ブリッジ・オブ・スパイ

監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:トム・ハンクス、マーク・ライランス、エイミー・ライアン、アラン・アルダ、オースティン・ストウェル、ドメニク・ランバルドッツィ、セバスチャン・コッホ、マイケル・ガストン、ピーター・マクロビー、スティーヴン・クンケン、ジョシュア・ハート、エドワード・ジェームズ・ハイランド、マルコ・チャカ
原題:Bridge of Spies
制作:アメリカ/2015
URL:http://www.foxmovies-jp.com/bridgeofspy/
場所:109シネマズ木場

まだアメリカとソ連が冷戦だったころ、その冷戦を題材としたスパイ映画がいくつか作られて、『寒い国から帰ったスパイ』とか『鏡の国の戦争』とか、どの映画も西と東の国境によって分断された人間同士の愛情や友情が切なく描かれていて、人と人との関係にはまったく意味をなさない国のイデオロギーの違いによる理不尽な引き裂かれ方がセンチメンタルな描写を過度に引き立てているような映画ばかりだった。でも、すでにベルリンの壁は崩壊してしまって、そのような哀愁を帯びたスパイ映画はもう作られないんだろうなあとおもっていたところに、スピルバーグ+コーエン兄弟の冷戦スパイ映画が突然現れた。

コーエン兄弟によるシナリオの構成力も素晴らしいけど、やはり何よりも、自分は国境が大好きなんだなあ、と改めてわかった。島国の日本人には味わえない地続きの国境は、その国境をまたぐ一歩がもしかすると人生を大きく変える意味を持っていて、今までの冷戦スパイ映画と同じように西と東の分断によってそれがさらに強調されて描かれている部分に胸が締めつけられるおもいで映画を見てしまった。西ベルリンと東ベルリンの国境でスパイの引き渡しが行われるシーンで、弁護士のトム・ハンクスがソ連に戻される東側のスパイのマーク・ライランスに「ソ連側は君が西側に何もバラさなかったと理解しているのか?」と聞いて、「それは引き渡された後、抱擁されて迎えられるか、ただ単に車の後部座席に乗せられるかでわかる」と返して、マーク・ライランスが抱擁されることなく静かに後部座席に乗せられるところが遠くに見えるシーンには、もう、涙、涙だった。なんて、切ないシーンなんだ。

例えソ連のスパイであってもアメリカは公平な司法を行うのだ、と云う喧伝のために仕組まれた裁判は、無理やりあてがわれた弁護士のトム・ハンクスによる空気を読まない無垢な正義感によって少なからず混乱し、そのあいだに弁護士のトム・ハンクスと東側のスパイのマーク・ライランスの関係が少しずつ育って行き、その関係を大げさにクローズアップすることなく静かに見せるところがとてもコーエン兄弟らしかった。国境でのスパイの引き渡しのシーンも若干のサスペンスはあるものの、二人の関係が大げさに描かれないからこそ、とても切ないシーンに仕上がっていた。

→スティーヴン・スピルバーグ→トム・ハンクス→アメリカ/2015→109シネマズ木場→★★★☆

スター・ウォーズ/フォースの覚醒(2D日本語吹き替え版)

監督:J・J・エイブラムス
出演:ハリソン・フォード、マーク・ハミル、キャリー・フィッシャー、アダム・ドライバー、デイジー・リドリー、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック
原題:Star Wars: The Force Awakens
制作:アメリカ/2015
URL:http://starwars.disney.co.jp/movie/force.html
場所:109シネマズ木場

1977年の最初の『スター・ウォーズ(4 新たなる希望)』が大ヒットしたことから、監督のジョージ・ルーカスがその最初の3部作(新たなる希望、帝国の逆襲、ジェダイの帰還)の前の世代と後の世代にあたるストーリーの構想を発表し、その前の世代はジョージ・ルーカス自身の監督によって実現(ファントム・メナス、クローンの攻撃、シスの復讐)されたが、「シスの復讐」の公開をもって『スター・ウォーズ』シリーズは「全6部作」でいったん完結すると発表されていた。

しかし、ウォルト・ディズニー・カンパニーが『スター・ウォーズ』シリーズの制作会社であるルーカスフィルムを買収したことから後の世代のシリーズを制作続行することになり、J・J・エイブラムス監督によって無事ここに『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が公開されることになった。

J・J・エイブラムスの監督作品を『スター・トレック』『SUPER8/スーパーエイト』『スター・トレック イントゥ・ダークネス』と見て来て、どの映画もやたらとVFXにばかり重きを置いたガサツなうるさい映画にしか見えず、特に新しい『スター・トレック』シリーズは昔の『スター・トレック』シリーズが精神的な内面に重きを置いていたのに比べるとその大ざっぱなストーリーに憤慨しか覚えず、申し訳ないけど、ああ、これは肌の合わない監督だなと勝手に烙印を押してしまった。

だから今回の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』もさっぱり期待が持てずに公開からズルズルと今の時点にまで観ずに来てしまった。それでやっと重い腰を上げて観たわけだけど、これが、おもったより悪くなかった。考えてみると『スター・ウォーズ』シリーズはそんなにきめ細やかな映画じゃなかったのだ。だからJ・J・エイブラムスにぴったりの映画だったのだ。でも、一番最初の『スター・ウォーズ(4 新たなる希望)』とストーリーの骨格がまったく同じってのはどういうことなんだろう? 新鮮味がまったくなく、新たな驚きがまったくない。まあ、第3世代のシリーズの導入部としては無難なオープニングなのかな。

→J・J・エイブラムス→ハリソン・フォード→アメリカ/2015→109シネマズ木場→★★★

サウルの息子

監督:ネメシュ・ラースロー
出演:ルーリグ・ゲーザ、モルナール・レべンテ、ユルス・レチン、トッド・シャルモン、ジョーテール・シャーンドル、
原題:Saul fia
制作:ハンガリー/2015
URL:http://www.finefilms.co.jp/saul/
場所:新宿シネマカリテ

第2次世界大戦中のドイツの強制収容所では、ガス室に送られたユダヤ人たちの死体を処理する仕事も選別されたユダヤ人たちが行っていた。彼らは「ゾンダーコマンド」と呼ばれ、その「ゾンダーコマンド」のサウルが主人公のこの映画『サウルの息子』は、ほとんどのシーンでカメラがサウルのそばにピッタリと寄り添って、それも被写界深度が極端に浅いので、サウルから離れたものはボケいて何も見えない。だからまるでサウルの行動を追体験するような感覚に陥って、強制収容所で行われたナチスによる所業をリアルに経験するような映画になっていた。

ある日サウルはガス室から息のまだある子供を見つける。すぐに医師によって絶命させられたその子供をサウルは自分の息子だと云い、収容所の中からユダヤのラビを見つけて丁重に葬りたいとして死体を盗み出す。

映画のタイトルはここから来ている。でも、どう考えてみても、その子供は彼の息子には見えない。あまりにもその子供に対するサウルの感情がフラットすぎたからだ。周りの仲間からも、お前に息子はいないだろう、と云われる。おそらく、この子供はユダヤの子供の象徴にすぎなかったんだろうとおもう。

と云うようなことを考えながら映画を見終わって、帰ってからネットで検索したら町山智浩もそのようなことを云っていた。

『サウルの息子』の息子とラストについて – 映画評論家町山智浩アメリカ日記

映画のラストに「希望」のようなシーンを見せてはいるけど、このリアル強制収容所を追体験した身としてはすっかり気分が悪くなってしまった。

→ネメシュ・ラースロー→ルーリグ・ゲーザ→ハンガリー/2015→新宿シネマカリテ→★★★☆

神様なんかくそくらえ

監督:ジョシュア&ベニー・サフディ
出演:アリエル・ホームズ、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ、バディ・デュレス、ロン・ブラウンスタイン
原題:Heaven Knows What
制作:アメリカ、フランス/2014
URL:http://heaven-knows-what.com
場所:新宿シネマカリテ

邦画の『恋人たち』『ハッピーアワー』と来て、その延長線上にあるようにも見えてしまうアメリカのインディペンデント映画『神様なんかくそくらえ』を観た。『恋人たち』と『ハッピーアワー』がとても素晴らしかったので、『神様なんかくそくらえ』も同じように当たりなんじゃないかと予想したのだ。

男から「死ねるのなら、死んでみろ!」と云われて、女が手首を切って血があふれ出すシーンから映画は始まった。

うわっ!と、まずはこれで精神的な打撃を受けてしまった。自分にとって、これはきつかった。そこから立ち直れないでいるうちに、冨田勲のシンセサイザーがその傷ついた精神を逆撫でするような音楽に聞こえてしまってさらに気分が悪くなってしまった。

こうなると何もかもが不快だった。映画の中のどの登場人物に対しても感情を寄せることが出来なくなってしまった。路上生活に落ち込んでしまう人たち、そしてそこからクスリに手を出してしまう人たちは、我々の社会構造が作り出してしまう澱のようなものだと理解していながらも、彼らの精神の弱さ、幼稚さを攻撃したくなるような気分にさせられてしまった。

この映画の中の主人公ハーリーを演じたアリエル・ホームズは、自分自身のニューヨークでの路上生活を元にした手記「マッド・ラブ・イン・ニューヨークシティ」を書き上げ、その映画化の際には演技経験が無いにもかかわらず主人公の自分自身を演じることになった。彼女自身にとってはどん底から抜け出せるきっかけとなって良かったとはおもうけど、まあ、なんとも、個人的には不快な映画だった。

→ジョシュア&ベニー・サフディ→アリエル・ホームズ→アメリカ、フランス/2014→新宿シネマカリテ→★★

ハッピーアワー

監督:濱口竜介
出演:田中幸恵、菊池葉月、三原麻衣子、川村りら、申芳夫、三浦博之、謝花喜天、柴田修兵、出村弘美、坂庄基、久貝亜美、田辺泰信、渋谷采郁、福永祥子、伊藤勇一郎、殿井歩、椎橋怜奈
制作:神戸ワークショップシネマプロジェクト/2015
URL:http://hh.fictive.jp/ja/
場所:シアター・イメージフォーラム

濱口竜介監督による「即興演技ワークショップ in Kobe」から生まれたこの映画は、主人公となる4人の女性も含めたすべての人に演技経験がなく、5ヶ月間の演技ワークショップを受けただけで撮影された映画だった。だから、それぞれの役者の演技はとてもつたない。プロの演技ではまったくなくて、表現力はまったくない。でも、セリフに抑揚がなくても、表情の変化に乏しくても、その演技を真正面から捉えた長回しのシーンの連続によって、この映画の世界が充分に成り立って行っている。これは小津安二郎やロベール・ブレッソンの映画を見た時にも感じたことだけど、映画における役者の演技と云うものは音楽や小道具や衣装と同じように一つのパーツに過ぎなくて、映画が作り出そうとしている世界にそれが巧くはまっていれば、過剰に演劇的な芝居も必要なく、ドキュメンタリー風の自然な佇まいもまったく必要ない。『ハッピーアワー』が作り出したぎこちない演技の世界にはまりこんで、総尺5時間17分もの長さをまったく感じることはなかった。

メインとなる4人の女性の性格がしっかりと描き分けられている部分にも驚いた。キャラクターの設定を明確に打ち出すには演技によるところがずいぶんと大きいと今までずっとおもって来た。ところが『ハッピーアワー』ではそれが充分になされている。もちろん長尺によるところも大きいのだろうけど(この映画は長尺以外にあり得ないのだろうけど)、シナリオにおける人間関係とセリフがしっかりと書き込まれていれば演技は二の次になることがよくわかった。

イングマル・ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』(5時間40分)やフレデリック・ワイズマンの『臨死』(5時間58分)の時もそうだったけど、長い映画にはまりこむとそこからなかなか抜け出せなくなる。『ハッピーアワー』の「あかり」や「純」や「桜子」や「芙美」の顔がふと気が付くと今でも脳裏によみがえって来る。ああ、これはパッケージが欲しいな。Blu-rayになるんだろうか。

→濱口竜介→田中幸恵→神戸ワークショップシネマプロジェクト/2015→シアター・イメージフォーラム→★★★★

アンジェリカの微笑み

監督:マノエル・デ・オリベイラ
出演:リカルド・トレパ、ピラール・ロペス・デ・アジャラ、レオノール・シルベイラ、ルイス・ミゲル・シントラ、アナ・マリア・マガリャーエス、イザベル・ルト、サラ・カリーニャス、リカルド・アイベオ、アデライデ・テイシェイラ
原題:O Estranho Caso de Angélica
制作:ポルトガル、スペイン、フランス、ブラジル/2010
URL:http://www.crest-inter.co.jp/angelica/
場所:ルシネマ

ポルトガルのマノエル・デ・オリベイラ監督が昨年の4月に106歳で亡くなった。その前の年の105歳で『レステルの老人』を完成させて、まだまだ最高齢監督として映画が撮れるんじゃないかとおもっていた矢先だった。おそらくその追悼の意味も込めて、2010年に作られた『アンジェリカの微笑み』が公開されることになった。

『アンジェリカの微笑み』を観ているうちに、これは日本の怪談噺だなあ、とおもって、帰ってからネットを検索したら、そのことに言及している人がたくさんいた。でも、「牡丹燈籠」や「雨月物語」よりも、もっとぴったり似ているストーリーがあったような気がするけど、それがいったい何だったかのかまったく思い出せない。

101歳の時に撮った映画であることを考えると、やはりそこにはマノエル・デ・オリベイラ監督自身の死生観が色濃く反映されているような気がする。「死」と云うものは、できることならこの映画のような甘美なものでありたいなあ。「死」を拒絶するのではなくて、「死」に取り込まれたい!

→マノエル・デ・オリベイラ→リカルド・トレパ→ポルトガル、スペイン、フランス、ブラジル/2010→ルシネマ→★★★☆

恋人たち

監督:橋口亮輔
出演:篠原篤、成嶋瞳子、池田良、光石研、安藤玉恵、木野花、黒田大輔、山中聡、内田慈、山中崇、リリー・フランキー、岡安泰樹、水野小論、大津尋葵、川瀬絵梨、高橋信二朗
制作:松竹ブロードキャスティング/2014
URL:http://koibitotachi.com
場所:丸の内TOEI

キネ旬ベスト10の1位になるような映画は、昨年の1位となった『そこのみにて光輝く』のような辛気臭い映画なんじゃないかと云う危惧はあったのだけれど、それにしては絶賛する人が多く、もしかすると当たりなんじゃないかと期待を込めて観に行ったら、これがまさしく当たりだった。

まず、無名に近い俳優の篠原篤や成嶋瞳子がとても良かった。特に、成嶋瞳子! こんなことを云っちゃあ悪いんだけど、スクリーンの被写体としてはまったく見栄えのしないぼやけた顔の成嶋瞳子が主人公であることに戸惑ってしまって、さらに光石研に乳首を弄ばれるは、野原でションベンをするは、腋毛処理をアップで見せられるは、こんなシーンをどんな顔をして見ればいいんだよ、とどんどんと呆れ果てて行って、気持ちがどんよりと最低のところまで落ち込んだところでハッと気が付いた。いやいや、これはもしかするとすごい映画だ。綾瀬はるかや堀北真希は現実じゃないんだ、成嶋瞳子こそが現実なんだ! と妙に納得してしまって、精一杯に着飾って、化粧をして、その顔がアップになったらまるで昔の公家のような顔になってしまって、ああ、なんて酷いんだろう、でもこれで大好きな皇室に一歩でも近づいたんだね、ああ良かった、良かった、とうっすらと目に涙さえ溜まるほどに感動してしまった。これはいったい何だろう。キレイなおねーちゃんばっかりしか出てこない日本映画に反発しているところに感動してしまったのか。

役者の演技を正面からしっかりとカメラに収めているところも良かった。篠原篤の殺された妻への想いを語るシーンや、成嶋瞳子の大好きな雅子さまへの思いを語るシーンや、池田良の切れてしまった携帯電話に告白し続けるシーンなど、どれもキャラクターの設定が色濃く反映されているシーンで、篠原篤が「怒」ならば、成嶋瞳子が「憧」で、池田良は「忍」と、三者三様に色分けられている構成がとても素晴らしかった。

光石研や安藤玉恵をはじめとする脇も素晴らしく、特に自暴自棄になる篠原篤をいさめる黒田大輔のキャラクターが、鋭角になりすぎる映画に丸みを与えていて、「腹いっぱい食べて笑ってたら、人間なんとかなるからさ」のセリフは、篠原篤と同じように迷走し始めた成嶋瞳子と池田良にも向けられているようで、ささやかなハッピーエンドに終結して行くきっかけを与えているように見えて、まるで天使のささやきにさえ見えてしまうほどだった。

コミックやラノベの映画化を全面的に否定するものじゃないけど、このような映画があってこそ、だよなあ。人間をしっかりと撮っている日本映画をもっと見たい!

→橋口亮輔→篠原篤→松竹ブロードキャスティング/2014→丸の内TOEI→★★★★

マイ・ファニー・レディ

監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
出演:オーウェン・ウィルソン、イモージェン・プーツ、キャスリン・ハーン、ウィル・フォーテ、リス・エヴァンス、ジェニファー・アニストン、オースティン・ペンドルトン、ジョージ・モーフォゲン、シビル・シェパード、リチャード・ルイス、シドニー・ルーカス、デビ・メイザー、イリーナ・ダグラス、ジェニファー・エスポジート、クエンティン・タランティーノ、テイタム・オニール
原題:She’s Funny That Way
制作:アメリカ/2014
URL:http://www.myfunnylady.ayapro.ne.jp
場所:新宿シネマカリテ

ひとむかし、名画座でしか古い映画が観られなかったころ、さかんにピーター・ボグダノヴィッチの『ラスト・ショー』や『ペーパー・ムーン』がかかっていた。その内のとくに『ラスト・ショー』は、閉塞感漂う暗い青春群像が当時の自分とぴったりと重なって、まさにピーター・ボグダノヴィッチ=青春のような意味合いを持つようになってしまった。いまでも『ラスト・ショー』を見れば、主人公のティモシー・ボトムズに当時の自分を重ねて見てしまって、センチメンタルな気分に浸れてしまう。

その後のピーター・ボグダノヴィッチは、『ラスト・ショー』のような特別な感情を持つことができる映画を作らなくなってしまって、やはり彼も『ラストショー』を引きずってんだな、とおもわずにはいられない続編の『ラストショー2』以外は追いかけなくなってしまった。

そんな彼の映画で、久しぶりに観ようと気を起こさせてくれたのが今回の『マイ・ファニー・レディ』だった。映画オタクの彼らしく、セリフに昔の映画の引用があったり、やはり映画オタクのクエンティン・タランティーノを出演させたり、『ラスト・ショー』や『ペーパー・ムーン』に出演していたシビル・シェパードやテイタム・オニールを出演させていたりと映画愛あふれる映画になっていた。でも、シチュエーションや音楽の使い方など、どこからどう見てもウディ・アレンの映画にしか見えなかった。それも、出来の悪いウディ・アレンの映画。ところどころは笑えても、ドタバタを畳みかけての笑いの相乗効果があまりにも下手だった。これはウディ・アレンに対してオマージュを捧げていると捉えて良いんだろうか。

→ピーター・ボグダノヴィッチ→オーウェン・ウィルソン→アメリカ/2014→新宿シネマカリテ→★★★

今年、劇場で観た映画は全部で72本(山形国際ドキュメンタリー映画祭で観た11本を含む)。
その中で良かった映画は以下の通り。

毛皮のヴィーナス(ロマン・ポランスキー)
フォックスキャッチャー(ベネット・ミラー)
インヒアレント・ヴァイス(ポール・トーマス・アンダーソン)
バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)
ジミー、野を駆ける伝説(ケン・ローチ)
セッション(デミアン・チャゼル)
ベルファスト71(ヤン・ドマジュ)
アクトレス 〜女たちの舞台〜(オリヴィエ・アサヤス)
裁かれるは善人のみ(アンドレイ・ズビャギンツェフ)
雪の轍(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン)

本当はフレデリック・ワイズマンの『臨死』がダントツなんだけど、旧作なので除外しました。

独裁者と小さな孫

監督:モフセン・マフマルバフ
出演:ミシャ・ゴミアシュビリ、ダチ・オルウェラシュビリ、ラ・スキタシュビリ、グジャ・ブルデュリ、ズラ・ベガリシュビリ、ラシャ・ラミシュビリ
原題:The President
制作:ジョージア、フランス、イギリス、ドイツ/2014
URL:http://dokusaisha.jp
場所:新宿武蔵野館

中央アジアあたりにあるらしい独裁的な政治を行っている国の大統領が、民衆の蜂起によって孫と一緒に国を追われる道中で、自分の圧政によって疲れ果てた国民たちを目の当たりにして次第に人間の心を取り戻して行くストーリー。

予告編でこのストーリーを聞かされて、おー、なかなか面白そうな映画じゃないか、と期待感がマックスに高まってしまった所為なのか、もう一歩の踏み込みの足り無さが目に付いてしまって、うーん、な映画になってしまった。考えてみれば、この独裁的な大統領に感情を移入できる部分はどこにもなくて、観客の感情を安易に移入させることができるツールとしての子供をダシに使ったとしても、そこには相乗効果として何のプラスも起こらなくて、どちらかと云うと子供のウザさしか感じられないようなマイナスな効果しかもたらしていたんじゃないかとおもえるほどだった。やはりこの映画のキーワードは「マリア」で、無垢なマリアと娼婦のマリアが聖母マリアとマグダラのマリアを暗喩していて、二人のマリアによって大統領と孫の死が聖人へと昇華して行くような宗教的で壮大なラストを用意して欲しかった。

→モフセン・マフマルバフ→ミシャ・ゴミアシュビリ→ジョージア、フランス、イギリス、ドイツ/2014→新宿武蔵野館→★★★