ブルーに生まれついて

監督:ロバート・バドロー
出演:イーサン・ホーク、カルメン・イジョゴ、カラム・キース・レニー、ケダー・ブラウン、ケヴィン・ハンチャード
原題:Born to Be Blue
制作:アメリカ、カナダ、イギリス/2015
URL:http://borntobeblue.jp
場所:角川シネマ新宿

イーサン・ホークが1950年代のジャズ界で活躍したトランペット奏者、チェット・ベイカーを演じた伝記映画。

最近の伝記映画の傾向として、その人の生涯の分岐点ともなるようなコアな部分だけを取り上げて、そこからフラッシュバックなどの手法を用いて過去を振り返るタイプの映画が多くなって来ている。2時間から3時間の枠で、生まれてから亡くなるまでを追いかけなければならないような慌ただしい映画よりも、このようなコンパクトなタイプのほうが伝記映画としてしっくり来るような気がする。

『ブルーに生まれついて』はそのような手法を使っていながら、あえてチェット・ベイカーの絶頂期を切り取るのではなくて、クスリが止められなくなって次第に転落して行く部分をメインとして、人気絶頂の頃のエピソードをフラッシュバックで挟んで行くと云うストーリーにしている。そこにはジャズ・ミュージシャンの特異な世界の映画として特化するのではなくて、誰しもが経験するような「自分の弱さ」についての普遍的なテーマを主題にしようとしてる部分が見えて、最近の時事ネタをも巻き込んでとても身につまされる映画になっているところがとても良かった。

映画のラストで、カメラがスーッと寄って行って、注射針の先に血がついていることがわかった時に、ああ、やっぱり止められないのか、と落胆させられるシーンが辛かった。あのような、マイルス・デイヴィスの前で再起した自分の演奏を披露しなければならないような状況に追い込まれれば、誰だって緊張感に負けてクスリに手を出してしまうよなあ、と擁護してしまう自分がそこにいるのも辛かった。

→ロバート・バドロー→イーサン・ホーク→アメリカ、カナダ、イギリス/2015→角川シネマ新宿→★★★☆

手紙は憶えている

監督:アトム・エゴヤン
出演:クリストファー・プラマー、マーティン・ランドー、ブルーノ・ガンツ、ユルゲン・プロホノフ、ハインツ・リーフェン、ヘンリー・ツェニー、ディーン・ノリス
原題:Remember
制作:カナダ、ドイツ/2015
URL:http://remember.asmik-ace.co.jp
場所:角川シネマ新宿

アトム・エゴヤンの映画は誘拐や事故などに巻き込まれる犯罪系の映画と、エゴヤン自身がアルメニア系と云うこともあって主人公の出自に関係する映画に大きく分けられるような気がする。ここのところ犯罪系の映画が続いたけど、今回は久しぶりに主人公の出自に関係する映画だった。

第二次世界大戦が終ってから70年も経ったので、もしナチスの戦犯が生きていたとしても90歳を越えるような年齢に達してしまっていることから考えられた残酷なストーリーの映画が『手紙は憶えている』だった。自分の父親がナチスの戦犯であることが明らかになって行くコスタ=ガヴラス監督の『ミュージックボックス 』も相当に辛いストーリーだったけど、この『手紙は憶えている』はサスペンス仕立になっていることもあって、その真実が明らかになった時の衝撃はそれ以上だったのかもしれない。

そのサスペンスは、クリストファー・プラマーが完全な認知症になった訳ではなくて、かと言ってただの物忘れの多い老人な訳でもなくて、認知症なのか、そうではないのかの境界線上にいるところがポイントで、そこに早く気が付けばこの残酷なオチもある程度想像が付いたのだろうけど、クリストファー・プラマーの素晴らしい演技に惹きつけられてしまった結果、すっかりと騙されてしまった。

今年の12月13日で87歳になるクリストファー・プラマーの演技が神がかっていた。87歳にもなって、どうしてこんな演技ができるんだろうか。すごい、すごすぎる!

→アトム・エゴヤン→クリストファー・プラマー→カナダ、ドイツ/2015→角川シネマ新宿→★★★★

ぼくのおじさん

監督:山下敦弘
出演:松田龍平、大西利空、真木よう子、戸次重幸、寺島しのぶ、宮藤官九郎、キムラ緑子、銀粉蝶、戸田恵梨香
制作:「ぼくのおじさん」製作委員会/2016
URL:http://www.bokuno-ojisan.jp
場所:109シネマズ木場

評価の確立している映画監督の中でも、次から次へと矢継ぎ早に映画を作る人もいれば、数年に1本しか作らない映画監督もいる。どうしてそのような映画製作へのアプローチの違いが生まれて来るのかはよくわからないのだけれど、一般的には製作期間の長い映画のほうが完璧に作られているイメージがあって、短期間で作った映画は昔のプログラムピクチャーのような軽い映画のイメージを醸し出してしまう。でも、ウディ・アレンや川島雄三のような多作の監督の映画が完璧じゃないのかと云えば、作品のクォリティにバラつきのあるは確かだけど、その中には素晴らしい作品も含まれている。だからこそ評価もされているわけだ。

山下敦弘監督はどちらかと云うと多作の映画監督で、前作の『オーバー・フェンス』のような純文学が原作の重いテーマの映画も撮ることもできれば、続けざまに公開された今回の『ぼくのおじさん』のような北杜夫の児童文学を原作とした飄々とした映画も撮ることもできてしまう。『リンダ リンダ リンダ』や『マイ・バック・ページ』のような素晴らしい映画を撮ったかとおもえば、『もらとりあむタマ子』のような、うーむ、と考え込んでしまうような映画も撮ってしまう。寡作の監督の中にも多作に監督の中にも大好きな監督がいるけど、ふらっと映画館を観に行った時に、今回は当たりだったな、とか、ああ今回はダメだったな、と云える玉石混交の作品を撮る多作の映画監督のほうにちょっぴりと人間性を感じて、たぶん、そっちの映画監督の方がちょっと好きだ。

『ぼくのおじさん』を観終わってからの感想は、まあ、なんと云うか、可もなく不可もなく、それなりに笑えたから楽しめたんだろうけど、だからと云って素晴らしい映画かと問われれば、うーん、人に勧められるような映画でもない。松田龍平の演技には「あまちゃん」の水口琢磨の延長線上のようなところに味が出ていて、甥役の大西利空との掛け合いもとても楽しいのだけれど、真木よう子や戸次重幸との絡みにはテレビドラマのような予定調和のシーンしかなくて、そこにもうちょっと工夫が欲しかったような気もする。真木よう子のことも、もっと奇麗に撮ってあげれば良かったのに! 戸田恵梨香の靴下も、あれでいいのか!

→山下敦弘→松田龍平→「ぼくのおじさん」製作委員会/2016→109シネマズ木場→★★★

エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に

監督:リチャード・リンクレイター
出演:ブレイク・ジェンナー、ゾーイ・ドゥイッチ、ウィル・ブリテン、ライアン・グスマン、タイラー・ホークリン、グレン・パウエル、ワイアット・ラッセル、フォレスト・ヴィッケリー、テンプル・ベイカー、タナー・カリーナ、オースティン・アメリオ、ジャストン・ストリート、クイントン・ジョンソン、ドーラ・マディソン・バージ
原題:Everybody Wants Some!!
制作:アメリカ/2016
URL:http://everybodywantssome.jp
場所:新宿武蔵野館

リチャード・リンクレイター監督の経歴をしっかりと読む機会がなかったのだけれど、この映画を観たきっかけで公式サイトの「スタッフ」の項目を読んでみると、「野球選手として奨学金を受けて、サム・ヒューストン大学に進学するも、持病が原因で引退。映画監督への道を進む。」なんだそうだ。この『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』は、1980年の夏を舞台にした大学野球部の青春群像劇なので、つまり、彼の自伝的映画だったのだ。にしては、昔のジョン・ランディス監督の『アニマルハウス』のような、酒と女とドラック+80年代の音楽の、おバカで下品な映画で、彼の得意とする会話劇は充分に楽しめるものの、観終わってもなーんにも残らない映画だった。

かと云って、別につまらなかった訳でもなく、子供の頃から道徳教育を受けて育つ日本人にはとうてい真似のすることのできない、アメリカ人のノーテンキさがつまった映画にはどこか憧れにも似た感情を持って観てしまう。

アメリカの大学の「野球部」と云う目線でこの映画を観ても、日本のトップ選手がメジャーリーグへ行っても、出来て「上の下」くらいの成績しか収められないのは、やっぱりこのアメリカ人のクレイジーさが足りないからなんだろうなあ、と。修行僧のような、ベクトルの違うクレイジーなレベルに行ってしまったイチローは別格として。

→リチャード・リンクレイター→ブレイク・ジェンナー→アメリカ/2016→新宿武蔵野館→★★★☆

インフェルノ

監督:ロン・ハワード
出演:トム・ハンクス、フェリシティ・ジョーンズ、イルファン・カーン、オマール・シー、ベン・フォスター、シセ・バベット・クヌッセン
原題:Inferno
制作:アメリカ/2016
URL:http://www.inferno-movie.jp/site/#!/
場所:109シネマズ菖蒲

『ダ・ヴィンチ・コード』『天使と悪魔』と続いたダン・ブラウン原作でロン・ハワード監督&トム・ハンクス主演の映画の6年ぶり3本目。

この3作目の『インフェルノ』も前2作と同じように西洋美術のうんちくをやたらと聞かされて、それがどんなものかも理解できないうちにどんどんと導かれて、すんでのところで危機が回避されると云う同じパターンの映画だった。

そのジェットコースターで見せられた西洋美術のうんちくをゆっくりとひも解いてみる。以下、ネタバレ。


まず、記憶を無くしたラングドン教授(トム・ハンクス)が持っていた指紋認証の小型プロジェクター(ファラデー・ポインター)によってボッティチェリの「地獄の見取り図」が投影される。

ボッティチェリ「地獄の見取り図」

この「地獄の見取図」の下の部分には「真実は死者の目を通してのみ見える」と加筆されていて、さらに絵にある10層の各階層には文字が一つずつ隠されていて、その文字をすべて繋ぐと 「CERCA TROVA(尋ねて、見いだせ)」になる。

ラングドン教授は、ヴェッキオ宮殿にあるヴァザーリが描いた絵画「マルチャーノの戦い」の中に同じ言葉が書かれている事を思い出す。

「地獄の見取図」に加筆されていた「死者の目」が何であるかを理解するためにヴェッキオ宮殿の「500人広間」に書かれたフレスコ画「マルチャーノの戦い」を見る。

ヴァザーリ「マルチャーノの戦い」の「CERCA TROVA(尋ねて、見いだせ)」

「マルチャーノの戦い」の絵の中の「CERCA TROVA(尋ねて、見いだせ)」が書かれていた場所と同じ高さにある階段の、その先に通じる部屋に展示されていたダンテのデスマスクにたどり着く。(このデスマスクにはすでに前夜、ラングドン教授自身とイニャツィオ・ブゾーニと云う男によって盗まれていた)

「マルチャーノの戦い」の絵の下に空洞が存在していることがわかった時のニュース「レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の壁画が発見される―残された暗号が手がかり

イニャツィオが心臓発作で亡くなっていたことがわかり、彼の秘書よりデスマスクが隠された場所は 「パラダイス25」との伝言を受けとる。

ラングドン教授は「パラダイス25」をダンテの「神曲」の「天国編」第25章と推測し、その記述からデスマスクがサン・ジョヴァンニ洗礼堂に隠されていると判断する。

青空文庫からダンテ「神曲」の「天堂(天国)編」の第25章を読んでみても、なんだか意味がさっぱりわからない。でも、いろいろと調べる内にダンテが洗礼を受けたのがサン・ジョヴァンニ洗礼堂で、フィレンツェを追放されたのちに「その時我は變れる聲と變れる毛とをもて詩人として歸りゆき、わが洗禮(バッテスモ)の盤のほとりに冠を戴かむ」と第25章に書いているように、死ぬ前にサン・ジョヴァンニ洗礼堂に帰ることを願っていたと読むこともできる。

サン・ジョヴァンニ洗礼堂の洗礼盤に隠されていたデスマスクには、マスクの現在の所有者である大富豪の遺伝学者ベルトラン・ゾブリストが残した謎のメッセージが刻まれていた。

おお、健やかなる知性を持つ者よ
あいまいな詩句の覆いの下に
隠された教えを見抜け。

馬の首を断ち
盲人の骨を奪った
不実なヴェネツィアの総督を探せ。

黄金色をした聖なる英知のムセイオンのなかでひざまずき
地に汝の耳をあて
流れる水の音を聞け。

深みへとたどり、沈んだ宮殿に至れば……
かの地の闇に地底世界の怪物が待ち
それを浸す池の水は血で赤く染まるが
そこでは水面に映ることはない……星々が。
(越前敏弥訳)

ヴェネチアのサン・マルコ大聖堂の「4頭の馬」の像の前で、この馬の像がコンスタンティノープルから運ばれてきたことを聞く。第四次十字軍の戦利品としてコンスタンティノープルから持ち帰ったのはヴェネツィア共和国の第41代元首エンリコ・ダンドロ。

イスタンブールのアヤ・ソフィアでのエンリコ・ダンドロの墓に向かう。墓に耳を当て、地下水の音を探知したラングドンは、地下貯水池「イエレバタン・サラユ」内へ向かう。

ついに、ベルトラン・ゾブリストが作った病原菌が地下貯水池「イエレバタン・サラユ」に隠されている事を突き止める。ベルトラン・ゾブリストは、いまの地球上のすべての問題は人口過剰にあると説き、病原菌によってその人口を減らすことをたくらんでいた。


と、こんな流れだった。映画を観ているあいだは知的興奮に惑わされて、まったく意味もわからずに興奮してしまったけど、しっかりと意味を理解するとさらに知的興奮がかき立てられてしまう。

でも、冷静に考えると、ベルトラン・ゾブリストはなぜこんな手掛かりを残したんだろう? 粛々と計画を推し進めるだけで良かったのに。まあ、よくある理由付けとしては、この計画の実行に半分くらいは恐怖を抱いていて、誰かに止めて欲しかった、と云うことなのかなあ。と云うことが原作には書かれてあるのかも知れない。

→ロン・ハワード→トム・ハンクス→アメリカ/2016→109シネマズ菖蒲→★★★☆

メイトワン 1920

監督:ジョン・セイルズ
出演:クリス・クーパー、ウィル・オールドハム、ジェイス・アレクサンダー、ケン・ジェンキンス、ボブ・ガントン、ケヴィン・タイ、ゴードン・クラップ、メアリー・マクドネル、ナンシー・メット、デヴィッド・ストラザーン、ジョシュ・モステル、ジェームズ・アール・ジョーンズ
原題:Matewan
制作:アメリカ/1987
URL:
場所:フィルムセンター

第29回東京国際映画祭の一環のイベントとして、UCLAが復元を行っている作品の特集上映が日本ではじめてフィルムセンターで行われた。その中にはいろいろと観たい映画がいっぱいあったけど、なんとかジョン・セイルズの『メイトワン 1920』だけを観ることができた。

ジョン・セイルズの映画は1991年の『希望の街』が大好きで、ある都市に住むいろいろな人間たちが織りなす群像劇を一つどころに落とし込んで行くテクニックには唸った覚えがある。自分の中では、おりしも同じ年に公開されたローレンス・カスダン監督の『わが街』と双璧をなす群像劇の映画だった。

その『希望の街』の3年前に撮ったのが『メイトワン 1920』だった。この映画は、ウェストバージニア州の「メイトワン」と云う炭坑の街に労働組合の組織から派遣されてきたクリス・クーパーがいかにして待遇改善を求めてストライキを起こしている炭坑夫たちの信頼を得て、スト破りをしようとしていた黒人やイタリア移民をも巻き込んで会社に対抗できうる組織を作り上げたかを描いていた。

そこにはお決まりのドラマのパターンとして、内部に裏切り者がいて、そいつの画策でクリス・クーパーが窮地に追い込まれると云うサスペンス調が盛り込まれてはいたけれども、そこを一つの見せ場としていながらも単純な通過点としているところがジョン・セイルズの巧さだった。真犯人がわかって、さらに信頼を得ることとなったクリス・クーパーが、ベタなストーリーならば会社側を倒す労働者側の英雄として祭り上げられてハッピーエンドとなるところを、まだまだ全体を突き動かすほどの信頼を勝ち取っているわけではなく、最終的には彼が暴力に訴えることに反対していながらも両者が撃ち合いとなって多くの死傷者を出し、いつの間にかにクリス・クーパーも撃たれて死んでしまう。彼への銃撃シーンにカメラの焦点が結ぶこともなく、いつの間にか死んでいたことがわかるカメラのパンの無情さ。またまた、おもわず唸ってしまった。

見なければ、見なければとおもっていたジョン・セイルズの他の映画を追いかけねば。と云うか、ジョン・セイルズはもう撮らないのだろうか。

→ジョン・セイルズ→クリス・クーパー→アメリカ/1987→フィルムセンター→★★★★

ダゲレオタイプの女

監督:黒沢清
出演:タハール・ラヒム、コンスタンス・ルソー、オリビエ・グルメ、マチュー・アマルリック、マリック・ジディ、バレリ・シビラ、ジャック・コラール
原題:La femme de la plaque argentique
制作:フランス、ベルギー、日本/2016
URL:http://www.bitters.co.jp/dagereo/
場所:新宿シネマカリテ

黒沢清監督がすべて外国人のキャストで全編フランス語で撮った初の海外作品。

黒沢清監督の映画はいつも評論家筋には好評で、映画を見ればその評価の高さはわからないでもないのだけれど、いやあ、面白かったあ! と、気持ちよくなって映画館を出ることがあまりない。それはなぜなんだろうといつも考える。自分にとって、いやあ、面白かったあ! と云える映画とは、プロットがぴったりとおさまって、そこに小道具が有効に使われていたり、役者の演技がそのプロットにしっかりとマッチしていたり、音楽が効果的に使われていたりと、そう云う部分に面白味を見いだす傾向にあるんだとおもう。黒沢清監督の映画の場合、いつも「霊」が主要な題材となるので、その「霊」の扱いの整合性が絶えず気になってしまう。主人公による主観の幻影なのか、登場人物全員の共同による幻視なのか、はたまた我々にはまだ理解することのできない「何か」なのか。そのあたりのことが自分の中できっちりと整理できないでいると、もやもやしたまま映画を見終えることになってしまう。

まあ、でも、そのあたりが曖昧でも、昔のゴシックホラーの映画のような、例えばジャック・クレイトンの『回転』のように、黒沢清の映画ならば『回路』のように、イメージ的にぞわーっと鳥肌が立つような怖さがあれば、それだけで面白さが出てくるとはおもうのだけれど、『ダゲレオタイプの女』はそれがあまりにも少なかった。背中からのショットで、一人では着る事の出来ない背中にジッパーやボタンのある服をコンスタンス・ルソーが着ているところにはちょっぴりゾクっと来たけど、そんな感じのシーンがもっと欲しかった。

→黒沢清→タハール・ラヒム→フランス、ベルギー、日本/2016→新宿シネマカリテ→★★★☆

淵に立つ

監督:深田晃司
出演:浅野忠信、筒井真理子、古舘寛治、篠川桃音、太賀、三浦貴大、真広佳奈
制作:映画「淵に立つ」製作委員会、COMME DES CINEMAS/2016
URL:http://fuchi-movie.com
場所:角川シネマ新宿

カンヌ映画祭に行った知り合いから、そのカンヌの「ある視点」部門で審査員賞を獲った『淵に立つ』を絶対に観るようにと指示されたので観てみた。

どんなストーリーなのかまったく知ることもなくこの映画を観たので、浅野忠信が登場した時点で、昔の西部劇の『シェーン』のような、「外」からやって来た部外者が次第に「中」に溶け込んで行って、しまいには「中」にあった問題点をも解決するほどの影響を残して静かに去って行くタイプの映画ではないかと勝手に推測して見始めていた。

ある意味、それは正解だった。古舘寛治の古い知り合いである浅野忠信がふらりとやって来て、すでに形骸だけの古舘寛治の家族に大きなショックを与えて、たとえそれが「後悔」や「自責の念」であったとしても血の通った感情をぶつけ合える家族に再生させて静かに去って行く。まるで善と悪とにきっちりと境界線が引かれていた古い時代のまやかしを取り去った『シェーン』のようだった。

でも、浅野忠信の演じる人物は何だったんだろう? と後から考えてしまう。キッチリとした服装と折り目正しいしぐさや言動から、たとえ過去に殺人を犯していたとしても、それをしっかりと反省をし、更生を済ませた人物のように見える。その反面、能面のような表情の乏しさからは、それがまやかしのようなイメージをも与える。一度だけ、冗談のような口ぶりながらも「なんでオレがお前じゃないのかと思う時がある。なんでお前だけ結婚して、セックスしまくって、子供を作ってんだろうと思うときがあるよ」と感情を爆発させる時があった。この時のみが浅野忠信を血の通った人間と感じる唯一の時だった。

あの公園での事件が「故意」ではなくて「過失」であったことを少なからず匂わせていることを考えると、おそらく、浅野忠信の演じる「八坂草太郎」と云う人物を単純な「悪人」にはしていなかった。自分が殺してしまった人物の遺族に真摯な手紙を書き、古舘寛治と筒井真理子の夫婦の一人娘にやさしくオルガンを教える姿はおそらくストレートな感情から来るものだとおもうし、だからこそ筒井真理子に対してストレートに欲情を催してしまう単純さも持ち合わせているし、内心には古舘寛治に対する不満も単純にくすぶっているんじゃないかと想像できる。

おそらく浅野忠信の演じる「八坂草太郎」と云う人物は、カリカチュアされているけど、悪人でもなく、かと云って善人でもなく、我々と同じようなフツーの人間だったんじゃないかとおもう。でもそんなフツーの人間の行う所業が不気味に見えることこそが、いまのネットのSNSにも云える本当の恐怖で、そんなフツーな人間によってもたらされる事件によって、死人のようだった古舘寛治はかえって生き生きと行動が活発となり、筒井真理子は誰もが不潔に見えてしまう潔癖症に陥ってしまうと云うように、その影響がどっちに転ぶかわからないような複雑な時代に我々は生きているんだという困難さがことさら際立って見えるような映画になっていた。

キリスト教の「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」の教えがところどころに顔を出す部分にも、この複雑な時代にとっての宗教の教えが、人びとがまだまだ無垢だったころの遺物でしかなくて、そこで説かれる単純な自己犠牲の説教だけでは自分自身を追い込むことにしかならないことを暗に示していた。でも、その単純さに感動を示す浅野忠信には、かえって時代遅れのヒーローとも見えてしまうところがこの映画の複雑さだった。

映画のラストで、筒井真理子が娘と一緒に絶望の淵に立った時に、隣に見えた浅野忠信の幻影に後光が差して美しく見えたのは、彼こそが二人を導く救世主をも意味しているようにも見えてしまった。映画のはじめに浅野忠信が登場した時点で、どこかにこのような結末を期待している自分がいて、やっとそのとおりの結果に導かれて、残酷な結末でありながら不思議な安堵感に包まれるラストシーンだった。

→深田晃司→浅野忠信→映画「淵に立つ」製作委員会、COMME DES CINEMAS/2016→角川シネマ新宿→★★★★

怒り

監督:李相日
出演:渡辺謙、宮崎あおい、松山ケンイチ、池脇千鶴、妻夫木聡、綾野剛、森山未來、広瀬すず、佐久本宝、原日出子、高畑充希、三浦貴大、ピエール瀧
制作:「怒り」製作委員/2016
URL:http://www.ikari-movie.com
場所:109シネマズ木場

李相日監督が吉田修一の小説を『悪人』に続いて映画化。

『悪人』についてはめずらしく小説を読んでから映画を観るパターンだった。その小説は、評判のわりにはそんなに面白いと感じることもなかったのに、もしかしたら映画化は面白くなるんじゃないかと期待を込めて観に行ったら、自分にとってはやはり小説と同じく人物描写に共鳴するところもなく、どこかボヤッとしていて面白く感じることはなかった。

もしかすると吉田修一の小説が、残念ながら自分には合わないのだろうと次の作品を読むこともなかったのだけれど、映画『怒り』の予告編に興味がそそられて、SNSでの評判もそんなに悪くないのでちょっと観てみた。

映画の冒頭で、閑静な住宅街で起きる殺人事件が示されて、その犯人の顔をこちらにはっきりと見せない段階で、犯人がいったい誰なのかで興味を惹きつける映画であることがわかるわけだけど、ああ、もうそんな犯人探しの映画は飽きたなあ、とおもいつつも、犯人を想像させる三人(松山ケンイチ、妻夫木聡、森山未來)の人物模様が三者三様で面白く、2時間20分と云う長さを感じさせない映画だった。

ただ、警察が作る犯人の顔のモンタージュ写真は、もうちょっと三人の顔の中間にするべきだったんじゃないのかなあ。どう見ても一人に偏りすぎている。それに、犯人の人物的背景が他の二人に比べてちょっとおざなりで、育ってきた環境や関わってきた人物が何も示されないので、ただの精神異常者としか捉えることが出来ないのが残念だった。

→李相日→渡辺謙→「怒り」製作委員/2016→109シネマズ木場→★★★☆

マルタ

監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
出演:マルギット・カルステンセン、カール・ハインツ・ベーム、ブリジット・ミラ、イングリット・カーフェン
原題:Martha
制作:西ドイツ/1975
URL:
場所:アテネフランセ文化センター

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの映画をあまり見てこなかったので、機会があればちょこちょこと拾ってる。今回はアテネフランセ文化センターで「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2016」が行われたので、今まで何となく気になっていた『マルタ』を観てみた。

昨年、イマジカBSで見た『ベルリン・アレクサンダー広場』の素晴らしさの余韻がまだ頭にあったので、その路線の腹積もりで『マルタ』を観たら、もっと単純な、サディスティックな夫(カール・ハインツ・ベーム)を持ったマルタ(マルギット・カルステンセン)の心理サスペンス的な要素が強い映画だった。そしてその夫のサディズム描写が、例えば陽に焼き過ぎた肌をいたぶるシーンとか、「ダムの建築方法」の本を読め! とか、微妙にピントを外した残酷さにもおもわず笑ってしまうほどだった。映画の最後のほうの、突然の夫の登場に恐怖のあまり叫んでしまうマルタには映画館内でさえ笑いが起きたほどだった。これはあまりにも怖すぎて笑ってしまうホラー映画の感覚かもしれない。

ファスビンダーの代表作とは云えないのかもしれないけど、夫の常軌を逸した行為に責めさいなまれるマルタの「受け」の描写が素晴らしく、そこを見るだけでも充分にこの映画を楽しむことができた。次のファスビンダーの映画は何が見られるのか楽しみだ。

→ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー→マルギット・カルステンセン→西ドイツ/1975→アテネフランセ文化センター→★★★★