監督:ダンテ・ラム
出演:エディ・ポン、ショーン・ドウ、チェ・シウォン、ワン・ルオダン、アンドリュー・リン、オーヤン・ナナ、カルロス・チャン
原題:破風 To the Fore
制作:香港、中国/2015
URL:http://shippu-sprinter.espace-sarou.com
場所:新宿武蔵野館

ダンテ・ラムの映画を今回はじめて観た。

『疾風スプリンター』は自転車ロードレースの世界を舞台にした映画で、そのレース・シーンはウェアラブルカメラを使った登場人物の主観撮影や自転車の隊列を上空から収める俯瞰カメラなどにとても迫力があって、その自転車レースのシーンを見るだけでも充分に楽しめる映画になっていた。でも、そのレース・シーンとレース・シーンとのあいだに展開されるドラマの部分が、まるで韓国や台湾のテレビ・ドラマのようなベタベタなドラマで、そこを楽しめるかどうかが大きなポイントとなる映画だった。申し訳ないけど、自分はダメだった。

ただ、主演俳優が台湾(エディ・ポン)、中国(ショーン・ドウ)、韓国(チェ・シウォン)の人で、監督が香港の人と云う総合東アジア映画になっているところが羨ましかった。そこに日本人がいないのが哀しい。

→ダンテ・ラム→エディ・ポン→香港、中国/2015→新宿武蔵野館→★★☆

監督:ジョニー・トー
出演:ルイス・クー、ビッキー・チャオ、ウォレス・チョン、エディ・チョン、ロー・ホイパン、ラム・シュー
原題:三人行 Three
制作:香港、中国/2016
URL:
場所:新宿武蔵野館

ジョニー・トーがあまりにも多作で、すべてが劇場公開されるわけでもなく、映画祭などで上映されるだけの場合もあるのでポツポツとしか作品を追えていないのだけれど、観ることができれば充分に楽しめる映画を作ってくれている。

今回の『ホワイト・バレット』は、まるでポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』のような、それぞれの登場人物たちが時間を追うごとにどんどんと仕事に行き詰まって行って、もうにっちもさっちも行かなくなってしまった状態で、その負のパワーのすべて集約して段階で大爆発を起こす映画だった。そしてその大爆発のシーンが、ジョニー・トーが得意とする視点移動によるスローモション撮影で、これでもか! と云うほどに、コテコテなガン・アクションが長回しで展開されるので、そこにはもうただ笑うしかなかった。

ラストへの大爆発までの過程で、ちょこちょこと伏線がはられていて、それがあまりにも細かかったり、さらりと描かれていたりして、うーん、紙袋に入った拳銃はいったいなんだ? とか、どうしてそんなに口笛の曲を重要視するんだろう? とか、その手錠の鍵は偶然に落ちていただけじゃないか! とか、頭の中でグルグル、ゴチャゴチャと考えながら映画を観ていたのだけれど、最後の大爆発でそんなのどーでも良くなってしまった。もう大爆笑あるのみ!

→ジョニー・トー→ルイス・クー→香港、中国/2016→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:テレンス・マリック
出演:クリスチャン・ベール、ケイト・ブランシェット、ナタリー・ポートマン、ブライアン・デネヒー、アントニオ・バンデラス、ウェス・ベントリー、イザベル・ルーカス、テリーサ・パーマー、フリーダ・ピントー、イモージェン・プーツ
原題:Knight of Cups
制作:アメリカ/2015
URL:http://seihai-kishi.jp
場所:ヒューマントラストシネマ渋谷

テレンス・マリックの映画は、長編デビュー作の『地獄の逃避行』の時からすでに美しい自然と対比するように登場人物たちを配置した情景描写を多用していて、そこに登場人物によるモノローグを重ねながらストーリーを進めて行くスタイルを取っていた。でも『地獄の逃避行』や『天国の日々』のころは、まだはっきりとしたストーリーの中にそのイメージを断続的に挟み込むだけで、誰もが理解することのできるフツーの起承転結を重んじる劇映画の体をなしていた。それが『天国の日々』から20年のブランクの後に撮った『シン・レッド・ライン』ではそのスタイルが先鋭化していて、とても叙情的で詩的なイメージを先行させる作風に変化しつつあった。それがさらに『ツリー・オブ・ライフ』では鋭角化して、おぼろげながらストーリーラインはあるけどれども、情景イメージと登場人物によるモノローグと云った構成が散発的に連なって行くだけのスタイルに変貌して、まるで映像詩集のような体をなすようになってしまった。それは『トゥ・ザ・ワンダー』でも、今回の『聖杯たちの騎士』でも同様のスタイルを採用している。

最初の『ツリー・オブ・ライフ』の時にはそのスタイルにも新鮮味があって、ストーリーを追いかける必要性がないくらいの心地よさを感じることができたけれども、それが『トゥ・ザ・ワンダー』『聖杯たちの騎士』と繰り返されると、うーん、どうしても映像美を強調させたイメージばかりなのが鼻につくようになってしまって、ストーリーの補助がないままに美しい映像だけを見せられ続ける退屈さが先行してしまうんじゃないかともおもう。ヒッチコックの云う「観ている人たちのエモーション(感情)」を持続させることに失敗しているんじゃないかと考えざるを得なくなってしまう。

私のようなテレンス・マリックの映画が好きなものにとってはこのようなスタイルでも「エモーション」を持続することには何の問題もないけど、一般の観客にとってはどうなんだろう? できることならば『天国の日々』あたりの原点に立ち返ってくれると嬉しいんだけれども。

→テレンス・マリック→クリスチャン・ベール→アメリカ/2015→ヒューマントラストシネマ渋谷→★★★☆

監督:ケント・ジョーンズ
出演:マーティン・スコセッシ、デビッド・フィンチャー、アルノー・デプレシャン、ウェス・アンダーソン、黒沢清、ジェームズ・グレイ、オリビエ・アサイヤス、リチャード・リンクレイター、ピーター・ボグダノビッチ、ポール・シュレイダー、アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォー
原題:Hitchcock/Truffaut
制作:フランス、アメリカ/2015
URL:http://hitchcocktruffaut-movie.com
場所:新宿シネマカリテ

1981年に晶文社から「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」が発行された時、学生の身としては2900円と云う値段は途方もなく高く感じられたけど、和田誠の「お楽しみはこれからだ」の影響でヒッチコックの映画が大好きになっていたので、どうしても欲しくて昼飯を抜いてまでしても買ってしまった。

映画をたくさん観はじめた当初、監督が映画を作っていることは、なんとなく、わかりはじめていた。でも実際に何をしているのかは具体的によくわかっていなかった。「演出」とは何なのかまったく理解していなかった。そこへの疑問を解決してくれたのが「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」だった。特に映画を観ている人たちのエモーション(感情)をコントロールするためにはどのようなショットの積み重ねが必要なのかを懇切丁寧に説明しているところに云いようもない興奮を覚えてしまった。例えば、「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」のP100には次のように書いてある。

映画づくりというのは、まず第一にエモーションをつくりだすこと、そして第二にそのエモーションを最後まで失わずに持続するということにつきる。映画づくりのきちんとした設計ができていれば、画面の緊迫感やドラマチックな効果をだすために、かならずしも演技のうまい俳優の力にたよる必要はない。わたしが思うに、映画俳優にとって必要欠くべからず条件は、ただもう、演技なんかしないことだ。演技なんかしないこと、何もうまくやったりしないこと。

このことに衝撃を受けて今でも付箋がはってある。この「演技なんかしないこと」には異論もあるのかもしれないけど、たしかに小津安二郎やロベール・ブレッソン、最近ならば濱口竜介の映画を見るとそれを強く感じる。

この「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」をトリュフォーが本としてまとめる時に行ったヒッチコックへインタビューの音源がしっかりと残っている。その音源の一部を利用して、さらに様々な監督にヒッチコックについて語ってもらったインタビューを元に構成したドキュメンタリー映画がケント・ジョーンズ監督の『ヒッチコック/トリュフォー』だった。

でもこの映画、マーティン・スコセッシをはじめとした錚々たる映画監督たちのヒッチコック礼賛が綿々とつづられているだけで、いまひとつ面白味に欠けていた。できることならば、「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」の中で再三ヒッチコックが語っている「エモーションの持続」のことを自分としてはどのように捉えていて、どのように実践しているのかぐらいは語っている監督が欲しかったような気がする。

それになぜブライアン・デ・パルマがこの中にいないんだろう? 故コリン・ヒギンズ(ヒッチコック映画のエッセンスがちりばめられた映画『ファール・プレイ』の監督)にもヒッチコックについて聞きたかったなあ。

→ケント・ジョーンズ→アルフレッド・ヒッチコック→フランス、アメリカ/2015→新宿シネマカリテ→★★★

今年、劇場で観た映画は全部で81本(回数は『シン・ゴジラ』と『この世界の片隅に』を2回ずつ観たので83回)。
その中で良かった映画は以下の通り。

ハッピーアワー(濱口竜介)
リップヴァンウィンクルの花嫁(岩井俊二)
ボーダーライン(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
レヴェナント: 蘇えりし者(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)
エクス・マキナ(アレックス・ガーランド)
シン・ゴジラ(庵野秀明、樋口真嗣)
イレブン・ミニッツ(イエジー・スコリモフスキ)
淵に立つ(深田晃司)
手紙は憶えている(アトム・エゴヤン)
この世界の片隅に(片渕須直)

今年は邦画が5本も入っている! 『恋人たち』(橋口亮輔)も『FAKE』(森達也)も『君の名は。』(新海誠)も『オーバー・フェンス』(山下敦弘)も次点に入るくらいの面白さだったので、見逃した映画の中にも面白いものがあったに違いない、とおもえるほどの邦画の年でした。

監督:ユーリー・ノルシュテイン
出演:
原題:
制作:ロシア(ソ連)/1968〜1979
URL:
場所:シアター・イメージフォーラム

むかし勤めていたレーザーディスクのソフトを発売していた会社は、映画とかミュージック・クリップとかコンサートや舞台のライブ映像とか、今までにもビデオのパッケージとしてすでにあったあきりきたりなコンテンツとは別の、誰もあまり目にしたことのないような映像を発掘して、それをソフト化してレーザーディスクに新たな境地を見い出そうとしていた。その中に「アニメーション、アニメーション」と云う世界のアニメーションを紹介するシリーズがあった。

アニメーションと云えば、まずは昔のテレビアニメなどに使われてたセルアニメをおもい出すし、今ならCGを使ったアニメをおもい出すかもしれない。でも、アニメーションを行うための手法は様々だ。粘土を使ったり、パペットを使ったり、砂を使ったりと、世界中にはいろんな手法を使ったアニメーションのアーティストがたくさんいた。それを教えてくれたのが「アニメーション、アニメーション」のシリーズだった。

「アニメーション、アニメーション」シリーズのアーティスト
・岡本忠成
・川本喜八郎
・手塚治虫
・久里洋二
・ユーリ・ノルシュテイン
・イジィ・トルンカ
・ラルフ・バクシ
・フレデリック・バック
など

この中でもロシアのユーリー・ノルシュテインのアニメーションは、記憶に残っているはずもない(深層心理として存在しているだろう)小さな子供のころに見たイメージを再現しているように感じられて、なぜか郷愁感いっぱいにさせられてしまう。ロシア語のナレーションでさえ、子供の頃に訳もわからずに聞いていた大人たちの言葉の響きにもおもえて懐かしく感じてしまう。なぜロシアと云う文化の違う国で製作されたアニメーションに郷愁を感じてしまうのかはわからない。でもそこに切り絵を使ったアニメーションと云う技法が介在しているからだとはおもう。今年は『君の名は。』や『この世界の片隅に』のようなアニメーションの秀作が生まれた年でもあったけど、ふっとユーリー・ノルシュテインに立ち返れるタイミングがここで出来たのは素晴らしかった。

【今回の上映作品】
『25日・最初の日』(1968年/9分)
『ケルジェネツの戦い』(1971年/10分)
『キツネとウサギ』(1973年/12分)
『アオサギとツル』(1974年/10分)
『霧の中のハリネズミ』(1975年/10分)
『話の話』(1979年/29分)

→ユーリー・ノルシュテイン→→ロシア(ソ連)/1968〜1979→シアター・イメージフォーラム→★★★★

監督:片渕須直
声:のん、細谷佳正、稲葉菜月、尾身美詞、小野大輔、潘めぐみ、牛山茂、新谷真弓、岩井七世、小山剛志、津田真澄、京田尚子、佐々木望、塩田朋子、瀬田ひろ美、たちばなことね、世弥きくよ、八木菜緒、澁谷天外
制作:「この世界の片隅に」製作委員会/2016
URL:http://konosekai.jp
場所:丸の内TOEI

こうの史代の「この世界の片隅に」には、一つのコマにたくさんの情報が詰まっているので、たとえその時代、その場所に生きたことがなくても、誰しもがそこに書かれてる細かい情報のどれかに自分の人生を照らし合わせることが可能で、そこでの共感が「この世界の片隅に」をより一層奥深いものにしているとおもう。そのこうの史代のマンガを忠実にアニメーション化した片渕須直監督の『この世界の片隅に』にも、動いているからこそなお一層共感を覚えるところが多々あって、自分がビーンと反応した部分を以下に列記してみようとおもう。

・戦艦「大和」、重巡洋艦「日向」「利根」

「この世界の片隅に」の「浦野すず」が嫁いだ先の広島の呉は、戦艦「大和」などが建造された軍港としても知られていて、映画の中でも遠く望む港に大きな戦艦がスーッと横切るシーンがある。

「浦野すず」が「ありゃ、なんですか、船ですか」と聞くと「周作」が「大和じゃ! よう見たってくれ、あれが東洋一の軍港で生まれた世界一の戦艦じゃ」と答える。呉での居場所を見失いつつある「すず」に対して、その悩みの小ささを気付かせるような「大和」の勇壮さが印象的なシーンだった。

戦艦「大和」と云えば小学生のころによく戦艦のプラモデルを作った。タミヤ、アオシマ、ハセガワ、フジミの模型会社4社が、第二次世界大戦時の日本海軍艦艇を分担してプラモデル化して行ったウォーターラインシリーズを片っ端から作ったのだ。「大和」はもちろんのこと「武蔵」や空母や重巡洋艦や駆逐艦までも。

その重巡洋艦の中にちょっと変わった戦艦があった。艦の前方には普通に砲塔を備えているのだけれど、後方には砲塔はなく、その代わりにまるで空母のような飛行甲板が備えてあって、航空機の離着陸ができるようになっている重巡洋艦があったのだ。その代表的なものが「日向」「利根」だった。戦艦と空母の両方を兼ね備えた万能戦艦にも見えて、全体的なフォルムもカッコよく、「大和」や「武蔵」よりも大好きな種類の戦艦だった。

「浦野すず」の義理の姪にあたる「黒村晴美」が遠くに望む呉の港に泊まっている戦艦を指さして、「ありゃ、「利根」よ、重巡じゃ」と云う。「すず」が「ジュージュン?」と問うと「晴美」は「重巡洋艦」ときっぱりと云う。そしてさらに「ほいであれは「日向」よ、航空戦艦じゃ、うしろに砲塔がないじゃろ」と云う。

航空戦艦にはそのフォルムが特殊なので、詳しい人に習えば誰でも遠く離れた場所からでもすぐに云い当てられるようになるとはおもうのだけれど、小さな女の子がパッと航空戦艦を云い当てるカッコ良さはこの映画の中でも突出していた。だからこそ自分にとっては「黒村晴美」への想いが強くなってしまった重要なシーンでもあった。

・学校の床の穴

小学校の教室の床が木だった経験をしているのは昭和の何年くらいまでの人だろう。木と云っても、もちろんフローリングなんてこじゃれたものではなくて、合板でもなんでもなくて、そのものずばりの木の板だ。だから、おそらく木目の部分なんだろうけど、そこが脱け落ちてしまって、床に穴が空いていることがよくあった。

映画の中で小学生の「浦野すず」は、消しゴムのカスを集めてその床の穴に捨てていた。このシーンを見るまで自分が同じことをやっていたなんてすっかり忘れていた。小学生の男子の多くはガサツで、みんな消しゴムのカスなんてそのまま床に落とし放題だったのに、なんて自分は奇麗好きだったんだろう! いや、おそらく、誰かに影響されたのだろうけど、細部のことはすっかり忘れている。この小さなエピソード(原作にももちろんある)は「浦野すず」に対して感情移入する重要なポイントになった。

・遊廓の門

邦画にはむかしの遊廓(または戦後の赤線)を舞台にした映画がたくさんあって、なぜかそのたぐいの映画に好きなものが多い。川島雄三の『幕末太陽傳』や『洲崎パラダイス赤信号』とか、加藤泰の『骨までしゃぶる』とか。

で、その遊廓の入り口には、まるで現実の世界と夢の世界を隔てる境界線のような大きな門が必ずあった。『幕末太陽傳』の居残り佐平次(フランキー堺)も『洲崎パラダイス赤信号』の三橋達也と新珠三千代も『骨までしゃぶる』のお絹(桜町弘子)もその門をくぐったら最後、遊廓(赤線)に捕らわれてしまって、そこから出たくともなかなか抜け出せなくなる。いや、必死に脱け出そうとすれば脱けられるのかもしれないけれど、そこに居着いてしまう甘美な魅力があって、次第にそこが自分の居場所となってしまう。

「浦野すず」が迷い込む呉の「朝日遊廓」も、「ここは竜宮城か何かかね!!!」と「すず」が云うように、甘い匂い漂わせる女たちがたむろする現実離れした場所だった。そしてそこで出会う「白木リン」にも、この世のものとはおもえない果無い不思議な魅力があって、「この世界の片隅に」の中に出てくる「ばけもの」や「座敷童」や「わにの嫁」と同じ系列の寓話的なキャラクターにも見えてしまった。できたら「すず」に、「白木リン」はどう云った経緯で「朝日遊廓」を自分の居場所としたのか絵物語にして欲しかった。(エンドクレジットの、クラウドファンディングしてくれた人びとの名前が列挙されている下の部分の紙芝居的な絵がそれだったのかもしれない!)

映画の中で「すず」と「白木リン」が別れるシーンに大きな門があったように記憶してたけど、再度映画を観てみると、うーん、門なのか、ただの電信柱なのか良く分からなかった。原作を見ても「朝日遊廓入口」と看板があるだけだった。今まで見てきた遊廓を題材にした映画と同じように大きな門があると勝手に推測を膨らませてしまっていた。でも、この「朝日遊廓」の境界をくぐったことによって、まるで『千と千尋の神隠し』のように「白木リン」と云う摩訶不思議なキャラクターの手助けで、わだかまっていた悩みに対する回答を得られたのはまさに「遊廓」だからこそだったような気がする。「白木リン」の、「誰でも何かが足らんぐらいで、この世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」のセリフは、映画『この世界の片隅に』の核となるセリフだったんじゃないかと今になってはおもう。

→片渕須直→(声)のん→「この世界の片隅に」製作委員会/2016→丸の内TOEI→★★★★☆

監督:松居大悟
出演:蒼井優、高畑充希、太賀、葉山奨之、石崎ひゅーい、菊池亜希子、山田真歩、花影香音、落合モトキ、柳憂怜、国広富之、加瀬亮
制作:「アズミ・ハルコは行方不明」製作委員会/2016
URL:http://azumiharuko.com
場所:新宿武蔵野館

新宿武蔵野館の12月いっぱいのタダ券がもったいないので、ラインナップの中でも観るのならこれだろうと『アズミ・ハルコは行方不明』。今年は大ヒットの邦画が続いて、それに連れられてなのか邦画を観る機会が多くなった。

ちょっとした地方都市の、アラサーになっても定職に就いてなくて、実家でダラダラと暮らしている若い奴が実際にどれくらいいるのか分からないのだけれど、日本の映画にはこの手のタイプのキャラクターが良く出てくるような気がする。で、そこには行き場のない閉塞感がたっぷりで、それを映画でじっくりと見せられてもただ息苦しいだけで、そんなところが邦画を敬遠してしまう理由の一つだった。いや、そうではなくて、映画の場合には描き方ひとつでどのようにも面白くもなるはずで、そこの工夫があまりにもないところが邦画を敬遠してしまう理由だった。

松居大悟監督の『アズミ・ハルコは行方不明』は、いまの日本の、学歴がなくて、コネもなくて、のめり込むものもなくて、向かうべき方向性を見失っている女性たちを、30歳あたりを蒼井優、20歳あたりを高畑充希のキャラクターに象徴させていて、彼女たちの時間軸を切り刻んで前後にシャッフルさせながら、しかも、その二つの世代をじかに交わらせることなく描いているところが工夫しているところだった。その工夫が映画としては、ちょっぴり、面白かった。

でも、これはいったい何の映画だったのだろう。10代を象徴しているJK暴力団や、40代あたりを象徴させている蒼井優の会社の先輩に、良いようにあしらわれた男たちへの復讐がかいま見えるけど、それがこの映画の主題でもないような気がするし。

→松居大悟→蒼井優→「アズミ・ハルコは行方不明」製作委員会/2016→新宿武蔵野館→★★★

疾風ロンド

監督:吉田照幸
出演:阿部寛、大倉忠義、大島優子、ムロツヨシ、堀内敬子、戸次重幸、濱田龍臣、志尊淳、野間口徹、麻生祐未、生瀬勝久、望月歩、前田旺志郎、久保田紗友、鼓太郎、堀部圭亮、中村靖日、田中要次、菅原大吉、でんでん、柄本明
制作:「疾風ロンド」製作委員会/2016
URL:http://www.shippu-rondo-movie.jp
場所:109シネマズ木場

東野圭吾の原作をNHKの「サラリーマンNEO」や「あまちゃん」を演出した吉田照幸が映画化。

登場人物の置かれたシチュエーションによって笑わせるコメディが大好きなのは、やはりビリー・ワイルダーとかプレストン・スタージェスとかに心酔した結果で、最近の邦画でも内田けんじのシチュエーション・コメディなどが大好きだ。

で、そのシチュエーション・コメディにペーソスを持ち込む(トレンチ・コートのみのジャック・レモンが寒空の中ですっぽかしを食う哀愁など)のは許せるけど、そのものずばりの“愛”だとか“情”だとかを持ち込まれると、登場人物が追い込まれたシチュエーションがどうでもよくなって、そこで起きるドタバタも何か違う笑いに変質して行ってしまうような気がする。

『疾風ロンド』は、阿部寛が反抗期を迎えている中学生の息子を一緒に連れ回しているシチュエーションがとても邪魔で、さらにそこに娘を亡くした麻生祐未の家族の重さが加わって、阿部寛がコケようが、ボケようが、小さな女の子に「お前も頑張れよ」と云われようが、カラッとした笑いにはまったくならない。原作がそうなってるんだろうけど、映画化の際にはそんな部分をバッサリそぎ落としてくれてたらなあ。

→吉田照幸→阿部寛→「疾風ロンド」製作委員会/2016→109シネマズ木場→★★☆

この世界の片隅に

監督:片渕須直
声:のん、細谷佳正、稲葉菜月、尾身美詞、小野大輔、潘めぐみ、牛山茂、新谷真弓、岩井七世、小山剛志、津田真澄、京田尚子、佐々木望、塩田朋子、瀬田ひろ美、たちばなことね、世弥きくよ、八木菜緒、澁谷天外
制作:「この世界の片隅に」製作委員会/2016
URL:http://konosekai.jp
場所:109シネマズ菖蒲

今年は『シン・ゴジラ』に続いて『君の名は。』と、SNSで誰しもが絶賛を拡散している映画をあとから追いかけることが続いた年となった。いつものパターンとして、絶賛されている映画をあとから追いかける場合には、さあ観させてもらおうじゃないか、と身構えてしまうので、合格ラインが極端に高くなって、こんなもんか、になってしまうことが多くなってしまう。ところが『シン・ゴジラ』も『君の名は。』のどちらも、みんながSNSで絶賛を拡散するのも納得できるとても楽しめる映画だった。そして今年はこの二つの映画に続いてさらに『この世界の片隅に』が続く事態となってしまって、今度こそはその過度な絶賛に押しつぶされてしまうんじゃないかと危惧したところ、そんな心配はなんのその、期待感が加わった高い合格ラインを軽く越えてしまうような驚くべき内容の映画だった。

『この世界の片隅に』の素晴らしさは、こうの史代の原作コミックの雰囲気をディティール豊かにアニメーションに移し替えている部分に負うところが大きかった。

原作コミック読んだ時にまずは感じる登場人物たちの、一見すると窮屈に感じる体のラインや傾いている角度(首の傾げ具合!)や所作の描き方等々が、いったいどのように動き出すんだろうかと興味津々だったけど、映画の冒頭から静止しているコミックの絵がそのままスーッと、なんの違和感もなく自然に動き出しはじめたように見えて、ああ、これは素晴らしい映画になると最初から確信してしまった。例えば、「浦野すす」が失敗などをしたときに、あちゃー、と云う感じで、目が3本線になるコミック的な表現もそのまま動画へとうまく変換されているのはとても嬉しくなってしまった。

この世界の片隅に

コミックの静止画に巧く命を吹き込んでいるだけではなくて、マンガのコマに書き込まれている細部の情報をもきれいにすくい取って、アニメーションとしての一連の動きの中にスムーズに収めているところにも共感してしまった。服を作る、ごはんを作る、楠公飯、呉の軍港、カナトコ雲などなど、動いているからこそ、なおいっそう引き立つような作りになっているところは片渕須直監督の手腕としか言いようがなかった。特に、見晴らしの良い高台から見る呉の軍港の勇壮感はアニメーションだからこそだった。そしてそこで、小さい「はるみ」が、兄から教わったとおもわれる軍艦の名前を言い当てるシーンは、子供のころに軍艦のプラモデル(ウォーターラインシリーズ!)を作った身としてこの「はるみ」に感情移入せざるを得なかった。感情移入した結果の、その待ちかまえる運命には涙せざるを得なかった。

この世界の片隅に

そしてやはり触れなければならないのは「浦野すす」の声を担当した、のん(能年玲奈)のことだ。予告編を観た時には、なんとなく絵に声が乗っかっているだけ、と云う印象はぬぐいきれなかったのだけれど、そのぎこちなさはこうの史代の絵にぴったりだった。この映画の「浦野すす」には、プロの声優の巧さはまったく必要なかった。

『この世界の片隅に』は、おそらく今年のベストワンになるとおもう。

→片渕須直→(声)のん→「この世界の片隅に」製作委員会/2016→109シネマズ菖蒲→★★★★☆