監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:エイミー・アダムス、ジェレミー・レナー、フォレスト・ウィテカー、マイケル・スタールバーグ、マーク・オブライエン、ツィ・マー
原題:Arrival
制作:アメリカ/2016
URL:http://www.message-movie.jp
場所:109シネマズ菖蒲
最近の一番のお気に入りの監督であるドゥニ・ヴィルヌーヴがSF映画を撮ったとの情報がずいぶんと前から流れていた。その映画『メッセージ』がやっとのことで日本公開となったので、いつもならグズグズとしていて公開終了も押し迫った頃合いでしか観に行かないのに、いてもたってもいられないので公開1週間にしてさっそく観に行ってしまった。
予告編を見たかぎりの印象では、地球人と得体の知れない異星人とのコンタクトの映画だった。まあ、たしかにその通りではあったのだけれど、映画の最初のシーンからして、今までの似たような映画とは微妙に趣が違うことがわかって来る。異星人とのコンタクトと同時に、エイミー・アダムスが演じている言語学者ルイーズ・バンクスの回想がところどころに差し込まれることによって、もっと、なにか、彼女自身のパーソナルな映画でもあるとの印象を与えるのだ。
以下、激しくネタバレ。
その回想はおもに彼女と娘との想い出に費やされていて、夫は登場しない。おそらくは、娘が幼いころに別れてしまったのではないかとの想像ができる。そして、娘が抗がん剤治療を受けているシーンが差し込まれるに至っても、夫は登場しない。娘が死に際しているのに現れない父親にはどんな事情があるんだろう? もしかすると亡くなってしまっているのだろうか? とのおもいが立つ。
ここが、この映画の「仕掛け」の一つだった。夫(父親)を見せないのは、のちに映画的な効果を引き立たせるためだった。
エイミー・アダムスが演じるルイーズ・バンクスがチームを組んで異星人の「文字」の解明を一緒に行うのはジェレミー・レナーが演じる物理学者イアン・ドネリーだった。言語学の観点からと、この宇宙に普遍的に存在する物理学(数学?)的な観点から解明を行うためにコンビを組んでいたのだ。この二人の会話の中に、エイミー・アダムスが自分の娘の話題を持ち出したことから、ジェレミー・レナーが「えっ? 結婚してたの?」と疑問を投げ掛けるシーンがあった。なんだ、この二人、コンビを組んでいながらパーソナルな世間話は何もしてないのか? とおもったのと同時に、あっ! と啓示のような衝撃を受けた。
もしかすると、今までのものは回想ではなかったのか? じゃあ、なんなんだ? これから起こることなのか?
エイミー・アダムスが異星人とコンタクトを行ううちに、徐々に、未来を瞑想するようになっていった事実をこの映画では回想のように見せていたのだ。まるで『惑星ソラリス』の海のように、得体の知れない異星人から影響を受けた結果だった。
当初から彼らが地球人たちに「武器を与える」との言葉を発していることが解明できていたけど、「武器」が何を意味するのかはわからなかった。その「武器」とは、つまり、未来を見ることができる能力だったのだ。それを彼らはエイミー・アダムスに与えたのだった。彼女はその能力を使って、先走った中国が異星人たちに核攻撃を仕掛けることを未然に防ぐことが可能となったのだった。
映画のストーリーは、まあ、こんな感じで進んで行き、予想通りにエイミー・アダムスの夫がジェレミー・レナーであることも示される。
でも、このストーリーだけでは、なぜ、異星人たちが地球へ来たのかがよくわからなかった。それは「3000年後に地球人に助けてもらうため」とのことらしいが、エイミー・アダムスに「武器を与える」行為が、いったいどのようなかたちで彼らの助けとなるのかがまったく想像がつかなかった。
その理由を解明したくて、さっそくテッド・チャンの原作小説を読んでみた。タイトルは「Arrival」ではなくて「あなたの人生の物語」だった。それも短編小説だった。
小説では映画よりも詳しく異星人(ヘプタポッド)とのコンタクトの過程が描かれていた。まず、ヘプタポッドたちは、地球人と違って、発話する言葉と書く文字とがまったくリンクしていない言語体系を持っていることがわかる。映画で、タコ墨みたいなものが形作る円環の文字が書き文字(ヘプタポッドB)だった。そして彼ら(”それら”)は、ものごとを捉えるときに、地球人にとって慣れ親しんだ時間経過とともに変化する物理現象ではなくて、ある一定の期間にのみ作用する「原因と結果を同時に認識する」物理現象をとても好んでいることもわかってくる。
この「原因と結果を同時に認識する」物理現象を説明するために小説では「フェルマーの原理」が例として取りあげられている。「フェルマーの原理」とは「光は進むのにかかる時間が最小になる経路を通る」ことらしい。このことは、つまり、小説の中でルイーズ・バンクスが云うように「光線は動きはじめる方向を選べるようになるまえに、最終的に到達する地点を知っていなくてはならない」ことだった。うーん、この現象が実際の生物の思考過程に入り込む方法がまったく想像できないけど、さらに小説では演劇的な「パフォーマンス」をも例にあげている。演劇は、映画もそうだけど、台本や脚本でストーリーの「原因と結果」がすでに設定されていて、その予めわかっているストーリーを我々は観て行く(認識して行く)のだと。
この小説のポイントは、つまり、地球人と”それら”の認識方法の違いを見せることだった。そしてルイーズ・バンクスが”それら”の「書き文字(ヘプタポッドB)」を習得することによって、次第に自分の思考にも「原因と結果を同時に認識する」意識が芽生えてきて、自分の未来をも見えるようになって行く、と云うものだった。この思考過程の変化を見せることのみが小説の主要なテーマなので、なぜヘプタポッドたちは地球に来たのか? なんてものはどうでも良かった。いや、”それら”は、目的のために地球に来て何かの結果を得る、と云うような「逐次的意識」でもって行動はしていなかったのだ。
でも、映画という視覚的な媒体は、そのような思考的な違いをビジュアルにして見せることに長けていない。だから、エイミー・アダムスとジェレミー・レナーの関係に映画的効果をしくんだり、なぜヘプタポッドたちは地球に来たのか? の説明をまがりなりにも入れたり、原作にはまったくない中国が異星人たちに核攻撃を仕掛るくだりを入れたのだった。
それに、この人のブログを読んで、ああ、そうか! と、もう一つの映画的な仕掛けに納得した。
「那珂川の背後に国土なし! : スクリーンの中のスクリーン ヘプタポッドと人間を隔てているもの」
確かに映画の中ではエイミー・アダムスたちとヘプタポッドのあいだに透明な仕切りガラスが設置されていたけど、小説にはそのような記述はなかった。彼女の住む部屋にある大きなガラス窓も小説にはなかった。そこに演劇的な舞台を設けて、ヘプタポッドたちの認識方法を隠喩させていたのだった。
テッド・チャンのSF小説「あなたの人生の物語」はとても刺激的な小説だった。そして、ドゥニ・ヴィルヌーヴは、その小説をうまく映像化していたとおもう。ドゥニ・ヴィルヌーヴは、やっぱり、最近の一番のお気に入りの監督だ。
いやあ、この映画はもう一度観ないと! もう一度観ると云うことは、つまり、すでにストーリーがわかっているので、ヘプタポッドの思考と同じ作用を行うことになるのか?
→ドゥニ・ヴィルヌーヴ→エイミー・アダムス→アメリカ/2016→109シネマズ菖蒲→★★★★