007 スペクター

監督:サム・メンデス
出演:ダニエル・クレイグ、クリストフ・ヴァルツ、レア・セドゥ、ベン・ウィショー、ナオミ・ハリス、デビッド・バウティスタ、アンドリュー・スコット、モニカ・ベルッチ、レイフ・ファインズ
原題:Spectre
制作:イギリス/2015
URL:http://www.007.com/spectre/?lang=ja
場所:109シネマズ菖蒲

ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じる新生007シリーズは、前作の『007 スカイフォール』が素晴らしかったサム・メンデスが監督を続投して、さあ、どんなに華々しくジェームズ・ボンドに対抗すべく悪の組織「スペクター」が復活するのかと過剰な期待を寄せてしまったのが悪かったのかどうもイマイチな内容の映画だった。やはりここは古き良きショーン・コネリー版の007シリーズにあったような滑稽なまでにデフォルメ化された悪の組織が新シリーズのリアリズムと融合して、馬鹿馬鹿しくも残酷な『ダークナイト』のジョーカーのようなダーティヒーローの登場を期待したのがいけなかった。そこに現れたのが小悪党にしか見えないクリストフ・ヴァルツだったので腰砕けしてしまったのだ。

ボンドガールとしてのレア・セドゥも弱いよなあ。悪党も弱くて、ボンドガールも弱ければなかなか007映画としては成立しにくい。せめてもの救いはQの作る秘密兵器が復活したくらいか。009のために用意された「アストンマーチン・DB10」の運転席に「バックファイヤー」「噴射」「エアー」と一緒に「環境」と云うボタンがあって、それを押すと009の愛用曲「New York,New York」が流れるシーンがこの映画の最大のハイライトだった。

→サム・メンデス→ダニエル・クレイグ→イギリス/2015→109シネマズ菖蒲→★★★

ギャラクシー街道

監督:三谷幸喜
出演:香取慎吾、綾瀬はるか、小栗旬、優香、西川貴教、遠藤憲一、段田安則、石丸幹二、秋元才加、阿南健治、梶原善、田村梨果、浅野和之、山本耕史、大竹しのぶ、西田敏行、佐藤浩市
制作:フジテレビ/2015
URL:http://galaxy-kaido.com
場所:109シネマズ木場

三谷幸喜の良さは、あるシチュエーションに放り込まれた人たちが右往左往するさまをいろんな角度から切り取ってコンパクトにテンポよく錯綜させながら畳みかけるように展開して行って最後には大団円を迎える、ってところだったとおもう。少なくとも東京サンシャインボーイズの劇はそうだったし、テレビドラマも「王様のレストラン」がそうだったし、映画も『ラヂオの時間』がそうだった。最近でも、WOWOWのドラマ「大空港2013」は素晴らしかったし、映画だって、成功しているとは云いがたいけど『ザ・マジックアワー』も『ステキな金縛り』もそこにしっかりと向かっていた。でも、『清州会議』もこの『ギャラクシー街道』も、その三谷幸喜の良さは皆無だった。まっるきりの「無」だった。いや、『ギャラクシー街道』はその匂いが感じられるぶん、なおさらたちが悪い。もっとしっかりと練れば良い映画になっていたはずなのに。

ひとつだけ、宇宙コールガールのようなものを演じた田村梨果(ミラクルひかる)は良かった。映画を見ている最中は、この女優はいったい誰だ? とずっとおもっていたけど、ネットで調べたらミラクルひかるだった。ミラクルひかると云えば、これをおもい出す。

→三谷幸喜→香取慎吾→フジテレビ/2015→109シネマズ木場→★☆

雪の轍

監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
出演:ハルク・ビルギナー、メリサ・ソゼン、デメット・アクバァ、アイベルク・ペクジャン、セルハット・クルッチ、ネジャット・イシレル
原題:Kis Uykusu
制作:トルコ、フランス、ドイツ/2014
URL:http://bitters.co.jp/wadachi/
場所:ギンレイホール

『雪の轍』は第67回カンヌ国際映画祭のパルムドール大賞を獲った映画。3時間16分もの長尺なので一度はパスした映画だったけれど、自分の回りでの評判がなかなか良いので、二番館(なんて言葉はもう死語かもしれない)のギンレイホールまで追いかけた。

登場人物は、トルコのカッパドキアにある洞窟ホテルを運営する夫婦アイドゥンとミハル、そしてアイドゥンの妹ネジラ。さらに彼らが貸している家に住む兄弟のイスマイルとハムディが絡んで、元俳優で今は地方新聞にコラムを書いているアイドゥンを中心とした確執が展開して行く。

映画の中での会話劇が大好きなので、アイドゥンとネジラ、アイドゥンとミハル、アイドゥンとイスマイルやハムディとの言葉だけでやり合うシーンがとても面白かった。裕福で人格者に見えるアイドゥンの人間性を根拠の無いまま信頼して、彼の肩を持って喧嘩のシーンを見守る序盤から、徐々にその言葉の端々に、おや? が積み重なって行って、最後には彼と決別せざるを得なくなってしまう構成も素晴らしい。

とは云え、妹のネジラや妻のミハルの売り言葉に買い言葉の言動も信頼することは出来ず、イスラム教の導師と呼ばれているハムディに対しても影でアイドゥンに悪態をつくシーンからまったく信用できず、もちろん粗野なイスマイルからは暴力しかイメージできなくて、登場人物の誰に対してもより所を見つけれないまま3時間も見続けなければならない映画はなかなか辛い。特にアイドゥンと妹のネジラとの喧嘩のシーンはいったい何分あるんだろう。この言葉だけの闘いはイングマル・ベルイマンの『秋のソナタ』の中のイングリッド・バーグマンとリヴ・ウルマンの親子喧嘩を思い出させるほど壮絶なもので、そのシーンが終わったときには頭がクラクラした。アイドゥンが妻のネジラを言葉だけで完膚無きまでに打ちのめすシーンも、男がここまで言葉巧みに細かく女を攻撃し続ける映画をあまり見たことがない。どちらかと云うと女性が行うような攻撃性をアイドゥンに見て、とても不愉快になる男は多いとおもう。

面白い映画だけど、見終わったあとにヘトヘトになる映画だった。

→ヌリ・ビルゲ・ジェイラン→ハルク・ビルギナー→トルコ、フランス、ドイツ/2014→ギンレイホール→★★★★

裁かれるは善人のみ

監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ
出演:アレクセイ・セレブリャコフ、エレナ・リャドワ、ウラジーミル・ウドビチェンコフ、ロマン・マディアノフ、セルゲイ・ポホダーエフ、アンナ・ウコロワ、アレクセイ・ロージン
原題:Leviathan
制作:ロシア/2014
URL:http://www.bitters.co.jp/zennin/
場所:新宿武蔵野館

GoogleMapなどで世界地図を眺めると、日本の北西には海を挟んでロシアが広がっていることに気が付く。東は北アメリカ大陸との境になるベーリング海峡に面し、西は旧ソ連圏のウクライナやベラルーシとの国境に接しているほどの広大な土地には、まんべんなく都市がちらばっていることがわかる。北に目を向ければ、北極海に面した海岸にもへばりつくように町々があって、そのような北の果ての暮らしはどんなものなんだろうと想像をめぐらせたりしたこともあった。

『裁かれるは善人のみ』の舞台は、ロシアの辺境に位置する架空の都市プリブレズニイ。実際の撮影は、バレンツ海に突き出たコラ半島にあるチェベルカだそうだ。

まさに、このチェベルカのようなロシアの辺境の人々の暮らしぶりが知りたかったので、『裁かれるは善人のみ』はその場面設定自体がとても興味深かった。

北極海に突き出た断崖絶壁の岬、そこに打ち寄せる強烈な波しぶき、海岸に放置された朽ちた巨大なクジラの骨。そのようなチェベルカの町の、先の無い、どん詰まり感が素晴らしい。何もかもがおもい通りに行かなくなって、次第に追いつめられて行くストーリーも、土地と同様に閉塞感が支配していてチェベルカの風景にぴったりだった。さらに、ソ連時代の恐怖政治をも想像させるような暴力の支配も息苦しさに輪をかけているようでなんとも厳しい映画だった。

設定自体は厳しい映画ではあったけれども、邦題に付いた「善人」とは言い難く、「悪人」にも分類されないような中途半端な人々が織りなす人間模様は面白かった。夫婦関係も、親子関係も、友人関係も、そして宗教(ロシア正教)に対しても、すべてが愛情と憎しみが相半ばするような関係のまま維持せざるを得ないのは、この厳しい土地に住んで行くための先代から培われた方法なのか。北の果ての土地が醸し出すオーラに支配されているためなのか。

→アンドレイ・ズビャギンツェフ→アレクセイ・セレブリャコフ→ロシア/2014→新宿武蔵野館→★★★★

アクトレス 〜女たちの舞台〜

監督:オリビエ・アサイヤス
出演:ジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツ、ラース・アイディンガー、ジョニー・フリン、ブラディ・コーベット、ハンス・ジシュラー、アンゲラ・ビンクラー、ノラ・フォン・バルトシュテッテン
原題:Sils Maria
制作:フランス、スイス、ドイツ/2014
URL:http://actress-movie.com
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町

なぜか、舞台劇の映画化が大好きだ。限られた空間で展開される会話劇が好きで、映画として利用できる画面の広がりや展開のダイナミックさを殺してしまう結果にはなるけど、舞台では味わえない俳優のクロースアップやカットの繋がりから生まれるリズムから、凝縮された演劇空間がさらに豊かなものになっているように見えるところが好きな理由なんだとおもう。

オリビエ・アサイヤスの『アクトレス 女たちの舞台』は舞台劇の映画化ではないけれど、架空の舞台劇「マローナのヘビ」を再演する際の主演女優(ジュリエット・ビノシュ)と専属秘書(クリステン・スチュワート)の台本の読み合わせが主となっていて、そこで展開されるふたりのやり取りが台本上のセリフなのか、それとも実生活上でのふたりの会話なのかがわからなくなる虚々実々とした展開がとても演劇的で、ふたりの主従関係が時には逆転して見えたり、年上のジュリエット・ビノシュが時には幼く見えたりと、まるで二人芝居を見ているような両者の駆け引きがとても面白かった。それに舞台劇「マローナのヘビ」のストーリー自体が企業の上司と部下と云う主従のふたりの女性を主人公としていて、そこで交わされる女性同士の恋愛感情をも匂わせる会話が、ジュリエット・ビノシュとクリステン・スチュワートの女性同士の愛憎関係をも重ね合わせてみることができる重層構造になっているところが映画に深みを与えていた。

さらには、初演の時には若い部下の役を演じていたジュリエット・ビノシュが再演では年嵩の上司の役を演じることになり、若い頃に感じていた上司役の人物設定に対する無理解がクリステン・スチュワートと読み合わせをすることにより記憶からよみがえり、そこには歳を取ることによってもう若い役を演じることは出来ないと云う嫉妬をあたかも読み合わせの相手役のクリステン・スチュワートへぶつけているようにも見える複雑な構造へと変化して行く。読み合わせで若い部下の役を担当していたクリステン・スチュワートはいつのまにか上司役に取って変わったような状態となり、まるで舞台劇「マローナのヘビ」で上司が部下の元を去るように何も云わずにジュリエット・ビノシュの元を去って行く。

さらにもう一つ、再演の時に相手役をつとめる女優(クロエ・グレース・モレッツ)に対するその若さゆえに許される奔放な行動への羨望も重ね合わされ、年上と年下、大女優と若い人気女優と云ったジュリエット・ビノシュとクロエ・グレース・モレッツの関係も次第に曖昧になって行く。リハーサルの時の、ジュリエット・ビノシュのクロエ・グレース・モレッツに対するの演技上の苦言もさらりと交わされ、どちらが先輩の大女優なのかわからなくようなシーンは印象的だった。

このように二重にも三重にも受け取れる演劇的な構造が映画の中にうまく組み込まれ、さらにはスイスの大自然を利用した場面の展開も合わさって(実際の自然現象「マローナのヘビ」が見られるシーンは感動的だ!)、素晴らしい映画に仕上がっている。今年のベストにしても良いくらいの映画だった。


(映画の中にも出てきたアーノルド・ファンクの映画『Das Wolkenphänomen in Maloja』。「マローナのヘビ」が見られる)

→オリビエ・アサイヤス→ジュリエット・ビノシュ→フランス、スイス、ドイツ/2014→ヒューマントラストシネマ有楽町→★★★★

監督:パトリシオ・グスマン
出演:
原題:El Botón de Nácar
制作:フランス、チリ、スペイン/2015
URL:http://www.uplink.co.jp/nostalgiabutton/
場所:岩波ホール

パトリシオ・グスマン監督の『真珠のボタン』は、山形国際ドキュメンタリー映画祭のインターナショナル・コンペティションに出品されていたので山形で観る機会があったのだけれど、その時にはすでに岩波ホールで上映が始まっていて、山形では時間的に観られる映画が限られてしまうので『真珠のボタン』は東京に帰ってから観ればいいやとパスしていた作品だった。

山形国際ドキュメンタリー映画祭で山形市長賞(最優秀賞)を獲った『真珠のボタン』は、チリの南部に住んでいたインディオへのスペイン人入植者による虐殺の歴史からはじまって、ピノチェト政権下での左派系の人々への拷問・死刑へと続く、チリの歴史の暗い側面を扱っていた。チリのインディオたちが「海」とともに暮らし、その「水」を「宇宙」と密接に結びつけていたことから、この映画は「水」をテーマとして中心に置いて、歴史の犠牲となって海に沈められた死体の数々も「水」から「宇宙」へと還り、それがまたどこか違う星に生命をもたらすような輪廻転生のサイクルをもイメージさせるような映画になっていた。

チリの歴史についてはコスタ=ガヴラス監督の1982年の映画『ミッシング』を見て、1973年に軍事クーデターがあったくらいの知識はあったけど、インディオについてはペルーやボリビアのインディオと混同していて、まさかチリの海岸沿いの島々をカヌーで渡るインディオがいるとは考えもせず、そのような独特の文化を持つインディオがまるで動物を狩るように殺されていたことなんて想像だにもしなかった。日本にも暗い過去があるけど、どこの国にも何かしら暗部を抱えているのだなあとあらためて再認識した。そして、この映画が示すような大局的な視野を持つことによって、歴史認識や宗教から生まれる相互の憎しみも超越できるんじゃないかとおもったりもするけど、その高みには到達できない人間の未熟さがさらに強調されているようにも見える映画だった。

山形国際ドキュメンタリー映画祭ではパトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』三部作も一挙上映されていて、それを観ていればこの『真珠のボタン』のチリについての理解も深まっていたのではないかと後悔しきり。

→パトリシオ・グスマン→→フランス、チリ、スペイン/2015→岩波ホール→★★★☆

白い沈黙

監督:アトム・エゴヤン
出演:ライアン・レイノルズ、スコット・スピードマン、ロザリオ・ドーソン、ミレイユ・イーノス、ケビン・デュランド、アレクシア・ファスト
原題:The Captive
制作:カナダ/2014
URL:http://shiroi-chinmoku.com
場所:TOHOシネマズ シャンテ3

カナダの監督と云えば、まずはデヴィッド・クローネンバーグ。そして、アトム・エゴヤン。最後に、最近ますます株が上がって来たドゥニ・ヴィルヌーヴ。この3人を勝手にカナダ三羽ガラスと読んでいる。

この3人の監督の中でも、ここのところあまりパッとしなかったアトム・エゴヤンの最新作『白い沈黙』は、親が目を放した隙に娘がいなくなるシチュエーションから、どうしても同じカナダ人監督ドゥニ・ヴィルヌーヴの『プリズナーズ』と比較してしまう。

『プリズナーズ』がアメリカの田舎に根ざした宗教的な偏狭さをベースにした奥深い設定になっているのに対して、『白い沈黙』はそこまで厚みのある映画ではなかった。ひとつディープな部分になり得るところがあるとすると、子供を誘拐してから虐待を加えてそれをネットで生中継するような変質者のコミュニティが存在する設定の部分なんだけど、なぜかそこは突っ込まれずに映画が終わってしまった。

このふたつの映画に加えてクローネンバーグの『ヒストリー・オブ・バイオレンス』を加えると、なんだろう、カナダ三羽ガラスの根底にあるイメージはある程度共通しているんだろうか。

→アトム・エゴヤン→ライアン・レイノルズ→カナダ/2014→TOHOシネマズ シャンテ3→★★★☆

戦争のない20日間

監督:アレクセイ・ゲルマン
出演:ユーリー・ニクーリン、リュドミーラ・グルチェンコ、アレクセイ・ペトレンコ
原題:Двадцать дней без войны
制作:ソ連/1976
URL:
場所:新文芸座

『戦争のない20日間』は『道中の点検』や『神々のたそがれ』と同じ「道行」の映画だった。その主人公の「道行」にカメラがぴったりと寄り添うスタイルはすべての映画に共通するものだった。ただ『戦争のない20日間』は他の二つの映画と比べると、「戦地」と「内地」を対比させる厳しさはあるものの、人間の精神的な側面を厳しく描き出す点では抑え気味だったので、全体的には穏やかな映画に見えてしまった。だからか、緊張の糸が切れてしまったためにちょっとウトウトしてしまった。結局、アレクセイ・ゲルマンに求めるものは、愚かな人間の業をむき出しにしているところなんだなあと。

ひとつ、とても興味深かったのは、ソ連時代のタシケント(いまはウズベキスタンの首都)が出てくるところ。たぶん、映画のストーリー通りにタシケントでロケーションをしているとおもう。主演のユーリー・ニクーリンもスラブ系には見えないのでウズベク人なのかなあ。

→アレクセイ・ゲルマン→ユーリー・ニクーリン→ソ連/1976→新文芸座→★★★

道中の点検

監督:アレクセイ・ゲルマン
出演:ロラン・ブイコフ、ウラジミール・ザマンスキー、アナトリー・ソロニーツィン、オレグ・ボリーソフ、アンダ・ザイツェ
原題:Проверка на дорогах
制作:ソ連/1971
URL:
場所:新文芸座

今年の5月に観たアレクセイ・ゲルマン監督の遺作『神々のたそがれ』は、わけがわからないながらも映画から発するパワーに圧倒された映画だった。面白いかと聞かれれば、面白い映画とはまったくおもえないし、観ていてとても辛い映画だった。それなのに、すでに半年近くも経っているのに未だにその映画を引きずっているようなところがあって、心の底に得体のしれないドロドロとした澱がズシンと残ったような状態のままだ。

そんなわけだから引き寄せられるように新文芸座にアレクセイ・ゲルマンの旧作を観に行ってしまった。

アレクセイ・ゲルマンの単独としての監督処女作『道中の点検』は、第二次世界大戦中にドイツ軍に協力したソビエト軍の元伍長がパルチザンに投降し、何とかして再び祖国の兵士として認められたいと死闘するストーリーだった。この元伍長の動向に対してカメラがぴったりと寄り添う。カメラはとても近い。近すぎる。『神々のたそがれ』の「ドン・ルマータ」に対するカメラの近さとまったく同じだ。アレクセイ・ゲルマンのスタイルはすでに処女作にして確立されていた。このカメラの近さがまるでドキュメンタリーのようなリアリティを生み出し、『神々のたそがれ』よりもわかりやすく緊張感あふれるストーリーがより一層リアリティを増していた。

タルコフスキーもそうだけど、アレクセイ・ゲルマンの映画から発する不思議なオーラはいったい何から起因しているんだろう。ストーリーが面白いとか、登場人物に感情移入できるとか、そんなありふれた映画体験以外の部分に魅了される映画がロシア映画には多い。

→アレクセイ・ゲルマン→ロラン・ブイコフ→ソ連/1971→新文芸座→★★★☆

岸辺の旅

監督:黒沢清
出演:深津絵里、浅野忠信、小松政夫、村岡希美、奥貫薫、赤堀雅秋、蒼井優、柄本明
制作:「岸辺の旅」製作委員会/2015
URL:http://kishibenotabi.com
場所:丸の内TOEI

「幽霊」の存在を信じるかと聞かれたときには、信じる、と答えるとおもう。しかし、その「幽霊」とは、多くの人が信じているような外的要因から現れるものではなくて、人間の脳が作り出す内的要因のものではないかと考えている。今までよく云われてきたような「幻視」に近いものかもしれないけれど、その脳の生み出す映像を他人と共有することが出来る点で「幻視」とはちょっと違うのかもしれない。他人が作り出す脳内映像を共有することによって、まるで外的要因の物体に見えてしまうものが「幽霊」の正体ではないかと今のところそうおもっている。

この自分なりにおもい描く「幽霊」の正体を絶対視してしまうと、「幽霊」を扱ったホラー映画のほとんどに鼻白んでしまう。黒沢清が「幽霊」を扱う映画も、たとえば『回路』とかも、どうしても興ざめしてしまう。どんなに優れている映画であろうと、「幽霊」はそう云うものではないだろう、が先に立ってしまうとまったく楽しめなくなる。

今回の『岸辺の旅』の「幽霊」は、無理やりに深津絵里の脳内が作り出すイメージと考えてしまえば、今までの黒沢清の映画の中でも一番の納得行く映画だった。もちろん原作ではそのような「幽霊」の扱いになっているとわけではなくて、生者と死者の境界線のことを描いているんだろうけれども。でも「死者の世界」の概念を持ち込まれると途端にストーリーに興味がなくなってしまうので、そこはあえて無視で。

→黒沢清→深津絵里→「岸辺の旅」製作委員会/2015→丸の内TOEI→★★★☆