徒の親からダメ教師の烙印を押されてしまったマッツ・ミケルセンがアルコールのちからを借りて、次第に
活気のある授業ができるようになる様子を描いていたので、途中までは「呑んべえ讃歌」の内容で間違いのない映画だった、ところが、酒っていうものは自分で飲む量をコントロールできなくなってしまう飲み物で、仲間の教師をも巻き込んで酒に溺れていく過程をも合わせて描いているところが単純な「呑んべえ讃歌」の映画にはしていなかった。

トマス・ヴィンターベア監督がアカデミー賞の受賞スピーチで、この映画の撮影開始から4日後に娘が高速道路での事故によって亡くなったことを明かしていた。その娘はこの映画のマッツ・ミケルセンの娘役が予定されていたということだった。

娘が亡くなる前の段階では「アルコールがなければ世界の歴史は違っていただろうという説に基づくアルコールの祝祭」がこの映画の主題だったらしい。ところが娘の死を受けて「人生に目覚めることについて」の要素が取り入れられて脚本は書き換えられて行ったということだった。つまり、なんとなくコメディっぽい含みも持たせて映画が進行して行くのに対して、途中から次第に深刻なドラマに発展して行くのは、こんなトマス・ヴィンターベア監督の実際の悲劇が関連していたんじゃないかと想像できてしまう。

自分としては、コメディっぽい流れのままに映画が帰結していたほうが好みの映画だったのかもしれないのだけれど、娘の死を受けて、のんきにコメディを作っている場合じゃなくなってしまった心情もわかる気がして、なんとなく複雑なおもいの残る映画となってしまった。

→トマス・ビンターベア→マッツ・ミケルセン→デンマーク、オランダ、スウェーデン/2020→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:細田守
声:中村佳穂、成田凌、染谷将太、玉城ティナ、幾田りら、森川智之、津田健次郎、小山茉美、宮野真守、森山良子、清水ミチコ、坂本冬美、岩崎良美、中尾幸世、佐藤健
制作:スタジオ地図/2021
URL:https://ryu-to-sobakasu-no-hime.jp
場所:MOVIXさいたま

細田守監督の『サマーウォーズ』を公開時に映画館で観たとき、その面白さに熱狂してすぐさまBlu-rayを買ってしまったほどだった。それは今でも変わらず、テレビ放映で見ても面白い作品だとおもう。ところが細田守監督のその後の作品が、『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』『未来のミライ』と、どれも面白くない。それぞれの映画の世界観が『サマーウォーズ』ほどにまとまってなくて、どちらかと云えば混乱しているように見えてしまう映画ばかりだった。こんな映画ばかり見せられると、もしかすると『サマーウォーズ』はたまたま上手くハマっただけの映画だったのか? の懸念さえ芽生えてきてしまった。

『サマーウォーズ』を何度も見ていると、ストーリーを強引に進めている部分が気になってくる。仮想世界のアカウントが国のインフラ制御にまで関わっているのはやり過ぎだし、そんな現実とシンクロしている世界にしてはセキュリティがユルユルだし、RSA暗号を紙とペンだけで解読するのも無理があるし、格闘ゲーのようなものをキーボードでコントロールさせるなんてあり得ないし、とにかく気になる部分をあげつらって行けば枚挙にいとまがない。もうちょっとディティールを詰めても良かった気がする。

でも、アニメーションとしてビジュアル的な派手さに重きをおいて、複雑な部分をハッタリで押し通したとしても、映画として面白ければそれはそれで良いとはおもう。それが『サマーウォーズ』では上手くハマっていた。おそらく他の作品では失敗していたんだとおもう。

今回の『竜とそばかすの姫』も『サマーウォーズ』と同じような仮想世界を描いていた。全体的なストーリー構成も『サマーウォーズ』と似通っていて、だからなのか今回もとても面白く映画を観ることができた。

ただ、今度ばかりは『サマーウォーズ』を教訓にして、少しばかり身構えて映画を観たために、映画としての弱い部分、強引な部分、雑な部分がはっきりとわかってしまった。この映画の一番の問題点は、主人公の「すず」が「目立たなくて魅力のない子」には見えなかった点だった。十分に可愛い子に見えるキャラクターデザインだし、負の要素として設定されているはずの「そばかす」でさえも魅力的なものに見えてしまった。

そして、クラスで一番の人気者の女の子「ルカちゃん」が「魅力的な女の子」に見えなかった点も大きな問題点だった。いや、そもそも、どんな顔立ちをしているのかまったく頭に入って来なかった。彼女の顔が明確に認識できていなければ、おもわず「ルカちゃん」の顔をアバターに設定してしまった仮想世界上の「すず(ベル)」が、あこがれの人間を具現化した、とは捉えることができない。二人の差が明確にわからなければ、「こんな普通の女の子がベルだったの?」の驚きにも共感できはしなかった。

他にもご都合主義的で強引な部分も多々あって、そんな雑な部分を許せない人は大勢いるのだろうなあ、とはおもう。それは細田守の他の映画にも共通するところだった。

とは云っても、自分としては、その細田守のハッタリで強引に押し通す部分は、映画としてリズムが生まれれば許せるのかなあ、とはおもっている。だから今回も細田守に惑わされて面白く映画を観ることができた。それが仮想世界の映画ばかりなのが残念なところなんだけど。

→細田守→(声)中村佳穂→スタジオ地図/2021→MOVIXさいたま→★★★★

監督:ケイト・ショートランド
出演:スカーレット・ヨハンソン、フローレンス・ピュー、デヴィッド・ハーバー、O・T・ファグベンル、オルガ・キュリレンコ、ウィリアム・ハート、レイ・ウィンストン、レイチェル・ワイズ
原題:Black Widow
制作:アメリカ/2021
URL:https://marvel.disney.co.jp/movie/blackwidow.html
場所:109シネマズ木場

アベンジャーズの中でもとりわけスカーレット・ヨハンソンが演じているナターシャ・ロマノヴァの立ち位置がよくわからなくて、どんな特質を持ってアベンジャーズに加わっているのか、「マーベル・シネマティック・ユニバース」シリーズの映画を見ているだけではまったくピンとこなかった。それを解決してくれる映画が『ブラック・ウィドウ』だった。

ケイト・ショートランド監督の『ブラック・ウィドウ』は、今まで「マーベル・シネマティック・ユニバース」シリーズの中でさらりと語られてきたロシアのスパイ養成機関「レッドルーム」のことをメインで取り上げている。世界各国から孤児を集めてきて、まるでリュック・ベッソン『ニキータ』のようなスーパー暗殺者に育て上げる組織が「レッドルーム」で、その孤児の中のひとりがナターシャ・ロマノヴァ(コードネーム「ブラック・ウィドウ」)だった。

つまりナターシャは、アベンジャーズの中では普通の人間であって、超人的なパワーを持ち合わせていない生身の人間でしかなかった。ただ彼女は「レッドルーム」でスパイとして厳しく鍛え上げられ、格闘技、射撃、アクロバットなどの様々なトレーニングも受けていて、他のメンバーとはまた違った角度の生身のスーパーヒーローの位置づけだったことがこの映画でよくわかった。

「マーベル・シネマティック・ユニバース」は、ドラマではすでに「ワンダヴィジョン」「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」「ロキ」が「フェーズ4」に突入しているけれど、映画ではこの『ブラック・ウィドウ』が初めて。うーん、ちゃんと「フェーズ4」を追っかけるために「Disney+」もサブスク契約しないといけないのか! もうサブスク契約したくない。

→ケイト・ショートランド→スカーレット・ヨハンソン→アメリカ/2021→109シネマズ木場→★★★☆

監督:エメラルド・フェネル
出演:キャリー・マリガン、ボー・バーナム、アリソン・ブリー、クランシー・ブラウン、ジェニファー・クーリッジ、コニー・ブリットン、ラバーン・コックス、アダム・ブロディ、マックス・グリーンフィールド、クリストファー・ミンツ=プラッセ、アルフレッド・モリーナ
原題:Promising Young Woman
制作:アメリカ/2020
URL:https://pyw-movie.com
場所:MOVIXさいたま

映画のテッパンのストーリーとして復讐劇がある。昔の西部劇なんて、多くが復讐劇だった。日本の時代劇だって、任侠映画だって、めちゃくちゃ多い。でも、これだけ同じような映画を見せられれば飽きちゃうのかと云えば、たとえ似たような復讐ネタを繰り返されても、ラストに主人公が復讐を果たすとスッとする。復讐相手がクソ野郎であればあるほど痛快だ。だから今でも復讐劇の映画は多い。

が、時代はいろいろと変わってきていて、単純に復讐劇を見せるだけではいかなくて、ひとひねり、ふたひねり、ストーリーに変化球を加えなくてはいけなくなって来ている。

エメラルド・フェネル監督の『プロミシング・ヤング・ウーマン』も単純に云えば復讐劇だった。

キャリー・マリガンが演じているカサンドラ・トーマス(キャシー)が医学部在籍中に、親友のニーナが同級生にレイプされるという事件が起きる。ニーナはその事件の後に心を病んで自殺してしまう。親友の自殺をきっかけに医学部を退学したキャシーはニーナをレイプした同級生に復讐を果たそうとする。

ストーリーを要約するとこんな感じなんだけど、この映画の面白いところは、導入からして、なぜニーナがコーヒーショップの店員に身をやつして、そして夜の顔を持って男たちに復讐を重ねているのか、それはどんな復讐なのか(殺しているのか? あそこをちょん切っているのか?)なんの説明もなしに見せてくるところだった。さらにストーリーの核心に迫っても、ニーナがレイプされるシーンも、ニーナがどのように亡くなったのかも、なぜ亡くなったのかも、まったく出てこない。説明もない。映画を観ていくうちに、おぼろげながらにわかってくるだけだった。

最近の映画はやたらと説明が多い。セリフでベラベラと説明しちゃうような映画もある。ああ、でも、映画は映像で見せてくれるのが一番だ。サイレント映画に近いかたちで映像で見せてくれるのがベストだ。そういった意味ではエメラルド・フェネル監督の『プロミシング・ヤング・ウーマン』は素晴らしかった。

そして、この公正・公平の時代に、復讐する側にも罰を用意しなければならなくなってきている。そういった意味でも『プロミシング・ヤング・ウーマン』は上手くストーリーを展開していた。

同じような復讐劇でも、やりようによっては無限大に広がることを示してくれる映画だった。

→エメラルド・フェネル→キャリー・マリガン→アメリカ/2020→MOVIXさいたま→★★★★