スーサイド・スクワッド

監督:デビッド・エアー
出演:ウィル・スミス、ジャレッド・レト、マーゴット・ロビー、ジョエル・キナマン、ビオラ・デイビス、ジェイ・コートニー、ジェイ・ヘルナンデス、アドウェール・アキノエ=アグバエ、アイク・バリンホルツ、スコット・イーストウッド、カーラ・デルビーニュ、アダム・ビーチ、福原かれん、ベン・アフレック
原題:Suicide Squad
制作:アメリカ/2016
URL:http://wwws.warnerbros.co.jp/suicidesquad/index.html
場所:109シネマズ木場

マーベル・コミックのスーパーヒーローを原作とした映画群を「マーベル・シネマティック・ユニバース」と名前を付けて、主に「アイアンマン」「キャプテン・アメリカ」「マイティ・ソー」を中心として続々と公開されている。この「マーベル・シネマティック・ユニバース」の面白さは、それぞれのスーパーヒーロー映画が独立して存在しているだけではなくて、他の映画にもキャラクターをクロスオーバーさせて、一つの大きな世界を形成している点にある。その集合体のメインの映画を「アベンジャーズ」として、さらに「マーベル・シネマティック・ユニバース」のフラッグシップ的な映画として存在させているところも面白い。

アメリカン・コミックのもう一つの雄、DCコミックスも、このマーベル・コミックの成功にだまっていられなくなったのか「DCエクステンデッド・ユニバース」を打ち出してきた。その3つ目の映画がこの『スーサイド・スクワッド』だった。

「DCエクステンデッド・ユニバース」の映画は、『マン・オブ・スティール』も『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』も観てなくて、いきなりこの『スーサイド・スクワッド』を観てしまったわけだけど、ストーリーを理解するのにそれほど支障もなく、それなりに楽しめることができた。特に、マーゴット・ロビーが演じているハーレイ・クインが素晴らしかった。『ハーレイ・クイン』として、一人で看板を背負っても良いんじゃないかなあ。

とはいえ、もうイヤと云うほど「マーベル・シネマティック・ユニバース」の映画を観ているで、そのうえに「DCエクステンデッド・ユニバース」までも追いかけて行くのはちょっとキツいなあ。次の『ワンダーウーマン』を追いかけるのかどうかは不透明。

→デビッド・エアー→ウィル・スミス→アメリカ/2016→109シネマズ木場→★★★

オーバー・フェンス

監督:山下敦弘
出演:オダギリジョー、蒼井優、松田翔太、満島真之介、北村有起哉、優香、松澤匠、鈴木常吉、塚本晋也(声のみ)
制作:「オーバー・フェンス」製作委員会/2016
URL:http://overfence-movie.jp
場所:テアトル新宿

佐藤泰志の小説をまったく読んだことがないのだけれども、『海炭市叙景』と『そこのみにて光輝く』が映画化されて、映画評論家には好評を得るくらいの話題となって、でも公開の時にはその話題が耳に入ってこなかったから映画館に足を運ぶこともなく、なんとかWOWOWや日本映画専門チャンネルで追いかけることができた程度の興味で映画を見てみると、内容があまりにも辛気臭くて、まるで昔のATG映画を見ているようで、暗く、重く、見終わったあとの喪失感がはなはだしくて、いやなものを見たなあ、くらいの感想しか持てなかった。

この二つの映画のイメージから考えると、同じ佐藤泰志の小説なんだから、やっぱりその内容は日本の地方都市の持つ閉塞感あふれた行き場のないどん詰まりな状況の中でのあがく暗い人間模様しかあり得ないと想像できるけど、それを山下敦弘が監督したら、もしかすると、もう少しは人間の優しさにも焦点が結んで、あたりの柔らかい映画になっているのではないかとおもって期待を込めて観てみた。

オダギリジョーが演じている主人公の白岩義男を、すぐに暴力に訴えるような人間にすることなく、感情の抑揚をあまり付けずにフラットに描くことによって、どんなものをも拒否しているように見えるが故に相手を傷つけてしまう反面、見方によってはどんなものをも受け入れられる度量の深さみたいなものをも感じられて、忙しない都会では前者に、のんびりとした田舎では後者に見えるように設計しているところが山下敦弘らしいやさしさが見られたのが『海炭市叙景』や『そこのみにて光輝く』とはちょっと違う点だった。

ただ、そんなやさしさが含まれていたとしても、『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』に続けてこの『オーバー・フェンス』を観たとしたら、やはり重く落ち込んでげんなりしたかもしれない。ところが、あまりにもシンプルで、浅くて、感覚だけで押し通してしまう『君の名は。』を観たばかりだったので、なんだろう? かえって救われた気持ちになってしまった。絵空事は絵空事としてそれで楽しんでいれば良いんだけど、リアルな現実へ帰ることも時には大事だってことだとおもう。

キャラクターとしては、職業訓練校でオダギリジョーと一緒に学んでいる、老年に差し掛かろうとする鈴木常吉の役が良かった。学生の頃、建築現場へアルバイトに行った時に見たような、すぐに奇策に声をかけてくる古株でありながら管理職に付いていないようなオヤジな感じだった。

(追記)
映画の中で見せる蒼井優の鳥を真似る仕草は映画のオリジナルなんだそうだ。この鳥の仕草をすることによって蒼井優の「ちょっとイッちゃってる」度合いがアップしてしまっている。このシーンを入れた意味は何なんだろう? オダギリジョーが蒼井優に惹きつけられる要素にはなってなくて、かえって引いてしまう方向に向いているとはおもうんだけど、映画ではそうにはなっていなかった。そこがちょっと違和感があった。

→山下敦弘→オダギリジョー→「オーバー・フェンス」製作委員会/2016→テアトル新宿→★★★☆

君の名は。

監督:新海誠
声:神木隆之介、上白石萌音、長澤まさみ、市原悦子、成田凌、悠木碧、島崎信長、石川界人、谷花音、てらそままさき
制作:「君の名は。」製作委員会/2016
URL:http://www.kiminona.com/index.html
場所:109シネマズ木場

すでに公開してから1ヶ月以上も経って、興行収入が100億円を突破したとのニュースも飛び込んできて、それほどに大ヒットした映画を、生来のあまのじゃくな性格から、ふん、と簡単に邪険にするわけにもいかず、やっぱりここは大衆の多くに受け入れられているものをちゃんとこの目で確認しないといけないとおもって映画館で観ることにした。

これがおもったよりも面白かった。

日本のアニメーションの演出方法には、時にはその過剰さにうんざりすることが多くて、この『君の名は。』でもやたらと主人公がベラベラとしゃべって、ギャアギャアと騒ぐ騒々しさに辟易する部分もあるのだけれど、それを補って有り余るほどのロマンチックなストーリー展開には、そんな甘ったるい感傷に弱い自分のような性格の人間はコロリとやられてしまった。

過剰に感傷に訴えるストーリーって、『世界の中心で、愛をさけぶ』もそうだったけど、大ヒットする方程式のひとつで、それが「震災後」と云う時代の流れに合わせたストーリーと相まって、多くの人に受け入れられるムーブメントを作り出したのかもしれない。

テレビも含めると、日本で作られるアニメーションの数は尋常なくて、半端ない。その中から才能ある若い人たちが切磋琢磨して出てくる構図は、大庭秀雄監督の『君の名は』が公開された時代の日本映画界を見るようで、実写の日本映画界から見れば羨ましい。

→新海誠→神木隆之介(声)→「君の名は。」製作委員会/2016→109シネマズ木場→★★★☆

チリの闘い 第三部:民衆の力

監督:パトリシオ・グスマン
出演:サルバドール・アジェンデ
原題:La batalla de Chile
制作:チリ、フランス、キューバ/1976
URL:http://www.ivc-tokyo.co.jp/chile-tatakai/
場所:ユーロスペース

『チリの闘い』の「第三部:民衆の力」は、「第一部:ブルジョワジーの叛乱」や「第ニ部:クーデター」でも描かれていた労働者側の運動の部分だけを再構成してまとめたかたちをとっている。

1972年10月にアメリカが主導した右派の策謀によるトラック業者のストライキによってチリ国内の物流がマヒし、さらに商店の多くが商品を流通させない右派の策略に加担することによって、日用品や食料品が手に入らなくなった一般大衆の生活は大混乱に陥ってしまう。しかし、このことによってチリ各地の労働者たちに組織化する機運が高まり、地域労働者連絡会や地域部隊が結成されて行く民衆の労働運動がこの「第三部:民衆の力」の主題で、この労働者の運動の部分だけを切り取って見ると、アジェンデ政権とリンクした彼らの労働運動がチリを社会主義国家として成長させて行く過程のように見えてしまう。

ところが、実際にはそうならなかった。

そこには「軍部のコントロール」と云った労働運動とはかけ離れた次元の部分があって、その大きな力によって大上段から押さえつけられると大衆の労働運動なんてものは簡単に消し飛んでしまう。そのような空しい事実は史実としてわかってはいるけれども、でも、パトリシオ・グスマンが「第三部:民衆の力」として大衆の労働運動の部分だけをまとめたのは、やはり、そのような希望の萌芽が1973年のチリには実際にあったのだと強調したかった所為だとおもう。『チリの闘い』を観終える余韻としてはこれで正解だったとおもう。

→パトリシオ・グスマン→サルバドール・アジェンデ→チリ、フランス、キューバ/1975→ユーロスペース→★★★★

チリの闘い 第ニ部:クーデター

監督:パトリシオ・グスマン
出演:サルバドール・アジェンデ
原題:La batalla de Chile
制作:チリ、フランス、キューバ/1976
URL:http://www.ivc-tokyo.co.jp/chile-tatakai/
場所:ユーロスペース

1973年6月29日、チリの軍部と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃する。『チリの闘い 第ニ部:クーデター』はここからはじまる。しかし、まだ時期尚早とみた将校が多かったためかこのクーデターは失敗に終わる。

この最初の小規模なクーデターからピノチェト将軍がCIAの全面的な支援の下にクーデターを起こすのが1973年9月11日。そのあいだの約2ヶ月間の動向がこの『第ニ部:クーデター』に描かれていて、すでに史実としてチリのクーデターが成功することを知っている我々は、この2ヶ月のあいだにアジェンデ大統領が反共勢力に対して何の手だても出来ないままにジリジリと追い込まれて行く様子を暗澹たる気持ちで見て行くことになってしまう。それもはじめのころにはピノチェト将軍がアジェンデ大統領側の要人として加わっていたりするものだから、ますます大統領側の情報収集能力の乏しさに陰鬱な気持ちでもって映画を観ていかなければならない。

ソビエト連邦を代表とする社会主義国家は、社会主義体制を維持して行くための秘密警察が発達してしまって、民衆のための社会主義国家と云うよりも恐怖政治で民衆を従わせようとする全体主義国家のような様相を呈してしまったところが一番の問題だったのだけれども、でも、アジェンデのようにあまりにも社会主義の理想を追い求めてしまうと、秘密警察とまでは行かないまでも様々な情報を収集する機関に予算をつぎ込むことが出来なくて、反共勢力に対する抵抗ができないままに簡単に転覆させられてしまう。

映画のラストに流れるアジェンデ大統領の辞世の句のような最後の演説はその理想に満ちあふれている。

このあと、コスタ=ガヴラス監督の『ミッシング』に描かれているとおりに、左派弾圧の恐怖政治がはじまることがわかっているので、この演説の「歴史は我々のものであり、人民がそれを作るのです」の部分はことさらに辛い。

→パトリシオ・グスマン→サルバドール・アジェンデ→チリ、フランス、キューバ/1975→ユーロスペース→★★★★

チリの闘い 第一部:ブルジョワジーの叛乱

監督:パトリシオ・グスマン
出演:サルバドール・アジェンデ
原題:La batalla de Chile
制作:チリ、フランス、キューバ/1975
URL:http://www.ivc-tokyo.co.jp/chile-tatakai/
場所:ユーロスペース

昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の上映ラインナップに入っていたのに、全編で4時間23分と云う長尺(それにメイン会場ではないパイプイスの小屋)に恐れおののいて観ることをやめてしまって後悔していたパトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』が、おそらくいろいろな方面からの絶賛の声に後押しされたために、めでたくロードショー公開されたのでじっくりと吟味するためにもまずは第一部だけを観た。

1973年3月の総選挙からはじまる第一部は、アジェンデ大統領率いる左派の人民連合に投票するのか、キリスト教民主党と国民党の右派の野党に投票するのか、カメラが街に出てインタビューするところからはじまる。まずは公平性を期して、左派推しの人たちと右派推しの人たちを平等にインタビューするかたちで映画は進んで行くのだけれども、右派推しの人の自宅にカメラが入って行くと、調度品も立派な裕福な家の人であることがわかって来る。貧しい労働者は左派に、裕福な人たちは右派に投票する構図が見えてくる。

この選挙でアジェンデ大統領率いる人民連合は議席数を伸ばしはしたが、選挙以前にはアジェンデ支持だったキリスト教民主党が反アジェンデへと転向したために議会では議席数で劣勢に立たされて行く。そのために、与党の法案はことごとく否決され、物資が充分に民衆に行き渡らない経済悪化の状況を改善する手だてさえも頓挫するようになってしまう。

で、ここからがアメリカの関与が見え隠れしてくる。当時、第2のキューバが生まれることを危惧していたアメリカは、チリの社会主義政権をなんとかして倒そうとCIAを使っていろんな妨害を仕掛けてくる。キリスト教民主党が反アジェンデになったのも、右派にストライキやデモを行わせたのもアメリカ(CIA)の後押しらしいことが見えてくる。このことが『第一部:ブルジョワジーの叛乱』にはあますことなく記録されている。特に、銅山のストライキを行っているのは右派の一部の人間でしかないことを世間に解らせようと、左派の人たちの必死の姿が白黒のスクリーンいっぱいから溢れ出てくる。『第一部』のテーマは、労働者階級の人たちが必死にアジェンデ政権を擁護しようと走り回る姿だった。

いままでストライキと云えば労働者のものだと思っていたけれど、そのストライキを労働者たちを分裂させるための道具として使うなんてどこまで汚いんだCIA! と憤懣やる方ないおもいでまずは『第一部』を観終えた。

→パトリシオ・グスマン→サルバドール・アジェンデ→チリ、フランス、キューバ/1975→ユーロスペース→★★★★

ハドソン川の奇跡

監督:クリント・イーストウッド
出演:トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リニー、ヴァレリー・マハフェイ、デルフィ・ハリントン、マイク・オマリー、ジェイミー・シェリダン、アンナ・ガン、ホルト・マッキャラニー、アーメド・ルーカン
原題:Sully
制作:アメリカ/2016
URL:http://wwws.warnerbros.co.jp/hudson-kiseki/
場所:明治安田生命ホール(試写会)

2009年1月15日、ニューヨーク・ラガーディア空港発ノースカロライナ州シャーロット経由シアトル行きのUSエアウェイズ1549便は、離陸直後に大量の鳥の群れに遭遇し、左右のエンジンともに鳥を吸い込んだために停止してしまった。1549便のチェズレイ・サレンバーガー機長はラガーディア空港に引き返すのは時間的に困難と判断してハドソン川に不時着水した。この事件は乗客全員が助かったこともあって日本でもとても大きなニュースになった。

この有名な事件をクリント・イーストウッドは事実関係を正確に映画化していた。それはエンドクレジットに流れる実際の事故の映像を見ればよくわかる。映画本編の事故映像とそっくりだ。どっちがどっちだかわからないほどに瓜二つに見える。ただ、そこまで正確に映像化したのなら、とても細かいところが気になってしまう。

国家運輸安全委員会(NTSB)が事故調査をした時に、どちらかのエンジンがかろうじて動いていたことを示唆していたような気がする。その推力でもってラガーディア空港に引き返せたのになぜハドソン川に不時着水したのかと機長の責任を問うようなシーンがあった。でも、最終的な公聴会のような会議では、完全に両エンジンともにダメになったことを前提にエアバス社のシミュレーションが行われていた(ように見える)。それでもって、そのシミュレーション検証のあとに、海から引き上げたエンジンを調べたところ鳥によって完全に破壊されていたことがわかったとの報告がされる。ここが、おーそうだったのか! の感動的なシーンとなっている。

これは順序が逆なんじゃないのかなあ。

まずは海から引き上げたエンジンがどのような状態だったかを報告したあとで、それをもとにエアバス社のシミュレーションが行われるべきなんじゃないのかなあ。まさかあの瞬間に、リアルタイムに報告があがってきたのかなあ。

もちろんこの順序で描けば劇的な要素が失われてしまうわけだけれど。

と云うようなことを、一緒に試写会を観た人たちと酒を飲みながら、あーだこーだしゃべった。映画好きと、あーだこーだしゃべるのはやっぱり大切だ。

→クリント・イーストウッド→トム・ハンクス→アメリカ/2016→明治安田生命ホール(試写会)→★★★☆

グッバイ、サマー

監督:ミシェル・ゴンドリー
出演:アンジュ・ダルジャン、テオフィル・バケ、ディアーヌ・ベニエ、オドレイ・トトゥ、ジャナ・ビトゥネロバ
原題:Microbe et Gasoil
制作:フランス/2015
URL:http://www.transformer.co.jp/m/goodbyesummer/
場所:シネマカリテ

スパイク・ジョーンズの『マルコヴィッチの穴』を観たときに、なんだこりゃ! になった。俳優のジョン・マルコヴィッチを実名で出演させて、その頭の中に入ってしまうと云う奇想天外なストーリーをどうやったら考えつくんだろうと脚本を書いたチャーリー・カウフマンの自由奔放なアイデアに感嘆した。

そこからチャーリー・カウフマンを注目するようになって、ミシェル・ゴンドリー監督の『エターナル・サンシャイン』に行き着いた。(その前に『ヒューマン・ネイチュア』があったんだけどなぜか見逃した。)その『エターナル・サンシャイン』もまた奇抜なストーリーで、『マルコヴィッチの穴』と同じように先の読めない面白さがあって、ますますチャーリー・カウフマンのことが気になるようになってしまった。

このようにチャーリー・カウフマン繋がりでミシェル・ゴンドリーを追いかけるようになり、さらに彼の監督作『僕らのミライへ逆回転』をDVDで見たら、ゴンドリー自身の脚本ながらも絶対にチャーリー・カウフマンに影響を受けているだろうとおもわれる、なんだこりゃ! な映画で、2013年に作った『ムード・インディゴ うたかたの日々』もチャーリー・カウフマン的「なんだこりゃ!」度がますますアップしていた。

この『グッバイ、サマー』もストーリーを要約すれば、

クラスメイトからはちょっと浮いている14歳の少年“Microbe(チビ)”が「変わり者」の転校生“Gasoil(ガソリン)”と出会って、夏休みに親に内緒で二人で旅行をするうちにいろいろな体験をして、次第に自分の中にもある普通とは違う部分に自信を持つようになって行く。

と、ごく普通の青春友情ストーリーに見える。でもさすがはチャーリー・カウフマンを継承するミシェル・ゴンドリーだった。これをごく一般的な青春ドラマだけにはしなかった。外見はロブ・ライナーの『スタンド・バイ・ミー』のように見えつつも、ことごとく先の展開が読めなくて、次から次へと現れる登場人物たちにも主人公との関わり方にまったく意味を見い出せない。それでもトリックスターのような役割を持つ“Gasoil(ガソリン)”が作った「動く城」を駆って、奇妙なモンスターたちをなぎ倒して経験値を上げるがごとく、少年たちはひと夏の経験のあとに大人へと成長して行くのだ。

スパイク・ジョーンズ、チャーリー・カウフマン、ミシェル・ゴンドリーの作る世界はどこか共通していて、なぜか日本的な要素が入り込んでくることが多い。今回もコリアンタウンで働く風俗嬢が日本語を話すし、“Microbe(チビ)”はサムライ・カットにはなるし。ちょうどチャーリー・カウフマンが作った人形アニメーション『アノマリサ』で、日本のからくり人形のようなロボットが「桃太郎」を日本語で歌うのを見たばかりだから、また出た日本、とおもってしまった。そのような部分も確認しつつ、これからもこの3人の映画は追いかけて行きたいとおもう。

→ミシェル・ゴンドリー→アンジュ・ダルジャン→フランス/2015→シネマカリテ→★★★☆

イレブン・ミニッツ

監督:イエジー・スコリモフスキ
出演:リチャード・ドーマー、ボイチェフ・メツファルドフスキ、パウリナ・ハプコ、アンジェイ・ヒラ、ダビド・オグロドニク、アガタ・ブゼク、ピョートル・グロバツキ、アンナ・マリア・ブチェク、ヤン・ノビツキ、ウカシュ・シコラ、イフィ・ウデ、マテウシュ・コシチュキェビチ、グラジナ・ブウェンツカ=コルスカ、ヤヌシュ・ハビョル
原題:11 minut
制作:ポーランド、アイルランド/2015
URL:http://mermaidfilms.co.jp/11minutes/
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町

イエジー・スコリモフスキの新作はたった11分間の群像劇。

さまざまな困難に遭遇する人たちのいくつものエピソードが折り重なって、時間を行きつ戻りつしながら、時にはエピソード同士がすれ違いながら語られる映画の群像劇がとても大好きだ。古くはエドマンド・グールディングの『グランド・ホテル』から、最近ではジョニー・トーの『奪命金』とか。

でも、イエジー・スコリモフスキはもうそんな使い古されたスタイルをそのまま持ってくるようなことはせずに、たった11分間の群像劇に挑戦した。17時から17時11分までに起きた主に次の7つのエピソードを平行させて描いて行く。

・映画監督と女優、そしてその夫
・ホットドック屋の親父とバイク便の息子
・窓拭きの男とポルノビデオを見せる女
・医者と妊婦と死にかけた男
・質屋に押し入る少年
・画家
・犬を連れて歩く女

それぞれのエピソードがたった11分間しかなくて、これらを同時平行で見せるためにさらに切り刻んで、その細かくなった断片をモザイクのように並べて見せて行くのは、まるでパケット化されたデータ通信のようだった。

この映画のエンドクレジット直前のイメージが、並べられた監視映像のモニターがどんどんと小さくなっていって、スクリーン狭しと無数に増えて行くのはまさにデジタル符号化のイメージだった。その右上にあったモニターの一つが黒く何も映っていなくて、そこはまさしく「ドット落ち」に見える。そこで、あっ! と気が付いた。それぞれのエピソードの中の何人かが空を指さして「あれは何だ?」と云う。カメラは何も映さない。でもそれは「ドット落ち」だったんじゃないのか? 転送ミスだったのだ。

見終わってから冷静に考えれば、それぞれのエピソードの時間的な整合性は取れていないとはおもうけれど、そのことはあまり関係ないような気がする。データ通信なわけだから。

→イエジー・スコリモフスキ→リチャード・ドーマー→ポーランド、アイルランド/2015→ヒューマントラストシネマ有楽町→★★★★

ヤング・アダルト・ニューヨーク

監督:ノア・バームバック
出演:ベン・スティラー、ナオミ・ワッツ、アダム・ドライバー、アマンダ・セイフライド、チャールズ・グローディン、アダム・ホロウィッツ
原題:While We’re Young
制作:アメリカ/2014
URL:http://www.youngadultny.com
場所:TOHOシネマズみゆき座

『イカとクジラ』や『フランシス・ハ』で夫婦、家族や友人関係を不思議な切り口できめ細やかに描いていたノア・バームバック監督の新作。

『ヤング・アダルト・ニューヨーク』は、最初に「子供を持つ」と云う価値観から二つの夫婦を対比させて描いていて、今回のノア・バームバックの視点はここか、とおもわせておいて、さらに若い夫婦が絡んできて、なるほどジェネレーション・ギャップも加えるのか、と徐々にいろんな要素が加わって行って、主としてベン・スティラーとナオミ・ワッツの中年夫婦とアダム・ドライバーとアマンダ・セイフライドの若い夫婦の関係がストーリーの核となって行く。でもそこから、著名なドキュメンタリー作家(チャールズ・グローディン)の娘(ナオミ・ワッツのこと)を妻にもらった自身もドキュメンタリー作家のベン・スティラーに、ドキュメンタリー作家として有名になろうと野心に燃えるアダム・ドライバーの若夫婦が巧く取り入っていたのだとわかると一気にサスペンス調になって、今までのノア・バームバックの映画にはない調子に変わって行く。

さらに、アダム・ドライバーが撮っているドキュメンタリー映画が「やらせ」であることが発覚すると、今度はドキュメンタリー作家としての倫理的な問題も絡んできて、やたらと要素がてんこ盛りの映画になって、この収拾はどうするんだろうと心配になってしまった。

でもそこはさすがにノア・バームバックだった。ドキュメンタリー映画は、扱う題材が引き立てば、どのようにアプローチするかは問題にならない、と著名なドキュメンタリー作家(チャールズ・グローディン)に云わしめる。これはつまり、夫婦関係も、友人関係も、その関係が良好であれば、そこには「やらせ」があっても良いんじゃないかとも受け取れる。子供なんてほんとうは嫌いなのに、素敵な夫婦関係を保つために子供好きを装うのだ。別に若々しく振る舞いたいわけではないけれど、そのようにしている自分が美しいからばんばるのだ。

で、ラスト、赤ちゃんを見つめるベン・スティラーとナオミ・ワッツ夫婦。ああやっぱり俺たちには、子供を儲けると云うアプローチ方法はいらないと。

→ノア・バームバック→ベン・スティラー→アメリカ/2014→TOHOシネマズみゆき座→★★★☆