緑の光線

監督:エリック・ロメール
出演:マリー・リヴィエール、リサ・エレディア、ヴァンサン・ゴーティエ、ベアトリス・ロマン
原題:Le Rayon Vert
制作:フランス/1986
URL:
場所:角川シネマ有楽町

エリック・ロメールの5本目の映画は、相当に「めんどくさい女」が主人公の映画だった。一人でいるのがイヤなくせにあいつとは一緒にいたくないだとか、こういうことをやったら良いんじゃない?との提案にそんなことはやりたくないだとか、ちょっと気に入らないことがあると「なんて可哀相な私」を演出して泣き出すとか、うーん、これは酷い、酷すぎる。この主人公には何も共感するところがない。最後、その「めんどくさい女」と付き合うことになって、一緒に「緑の光線」を見ることになる男に対して、おいおいその女でいいのかよ、とおもうしかなかった。

でも、『モード家の一夜』の宗教に支配された男の煮え切らなさ、『友だちの恋人』のちょっと内向的で繊細な感じ、『海辺のポーリーヌ』の解放感、『クレールの膝』のフェティシズムもどき、と来て、この『緑の光線』が来るのはバリエーションとしてベストだったのかもしれない。

それにしてもパリに住んでいる人たちにとっての、夏の長期休暇にバカンスにも行かずにそのままパリにいるのは恥ずかしい、と云う焦燥感を持つ残念さは、「周囲と同じことをする」安心感でみんなと同じ時にしか長期休暇を取れない日本人の残念さと似ているなあ。

→エリック・ロメール→マリー・リヴィエール→フランス/1986→角川シネマ有楽町→★★★☆

クレールの膝

監督:エリック・ロメール
出演:ジャン・クロード・ブリアリ、オーロラ・コルニュ、ベアトリス・ロマン、ローランス・ドゥ・モナガン、ミシェル・モンテル、ジュラール・ファルコネッティ、ファブリス・ルキーニ
原題:Le Genou de Claire
制作:フランス/1970
URL:
場所:角川シネマ有楽町

エリック・ロメールの4本目は、今までに観て来た3本の映画とはちょっとおもむきが変わっていて、近くに結婚を控えているジェローム(ジャン・クロード・ブリアリ)が友人の小説家オーロラ(オーロラ・コルニュ)に小説の題材を提供するために、若い女の子に向けて微妙に一線を越えないヘンテコな色仕掛けの実験を行うと云うもの。

中年になろうとするジェロームが、オーロラの間借りしている家の中学生の娘ローラ(ペアトリス・ロマン)に興味を抱いたことからはじまったその実験は、そのローラの姉クレール(ローランス・ドゥ・モナガン)のすらりとした肢体へと興味が移って行き、最終目的として、クレールの奇麗な膝をいかにして自然に触ることができるか! になって行く。

なんじゃそりゃ、なこの映画は、でも、ロメール特有の会話の面白さからまったく飽きない。ひげ面ロリコンおじさんの、これは結婚相手の決まっている男のささやかな実験だし、ちょっと膝を触るだけのことなんだよ、の言い訳がましさが笑えるし、それにもともとロメールの映画にはギラギラとしたエロティシズムがないので、本当に単なる膝好きおじさんに見えてしまうところがさらに笑える。

この映画の舞台となったアヌシーは、国際アニメーション映画祭が行われる場所として名前だけは知っていたけど、なんとも美しい場所(ネストール・アルメンドロスの撮影!)だった。アヌシーのアニメーション映画祭へも行きたいなあ。

→エリック・ロメール→ジャン・クロード・ブリアリ→フランス/1970→角川シネマ有楽町→★★★★

ヘイル、シーザー!

監督:ジョエル&イーサン・コーエン
出演:ジョシュ・ブローリン、ジョージ・クルーニー、オールデン・エアエンライク、レイフ・ファインズ、ジョナ・ヒル、スカーレット・ヨハンソン、フランシス・マクドーマンド、ティルダ・スウィントン、チャニング・テイタム
原題:Hail, Caesar!
制作:アメリカ/2016
URL:http://hailcaesar.jp
場所:109シネマズ木場

コーエン兄弟の映画の中には、なんだこりゃ、な映画がときどき出てくる。それが良い方向に転ぶ場合と、さっぱりつまらない方向に転ぶ場合があって、今回はむかしのハリウッド映画が好きな人にとっては良い方向に転ぶ映画になっていた。

『ヘイル、シーザー!』は、50年代のハリウッドシステムの中の映画スタジオが舞台で、その当時のハリウッドスターや監督、脚本家を彷彿とさせる人物が出てくるところが面白い。以下が、たぶんあの人がモデルなんじゃない? のリスト。

・エディ・マニックス(ジョシュ・ブローリン)
MGMに実際にいた同名のエディ・マニックスがモデルらしい。もちろんそのような細かいプロデューサーの名前は知らなかったので、なんとなく、とあるプロデューサー、の感覚で見ていた。

・ベアード・ウィットロック(ジョージ・クルーニー)
映画の中で撮られている映画「ヘイル、シーザー!」がどうみても『ベン・ハー』っぽいので、なんとなくチャールトン・ヘストンかな、と思っていた見ていたけど、あとで調べるとヴィクター・マチュアがモデルらしい。たしかにヴィクター・マチュアは大根役者って云われてた。でも、ばりばり右側のチャールトン・ヘストンが共産主義に同調しちゃうのはコーエン兄弟特有のブラックジョークにも見えるので、それでもいいのかなと。

・ローレンス・ローレンツ(レイフ・ファインズ)
『ベン・ハー』っぽい映画を撮っている監督なので、そのまま連想すればウィリアム・ワイラーなんだけど、ゲイの要素が加わっているので、ジョージ・キューカーだな、と軌道修正。ローレンス・ローレンツの語呂から、マンキーウィッツ、かなとおもったりもした。

・ホビー・ドイル(オールデン・エアエンライク)
このカウボーイ役者は、ロイ・ロジャースだな、とおもって見ていた。ジーン・オートリーと云う線もあるのかな。

・バート・ガーニー(チャニング・テイタム)
水兵の格好で歌って踊るのはどう見てもジーン・ケリー。でも、あの仏頂面はまったくジーン・ケリーには見えない。海を渡ってハリウッドを離れてしまうのはチャップリン?

・ディアナ・モラン(スカーレット・ヨハンソン)
見るからにモデルはエスター・ウィリアムズ。に加えて、スキャンダラスな感じはラナ・ターナーが入っているのかな、とおもったけど、あとで調べると、未婚で子供を産んでしまうのはクラーク・ゲーブルの子を産んだロレッタ・ヤングがモデルらしい。

・ソーラ・サッカー/セサリー・サッカー:ティルダ・スウィントン
このゴシップ記者は、ヘッダ・ホッパーかルエラ・パーソンズで間違いなし。さらに調べると、新聞の人生相談コラムで人気のあった双子のアビゲイル・ヴァン・ビューレンとアン・ランダースと云う人物がいて、それもモデルとして加わっているらしい。

共産主義者の集まりはハリウッド・テンか!

さらに、映画の編集者としてフランシス・マクドーマンドが出て来て、フィルムを送る機械にマフラーが巻き込まれて死にそうになるシーンが傑作! あの編集者のモデルはいるのかな。

このように、古いハリウッド映画が好きな人には楽しめるけど、それ以外の人には、なんだこりゃ、だけで終わってしまうんだろうなあ。

→ジョエル&イーサン・コーエン→ジョシュ・ブローリン→アメリカ/2016→109シネマズ木場→★★★☆

海辺のポーリーヌ

監督:エリック・ロメール
出演:アマンダ・ラングレ、アリエル・ドンバール、パスカル・グレゴリー、フェオドール・アトキン、シモン・ド・ラ・ブロス、ロゼット
原題:Pauline à la plage
制作:フランス/1983
URL:
場所:角川シネマ有楽町

エリック・ロメールの3本目は、ノルマンディーの別荘にやってきた15歳の少女ポーリーヌと従姉マリオンが海辺で出会う男たちとの会話劇。

今までの『モード家の一夜』と『友だちの恋人』に比べると、夏の避暑地が舞台の所為か開放的な男女関係がベースとなっているために、どちらかと云うと主人公の慎ましやかで内向的な性格に対して共感が向いてしまう自分にとってはあまり楽しめるシチュエーションではなかった上に、この映画の中での唯一、内向性を代表しているようなピエールが、見るからに女好きでちょいワルはげおやじアンリに負けてマリオンを取られてしまうストーリーも、そこに何か特別な思いが入り込む余地がまったくなかった。

マリオンとアンリ、ピエールの関係と平行するようにポーリーヌとシルヴァンの関係が同時進行するんだけど、そのふたつの対比がもっと明確に浮かび上がって来るようなストーリーだったら、たとえ片方で内向性が外向性に負けるシチュエーションだとしても、もっとポーリーヌとシルヴァンの爽やかな関係性に目が向いていたのに。なんだか、そのふたつのグループの情事は、ただ単純に並んでいるに過ぎなかった。

→エリック・ロメール→アマンダ・ラングレ→フランス/1983→角川シネマ有楽町→★★★

友だちの恋人

監督:エリック・ロメール
出演:エマニュエル・ショーレ、ソフィー・ルノワール、エリック・ヴィラール、フランソワ・エリック・ゲンドロン、アンヌ・ロール・ムーリー
原題:L’Ami de mon Amie
制作:フランス/1987
URL:
場所:角川シネマ有楽町

次のエリック・ロメールの映画は、登場人物が5人の会話劇だった。

どうしてこんなに会話劇の映画が好きになったのかはわからないのだけれど、日本語字幕と云う障害がありながらセリフの量が増えれば増えるほどその映画に対する愛情が正比例でアップしてしまう。たとえばベルイマンの『秋のソナタ』を例に取ると、リブ・ウルマンが母親役のイングリッド・バーグマンに対して数多くの言葉を重ねることによって心の奥深くに閉じこめていた感情が次第に露になって行く過程を見られることが嬉しいし、たとえばポランスキーの『おとなのけんか』では、理性的なジョディ・フォスターが売り言葉に買い言葉を続けることによって徐々にこめかみの血管が浮き立って行く過程が見られるのが好きだし、リチャード・リンクレイターの「ビフォア・シリーズ」では、言葉による相手の心の探り合い、駆け引き、愛情の高まり、失望、怒りがまるで川のように淀みなく流れて行く様子を見ることがとても楽しいし。

エリック・ロメールの『友だちの恋人』は、ビジュアルだけに頼りがちな純情で乙女チックな心の持ち主のエマニュエル・ショーレが、人生経験値の高いソフィー・ルノワールやフランソワ・エリック・ゲンドロンと言葉を交わすことによって、本当の自分の気持ちを次第に確認出来て行く過程が見られるところがとても面白い。おそらくエマニュエル・ショーレの演技経験が少ないので、演技での細かな感情の表現は乏しいのだけれども、それでもダイアローグのパワーでとても面白い映画になっている。このような何気ない男女のシチュエーションを会話だけで成り立たせる映画はとても地味だけれども、ダイアローグによって登場人物の感情の機微を察しながらドラマを見て行くことのできる会話劇ほど面白いものはない。

エリック・ロメールの作風が小津安二郎に似ているということを云う人がいるらしいけど、今までのところそうはおもえなかった。でも、この『友だちの恋人』のエマニュエル・ショーレとエリック・ヴィラールが一緒にウィンドサーフィンをするシーンをポンと挿入するところは、ちょっと『晩春』の原節子と宇津美淳がサイクリングするシーンがポンと挿入されるところをおもい出してしまった。些細な部分のことだけど。

→エリック・ロメール→エマニュエル・ショーレ→フランス/1987→角川シネマ有楽町→★★★★

モード家の一夜

監督:エリック・ロメール
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、フランソワーズ・ファビアン、マリー=クリスティーヌ・バロー、アントワーヌ・ヴィテーズ、マリー・ベッカー
原題:Ma Nuit Chez Maud
制作:フランス/1968
URL:
場所:角川シネマ有楽町

エリック・ロメールの映画をあまり見ていないので、今回の角川シネマ有楽町でのエリック・ロメール特集で何本かを見てみようかとおもう。

まずはエリック・ロメールの代表作とも云われている『モード家の一夜』。

冒頭から教会での司祭の説教からはじまることからもわかるとおり、主人公の「カトリックを信仰していること」が色濃く反映されている映画だった。宗教的な価値観のまったくない日本人にとってはちょっと厳しい映画になるんじゃないかと構えて見はじめたところ、おもったよりも会話を中心とした軽快なテンポの映画で、会話の内容に宗教的な価値観や哲学的な言及があるものの、会話劇が大好きな自分にとってはとても楽しめる映画になっていた。

映画は三つのパートに分かれている。久しぶりに再会した古い友人ヴィダルとのカフェでの会話、その友人の女友達モードとのその女性の部屋での会話、教会で一目惚れした女性フランソワーズとの会話。

最初のヴィダルとのカフェでの会話には、パスカルの「パスカルの賭け」を持ち出した人生観や結婚観の哲学的なやりとりが延々と続くので若干辟易する部分はあるものの、その次のヴィダルの女友達モードとの会話には、カトリックの貞操観念に縛られた女好きな男の一歩踏み出したくても踏み出せない微妙な距離感を保ったままの女性とのやりとりに、まるで自分の不甲斐なさをそこに見るようですっかり感情移入してしまった。貞操観念の希薄な男女のストレートなやり取りばかりが氾濫する日本のテレビドラマや映画が多いなか、これこそが自分にとってのリアルだとおもってしまった。ああ、なんだろう、オレはカトリック教徒だったのか。

ネットで検索すると、露な男女関係や過剰な自意識を描く他のエリック・ロメール作品とは毛色が違う、と云うのがあった。ふーん、『モード家の一夜』はエリック・ロメール作品の中でも特殊なんだろうか。

次は『友だちの恋人』を観ようとおもう。

→エリック・ロメール→ジャン=ルイ・トランティニャン→フランス/1968→角川シネマ有楽町→★★★☆

GOLD

監督:トーマス・アルスラン
出演:ニーナ・ホス、マルコ・マンディク、ラルス・ルドルフ、ウーヴェ・ボーム、ピーター・クルト、ローザ・エンスカート、ヴォルフガング・パックホイザー
原題:GOLD
制作:ドイツ/2013
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

最近のドイツ映画のベルリン派と呼ばれる監督たちを誰ひとり知らなかった。なので、そのうちの一人のトーマス・アルスランの映画を観てみた。

まず、なんの予備知識もなしにこの映画を見てみると、とても淡々とした、静かな調子の、悪く云えば退屈な映画に見えてしまう。でも、そこには何か、わざとドラマティックな展開を排除しているような意図がうかがえる。

・西部劇にありがちな一人の女をめぐった恋の鞘当てになりそうでならない。
・ジョン・ヒューストン監督『黄金』のような金(ゴールド)をめぐった人間のエゴの争いのようになりそうでならない。
・『明日に向かって撃て!』のような追われる側と追う側のドラマ(最後にはその決着が描かれるけど重要ではない)になりそうでならない。

ことごとく「西部劇」における王道のドラマをにおわせておきながらそれを発展させない。劇的な展開は何も起こさせない。人が死んでも、居なくなっても、撃たれて殺されても、淡々と前に進んでいかなければならない。まるで我々の平凡な人生のように。

この映画の上映後、吉田広明(映画批評家)と渋谷哲也(ドイツ映画研究者)のトークがあった。そこで、この「何も起こさせない」ことをトーマス・アルスランは意図しているわけではない、と渋谷哲也が云っていた。トルコ系ドイツ人であるトーマス・アルスランは、その自分の出自に関係することを映画の中に反映させる(主人公のニーナ・ホスはドイツ系移民の二世、三世をうかがわせる)こともできるのにやらない。あえてやらないのではなくて、ただ単にやらない。

うーん、それは、なんだか、凄い。
ちょっと他の作品も見たくなってしまった。

単純にこの映画を観ただけなら、ふーん、で終わってしまっていたのが、ちょっとトーマス・アルスランに興味が湧いてきてしまった。でも、ドイツのジャーナリストが、カンヌ映画祭のドイツ代表がこんな地味な映画なのか! と憤慨したことからもわかるとおり、派手な映画ではないことは確かだ。

→トーマス・アルスラン→ニーナ・ホス→ドイツ/2013→アテネ・フランセ文化センター→★★★☆

シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ

監督:アンソニー・ルッソ、ジョー・ルッソ
出演:クリス・エヴァンス、ロバート・ダウニー・Jr、スカーレット・ヨハンソン、セバスチャン・スタン、アンソニー・マッキー、エミリー・ヴァンキャンプ、ドン・チードル、ジェレミー・レナー、チャドウィック・ボーズマン、エリザベス・オルセン、ポール・ラッド、ポール・ベタニー、トム・ホランド、マリサ・トメイ、マーティン・フリーマン、ウィリアム・ハート
原題:Captain America: Civil War
制作:アメリカ/2016
URL:http://marvel.disney.co.jp/movie/civilwar.html
場所:109シネマズ木場

マーベル・シネマティック・ユニバースの映画にはそれぞれの色があって、『アイアンマン』はトニー・スタークのスケベでお調子者のキャラが映画の色調を決定づけているし、『キャプテン・アメリカ』はスティーブ・ロジャースの衣装にアメリカ国旗のデザインがあしらわれていることからもわかるように「アメリカ人であること」を正面に据えて真面目な映画になっているし、『マイティ・ソー』は北欧神話をベースにしたファンタジーの要素をふんだんに取り入れている。

『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』は、マーベル・シネマティック・ユニバースのスーパーヒーローたちの活動が国際連合の管理下に置かれること(ソコヴィア協定)に同意するべきか否かでスティーブ・ロジャース派とトニー・スターク派に分かれてしまって、その二派の衝突がストーリーの中心となっている。

●ソコヴィア協定否定派
スティーブ・ロジャース/キャプテン・アメリカ
ジェームズ・”バッキー”・バーンズ/ウィンター・ソルジャー
サム・ウィルソン/ファルコン
クリント・バートン/ホークアイ
ワンダ・マキシモフ/スカーレット・ウィッチ
スコット・ラング/アントマン

●ソコヴィア協定肯定派
トニー・スターク/アイアンマン
ナターシャ・ロマノフ/ブラック・ウィドウ
ジェームズ・”ローディ”・ローズ/ウォーマシン
ティ・チャラ/ブラックパンサー
ヴィジョン
ピーター・パーカー/スパイダーマン

ここに「マイティ・ソー」が入る余地の無いのはわかる(「ハルク」はもう完全に置いてきぼり!)けど、スティーブ・ロジャース派に対抗するもう一派のリーダーとしてトニー・スタークを置くのもなかなか無理があった。つまり「キャプテン・アメリカ」の真面目な色調にトニー・スタークが染まってしまうと、明るくていい加減なトニー・スタークの個性がまっるきり死んでしまって、その魅力を失った「アイアンマン」が「キャプテン・アメリカ」と真面目に闘ったとして面白くもなんともない。まあ、「キャプテン・アメリカ」が好きな人にはそれで良いんだろうけど、「アイアンマン」が好きな人にとっては、トニー・スタークの明るいキャラでその場をもっとうまく収めるべきだ! になってしまう。

もともと勧善懲悪の映画では無いので二人の対決のどこにポイントを置いて見れば良いのかを見失っている上に、キャラクターの魅力も失われているとしたらもう完全に身の置き所が無くなってしまった。アメコミの「キャプテン・アメリカ」がアメリカの政治的なものを反映しているのだとしたら、まさしくこのどっちつかずの状況こそがいまのアメリカを象徴しているのかもしれないけど、映画としてはこれではまったく収まりが悪い。最後の「つづく」感も欲求不満が募るだけだった。

→アンソニー・ルッソ、ジョー・ルッソ→クリス・エヴァンス→アメリカ/2016→109シネマズ木場→★★★

追憶の森

監督:ガス・ヴァン・サント
出演:マシュー・マコノヒー、渡辺謙、ナオミ・ワッツ、鶴見辰吾
原題:The Sea of Trees
制作:アメリカ/2015
URL:http://tsuiokunomori.jp
場所:109シネマズ菖蒲

ガス・ヴァン・サントが撮った映画で、マシュー・マコノヒーと渡辺謙が共演して、それも富士山麓の青木ヶ原で二人芝居をする映画と云うのならば、それだけで日本でも話題になるとおもうんだけど、ゴールデンウィークなのにあまりお客が入っていなかった。単館系に分類されるだろう映画なのに何でシネコンのキャパシティで公開したんだろう? 渡辺謙が出ているからかなあ。だったらもうちょっと宣伝しないと。

亡くなった妻に対する罪の意識から死に場所を求めて日本の青木ヶ原にやって来たマシュー・マコノヒーが、すでに自殺に失敗して青木ヶ原を彷徨っていた日本のサラリーマン(渡辺謙)と遭遇し、一緒に青木ヶ原から脱出しようと試みる過程で、妻(ナオミ・ワッツ)と一緒に暮らしてきた過去のエピソードがフラッシュバックして、次第に「死」を求めた自分の罪の意識が和らいで行くと云うストーリー。

映画としてはそんなに目新しいストーリーではないけれど、やはり舞台が日本(実際のロケはアメリカらしい)であるし、渡辺謙がリストラされて自殺しようとしているサラリーマンと云う設定なので、それだけで映画の中にのめり込むことができる。

いろんなキーワードも謎めいていて楽しい。

・『巴里のアメリカ人』の“I’ll build a stairway to paradise(天国への階段)”

・「ヘンゼルとグレーテル」
・「キイロ」と「フユ」

おそらく渡辺謙は、マシュー・マコノヒーに投影されたナオミ・ワッツの意識が顕在化した「霊」のようなものだとおもうので無理が出てしまう可能性があるけど、できればもっと日本的な昔話や神話、富士山信仰などが絡んでいると日本人としてはもっと嬉しかった。

→ガス・ヴァン・サント→マシュー・マコノヒー→アメリカ/2015→109シネマズ菖蒲→★★★☆

レヴェナント: 蘇えりし者

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演:レオナルド・ディカプリオ、トム・ハーディ、ドーナル・グリーソン、ウィル・ポールター、フォレスト・グッドラック、ポール・アンダーソン、ブレンダン・フレッチャー、クリストファー・ジョーナー、メラウ・ナケコ、ブラッド・カーター、ルーカス・ハース
原題:The Revenant
制作:アメリカ/2015
URL:http://www.foxmovies-jp.com/revenant/
場所:109シネマズ菖蒲

むかしから、西部劇に代表されるように、復讐劇は映画の基本ストーリーとも云えて、主人公が窮地に追い込まれて「死」の一歩手前にまで行きながら、そこからギリギリに這い上がって復讐を果たす時ほど、映画を観ている側のカタルシスが得られて面白くなる。『レヴェナント: 蘇えりし者』は、主人公のレオナルド・ディカプリオの生への執着がすさまじく、死線を彷徨いながら徐々に体力を回復して行く過程の描写が凄まじい。その過程を得て、いくつかの幸運に助けられながら、ついに復讐を果たすドラマの振れ幅が大きく、2時間30分もの長さを感じさせない面白い映画だった。

ただ、この復讐劇の発端を考えると、むかしながらの単純な復讐劇ではないことがわかる。

なぜレオナルド・ディカプリオは熊に襲われたのだろう?

熊に襲われなければ、この復讐劇はなかった。つまり、レオナルド・ディカプリオが熊に襲われることこそがこの映画のすべてであって、復讐劇はそれに付随するエピソードでしかなかった。

この映画の舞台となった西部開拓時代のアメリカ北西部のインディアンの間では熊(グリズリー)が神聖視されていたのではないかと容易に想像することができる。(一部の部族では熊は「死と再生」を意味したらしい。http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/VoiceBear.html )そのインディアンの神に遣わされた熊によってレオナルド・ディカプリオは半殺しの目に遭う。それは、白人でありながらインディアンの妻を迎えて、その息子を設けたことに対する懲罰を意味することのか、その息子を取り上げることによって、人間としてより強くなるべく再生の機会を与えられたためなのか。

生死の境目を彷徨うレオナルド・ディカプリオは、息子を殺したトム・ハーディに対する怨念のみを生きるよすがとして生まれ変わり、ついに仇敵と対面を果たす。しかし、追跡の途中に命を助けられたインディアンの云う「復讐は神にゆだねられる」(どうやらこれは聖書の言葉っぽい、ローマ人への手紙12章19節か)の言葉の通りに、トム・ハーディの死をインディアンたちの手にゆだねる。この最後の描写を持ってしても、映画のすべてが、どこか、インディアンの神聖な儀式のようなイメージを受ける。ただ、トム・ハーディの処罰は熊によって行われるべきことのような気もするけど。

表面的は単純な復讐劇の構図を持った映画だったけど、どちらかと云えば、インディアンの世界の「死と再生」の世界観になぞらえたストーリーだったのかもしれない。

→アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ→レオナルド・ディカプリオ→アメリカ/2015→109シネマズ菖蒲→★★★★