プロミス・ランド

監督:ガス・ヴァン・サント
出演:マット・デイモン、ジョン・クラシンスキー、フランシス・マクドーマンド、ローズマリー・デウィット、スクート・マクネイリー、タイタス・ウェリバー、ハル・ホルブルック
原題:Promised Land
制作:アメリカ/2012
URL:http://www.promised-land.jp
場所:新宿武蔵野館

『プロミス・ランド』はガス・ヴァン・サントが2012年に撮った映画で、このたび日本でもやっと公開されれる運びとなった。それなりに有名な監督の、これくらいのレベルの作品が日本では公開されなくなるのが一番怖い。でも、なんとなく、そうなって行く現実が…。

今回のガス・ヴァン・サントの映画は社会派ドラマだった。取り立ててガス・ヴァン・サントが撮るような映画ではなくて、スティーブン・ソダーバーグが撮っても良いような映画なんだけれども、それでもガス・ヴァン・サントがそつなく、丁寧に撮っている。時事ネタのシェールガスを持って来ているところも面白かった。

次世代エネルギーとして注目されている新しい天然ガス資源のシェールガスは、なぜか北アメリカに集中して土の中に眠っていて、世界の生産量の99.9%が北アメリカに集中している(Wikipediaより)。農業以外に取り柄のないアメリカの辺鄙な田舎にも、地下深くの頁岩(けつがん)層にシェールガスが多く眠っていて、今までは二束三文の価値しかなかった自分の土地が莫大な利益を生むこととなって、多くの農家が大金持ちになったらしい。

『プロミス・ランド』はそんなアメリカのとある田舎に、大手エネルギー会社の採掘権買い占め担当としてマット・デイモンが派遣される。映画の冒頭に、マット・デイモンが幹部候補に推されるシーンがまずはあって、おそらくはその幹部への推薦が有利になるようにと、簡単に莫大な利益を生む仕事をはなむけとしてプレゼントされたように見える映画の導入部だった。マット・デイモンはそこまで上層部に愛されていて、仕事の出来る人間なんだなあとおもわせる映画の始まりだった。

ところが、映画を見て行くうちに、マット・デイモンが幹部候補になるほど仕事が出来る人間にはまったく見えないことに驚いた。一緒に行動するフランシス・マクドーマンドのほうが有能に見えるし、シェールガス開発に反対する環境保護団体(に見える)のジョン・クラシンスキーにも行動力において圧倒的に負けていた。この男のどこが幹部候補なんだ! となってしまった。どうやら、バリバリの仕事人間が地方に派遣されて、その地の朴訥な田舎の人びとに感化されて、次第に人間らしさを取り戻して行く、と云う平凡なパターンの映画ではないらしい。

じゃあ、どんな映画なのかと云うと、そこへの疑問の一つのカギとしては、マット・デイモンがアイオワの田舎の出身で、子供のころにアイオワにまで進出してきた企業の工場が閉鎖したことによって田舎の人びとが貧乏で苦しんだことに言及するシーンが何度か出て来ることだった。おそらく、そんな自分の田舎がイヤで飛び出して、都会の大企業に就職したマット・デイモンの過去への回帰がこの映画のポイントで、幹部候補にまで昇りつめた男が、くしくも自分の田舎と似たような転換期に追い込まれている場所に派遣されたことから、あんなにイヤだった田舎に自分の気持ちを回帰させて、贖罪して行くことがこの映画の主題であることがだんだんと見えてくる。

となると「幹部候補」はどこに効いてくるんだろう? 人を押しのけてまでも自分の野心を叶えようとするプライドの高い「幹部候補」が田舎の純粋さに染まって行く落差を描くのならば「幹部候補」である意味があるのだけれど、自分の過去に回帰して行くだけの映画ならば「幹部候補」はいらなかった。環境汚染から来る「成長しきれていない牛」をおもわせるシーンもいらないし。

この映画を観て、ビル・フォーサイス監督の『ローカル・ヒーロー/夢に生きた男』をおもいだした。バリバリの仕事人間がスコットランドの田舎に染まって行く映画で、そこに登場する田舎の人びとも含めてスコットランドと云う土地がとても魅力的に映る映画だった。『プロミス・ランド』も、もうちょっとその田舎が魅力的に見えるような登場人物が必要だった。

→ガス・ヴァン・サント→マット・デイモン→アメリカ/2012→新宿武蔵野館→★★★☆

リアリティのダンス

監督:アレハンドロ・ホドロフスキー
出演:ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、イェレミアス・ハースコヴィッツ、アレハンドロ・ホドロフスキー、アクセル・ホドロフスキー、アダン・ホドロフスキー
原題:La danza de la realidad
制作:チリ、フランス/2013
URL:http://www.uplink.co.jp/dance/
場所:新宿シネマカリテ

東京国際ファンタスティック映画祭’86で観たアレハンドロ・ホドロフスキーの『エル・トポ』は衝撃的だった。1985年に第1回目が開催された東京国際ファンタスティック映画祭の興奮を再び体験できるんだと云う高揚感もあったのだろうけれど、アングラな前衛芸術に慣れていないウブな人間に『エル・トポ』の映像は、まるでカーニバルでのフリークショーを見ているような、日本だったらお祭りでのバケモノ屋敷を見るような、見てはイケないものをのぞき穴から覗いているような後ろめたさいっぱいの異様な興奮に支配された映像体験だった。

1970年に作られた『エル・トポ』から43年が経って撮られた『リアリティのダンス』は、この長い年月の隔たりを考えずにそのまま60年代、70年代のアングラ的なイメージが展開されることをアレハンドロ・ホドロフスキーに期待して見てしまったら、導入部からクリアな美しい現代アートのような映画になってしまっているのにちょっと裏切られた感じがしてしまった。でも、よくよく考えてみると、どんな映像もネットによってあからさまに公開されている現在、手足の無い男たちの集団が暴れるシーンも、妻が夫に跨がって小便をするシーンも、数ある現代的なパフォーマンスの一つに見えてしまうのはあたりまえで、時代の空気がその時に作られる映像のトーンをも決定してしまうんだなあと改めておもい知らされた。もうすでに60年代、70年代の前衛演劇など存在していなかったのだ。とすれば、もし寺山修司が生きていたとしたら、今の時代にどんな映画を撮っていたんだろう? この対談を読んで、遠い目になってしまった。

→アレハンドロ・ホドロフスキー→ブロンティス・ホドロフスキー→チリ、フランス/2013→新宿シネマカリテ→★★★☆

GODZILLA ゴジラ

監督:ギャレス・エドワーズ
出演:アーロン・テイラー=ジョンソン、渡辺謙、エリザベス・オルセン、ジュリエット・ビノシュ、サリー・ホーキンス、デヴィッド・ストラザーン、ブライアン・クランストン
原題:Godzilla
制作:アメリカ/2014
URL:http://www.godzilla-movie.jp
場所:109シネマズ木場

ハリウッド版「ゴジラ」がまたやって来た。前回のローランド・エメリッヒ版「ゴジラ」は、まるで『ジュラシックパーク』の延長線上のような恐竜映画で、「ゴジラ」と云える代物ではまったくなかった。で、今回はその反省もふまえて、日本の「ゴジラ」への敬愛の念を込めて作ってあるとの情報を得ての映画鑑賞だったけど、うーん、もちろんローランド・エメリッヒ版よりは断然良い。それは間違いない。でも、この映画の中の登場人物は、あまりにも活躍しなさすぎ。特にジュリエット・ビノシュやサリー・ホーキンスの女優陣の扱いが酷い。ジュリエット・ビノシュなんて出て来てすぐ死ぬだけ。そこにはいろいろと含みがあって、あとからジュリエット・ビノシュの死がストーリーに効いてくるのかとおもったら、それも全然なし。サリー・ホーキンスなんて渡辺謙のあとを追いかけてあたふたしているだけ。二人ともなんでこんな役を受けたんだろう。あまりにも酷いシナリオだ。

人間が描けていないから、反核のテーマも中途半端になって、そこから訴えるメッセージが何もない。あまりにも「ゴジラ」や「ムートー」を見せることに重きを置いてしまって、映画としてのバランスがとても悪い。

そんな「ゴジラ」や「ムートー」を見せることに腐心しているのに、クリーチャーデザインの酷さがさらに追い討ちをかける。「ゴジラ」なんて鴨川に打ち上がったオオサンショウウオのようだ。「ムートー」のデザインの適当さはエヴァンゲリオンの使徒のようだ。もっと「ラドン」に似せても良かったんじゃないかと。

オープニングシーンで、渡辺謙がヘリコプターから下りるシーンは、なんとなく『未知との遭遇』のフランソワ・トリュフォーをイメージさせて、芹沢博士=ラコーム博士なのか、と狂気したけど、どんどんと尻つぼみ。芹沢博士もおもわせぶりの発言をするだけで、まったく存在感なし。ああ、もっと人間を描いて欲しかった。

→ギャレス・エドワーズ→アーロン・テイラー=ジョンソン→アメリカ/2014→109シネマズ木場→★★☆

複製された男

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ジェイク・ギレンホール、メラニー・ロラン、サラ・ガドン、イザベラ・ロッセリーニ
原題:Enemy
制作:カナダ/2013
URL:http://fukusei-movie.com
場所:新宿シネマカリテ

ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画は、WOWOWで見た『灼熱の魂』に衝撃を受けて、さらに今年になってから映画館で観た『プリズナーズ』もまた素晴らしくて、今年のベストワンに推しても良いくらいの映画だった。今後のドゥニ・ヴィルヌーヴは注目だぞ、とおもっていたら、早くも次回作がやって来た。

『複製された男』と云うタイトルからSF映画だと勝手に推測していた。映画のあたまからクローンの話しであるとおもいこんでストーリーを追っていたら、どんどんと辻褄が合わなくなって来て、ああ、これはクローンの話しじゃないな、と気が付いたのは映画も半ば過ぎ。そこから一人の男のイメージが錯綜しているストーリーとして映画を捉えてはみたものの、細かいところがはっきりとしないまま、最後に大きな蜘蛛が出て来て突然終わってしまった。

このままではもやもやとしたままだったので「町山智浩の映画ムダ話⑧ 『複製された男(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督) 』」を200円払って聞いてしまった。(200円と云う値段付けが良い!)そうしたら細かいところまですべてが氷解。やっぱり町山さんは素晴らしい。

で、映画としてどうだったかと云われると、まあ、町山さんの云われるように類型の映画の域は出ないものの、でも、一人の男の内なる葛藤のイメージ化としては、ところどころにクローネンバーグやエゴヤンを見るようで、とてもカナダ的な乾いた殺伐さが自分にはとてもしっくりと来て気持ちよかった。なぜだかはわからないけど、トロント系の映画作家とはウマが合う。

→ドゥニ・ヴィルヌーヴ→ジェイク・ギレンホール→カナダ/2013→新宿シネマカリテ→★★★★

ジゴロ・イン・ニューヨーク

監督:ジョン・タートゥーロ
出演:ジョン・タートゥーロ、ウディ・アレン、バネッサ・パラディ、リーブ・シュレイバー、シャロン・ストーン、ソフィア・ベルガラ、ボブ・バラバン
原題:Fading Gigolo
制作:アメリカ/2013
URL:http://gigolo.gaga.ne.jp
場所:新宿武蔵野館

ストーリーの入り方はまるでウディ・アレンの映画のようだった。代々続いて来たブルックリンの本屋を潰してしまったウディ・アレンが、かかりつけの皮膚科の女医から「レズビアンのパートナーとのプレイに男を入れたい」と相談を持ちかけられる。ウディ・アレンは友人のジョン・タートゥーロをその男娼に仕立て上げるが、これがおもっていたよりも有閑マダムたちに人気となってしまって大成功。さあ、ここからが、旨い話は長く続かないのが世の常で、おもわぬ落とし穴にはまって転落へ向かってのドタバタがはじまって大騒動、となるのがウディ・アレンの映画で、軽快なテンポで笑わせてくれるのを期待するのが彼の映画だった。でも、ジョン・タートゥーロの映画はそうはならなかった。高名なラビの未亡人であるバネッサ・パラディを登場させて、厳格なユダヤ教徒であるがゆえのジョン・タートゥーロとの純愛へとストーリーは進んで行ってしまう。

となると、ウディ・アレンのキャラクターがウディ・アレンの映画に出てくるキャラクターそのものにしか見えないので、せかせかと動き回る道化のウディ・アレンは何のために存在しているのかまったくわからなくなってしまう。バネッサ・パラディに対してずっと想いを寄せているパトロール警官のリーブ・シュレイバーとのドタバタもウディ・アレンの映画ならば笑わせるポイントなんだろうけど、これがぽっかりと浮いてしまっていてまったく笑えない。そもそも笑う映画ではないのか? でもウディ・アレンの演技からすればウディ・アレンの映画のように笑いたいよなあ。それが笑えない苦しさ。なんとも中途半端な映画となってしまった。

→ジョン・タートゥーロ→ジョン・タートゥーロ→アメリカ/2013→新宿武蔵野館→★★★

ノア 約束の舟

監督:ダーレン・アロノフスキー
出演:ラッセル・クロウ、ジェニファー・コネリー、レイ・ウィンストン、ダグラス・ブース、エマ・ワトソン、ローガン・ラーマン、アンソニー・ホプキンス
原題:Noah
制作:アメリカ/2014
URL:http://www.noah-movie.jp
場所:新宿ミラノ2

キリスト教の信者でなくとも「ノアの方舟」のストーリーは知っている。子供のころに、絵本や雑誌だったか、それともテレビ番組だったかで、ノアが方舟に動物を乗せるイラストやアニメーションを見せられた気がする。おそらく日本では「ノアの方舟」は童話のような位置づけにあって、子供から大人まで誰もが知っているエピソードとなっている。その「ノアの方舟」の逸話を今になって、それもダーレン・アロノフスキーが聖書に基づいてしっかりと映画化してくれるのかと期待したら、これがどう見ても「指輪物語」のようなファンタジックな映画に仕上がっている。「ノアの方舟」の実際のストーリーってこんなものなのか? とネットを調べてみたら、どうやらダーレン・アロノフスキーは偽典でもある「エノク書」などからも逸話を引っ張ってきて、オールラウンドの「ノアの方舟」を作っちゃったらしい。まあ、それでも面白ければ何でもいい。ノアを魔法使いにしてしまってもいい。でも、それだけ無茶をやったのならば面白さを保証しなければ絶対にダメだ。だいたいラッセル・クロウをノアにキャスティングするってこと自体が間違ってるんじゃないのかなあ。

→ダーレン・アロノフスキー→ラッセル・クロウ→アメリカ/2014→新宿ミラノ2→★★☆

her/世界でひとつの彼女

監督:スパイク・ジョーンズ
出演:ホアキン・フェニックス、エイミー・アダムス、ルーニー・マーラ、オリヴィア・ワイルド、ポーシャ・ダブルデイ、スカーレット・ヨハンソン
原題:Her
制作:アメリカ/2013
URL:http://her.asmik-ace.co.jp
場所:109シネマズ川崎

『her/世界でひとつの彼女』に出て来るコンピュータのOS「OS1」は、すべてを会話によってオペレーションしてくれるOSで、最近のiPhoneの「Siri」やNTTドコモの「しゃべってコンシェル」のような疑似的対話ができるアプリケーションが人工知能によって進化して、それがOSに組み込まれて、まるで本当の秘書のような、コンシェルジュのような機能を持つこととなったOSだ。そのOSに恋をしてしまうと云うのがこの映画の基本的なストーリーラインだけど、おもったよりもそこに食い付くことが出来ず(それはオペレーターの声のスカーレット・ヨハンソンにウディ・アレンの『マッチポイント』を見てしまうためか!)、どちらかと云うと、どんどんと知識を蓄えてエスカレートして行く人工知能型OS「OS1」に注意が向いてしまう。

SF映画の中に出て来る人工生命体は暴走するものが多い。それが自由なネット空間に存在するのならばまだわからないでもないけど、ユーザーとOSとの間に介在するためだけの人工知能型エージェントが暴走する設定がイマイチよくわからない。どうしてシステム自体を再起動させる権限まで許して、さらに他のコンピュータと通信することのできる権限まで許してしまっているのか。そんなOSを作るソフトウェア開発会社があるとはおもえない。なんて細かいところに引っかかってしまったら、ものごとをデフォルメして映像化する映画なんて楽しめなくなってしまうので、そこは何とか気にしないようにしたけど、でも、そんな暴走して行くような無形のソフトウェアを愛するようになる男に感情移入をすることはまったく出来なかった。やはり2次元でもいいから、視覚で認識できるものありき、なんだろうか。

→スパイク・ジョーンズ→ホアキン・フェニックス→アメリカ/2013→109シネマズ川崎→★★★☆

渇き。

監督:中島哲也
出演:役所広司、小松菜奈、清水尋也、妻夫木聡、オダギリジョー、高杉真宙、二階堂ふみ、橋本愛、森川葵、黒沢あすか、青木崇高、國村隼、星野仁、康芳夫、中谷美紀
制作:「渇き。」製作委員会(ギャガ、リクリ、GyaO!)/2014
URL:http://kawaki.gaga.ne.jp
場所:T・ジョイ大泉

中島哲也の『嫌われ松子の一生』を観終わった後の後味の悪さは怒りを覚えるくらいだった。コテコテに盛った絵作りも鼻につくし、ミュージック・クリップのような前後の繋ぎを無視したモンタージュも大嫌いだった。ところが何となくもう一度見てみようと云う気が起きて、WOWOWだったかNHKBSだったか、で見たら、これがおもいのほか楽しめてしまった。おそらく中島哲也の過剰な絵作りはテレビの画面にぴったりと合っていたのかもしれない。

となると、『パコと魔法の絵本』(この映画はちょっと中途半端な……、)を挟んでその次の映画となる『告白』を映画館で観たらどんな感想を持つんだろうと楽しみになった。後味の悪さはおそらく『嫌われ松子の一生』と一緒で、やはり中島哲也特有の過剰なスタイルで攻めてくるとおもわれる映画を果たして面白く感じるんだろうかと映画館に足を運んでみたら、これが、めちゃくちゃに良かった。驚いたことに、後味の悪さを楽しむようになっていた。いつのまにか中島哲也のスタイルを受け入れる身体になっていたのだ。

今回の『渇き。』もやっていることは今までの映画とまったく同じだった。過剰に装飾されたイメージカットを細かく繋いで音楽と一緒に見せるだけの映画。ストーリーはあるけど、そんなものよりもイメージ重視の映画。純粋に映画として評価を下すのならば、おそらくダメな映画の部類に属するのだろうけど、でもこれがそんなに悪くない。面白い。映画なんて何でもありだから面白ければすべてが許される。

ただ、惜しかったのは、最後まで小松菜奈が演じている「藤島加奈子」と云う人物に焦点が合わないまま映画が終わってしまったことだった。「加奈子」の心の底に沈殿する感情の冷たさが映像として浮かび上がって来て、観ている我々が身震いするようなショットがワンシーンでもあれば良かったのに。

→中島哲也→役所広司→「渇き。」製作委員会(ギャガ、リクリ、GyaO!)/2014→T・ジョイ大泉→★★★★

フクシマ2011〜被爆に晒された人々の記録

監督:稲塚秀孝
出演:南相馬市、飯舘村の人々
制作:タキシーズ/2012
URL:http://fukushima2011-hibaku.com
場所:明治大学リバティホール

「被爆者の声をうけつぐ映画祭」の運営に関わっている昔の会社の上司から毎回のようにこの映画祭の券をいただくので、今年も明治大学まで足を運んだ。

福島の原発がメルトダウンしてから3年が経って、まだ廃炉の道のりは遠くて、そしてまだまだ多くの危険がはらんでいるのに、表面的にはとても安定しているように見えるので、ついそんな重大な問題が存在していないかのように普通に生活してしまう。でも本当はまだとても危険な状態にあるわけで、それをおもい出すためにもこの記録映画を観たのは良いクスリだった。

このドキュメンタリーを見終わって、作られてから2年が経っているので、映画に出て来た人々のその後が気になってしまう。上映後の稲塚監督のトークによると『フクシマ2014』のような続編を作る意思があるらしいので是非ともそれも見てみたい。福島の原発に関する問題は、放射線の影響も含めて長いスパンを追いかける必要があるとおもうので、そのようなドキュメンタリーをなるべく多く追いかけたい気がする。

ちょうど今月末に南相馬市で行われる「相馬野馬追」に行く予定があるので、映画だけではなく実際にも現在の南相馬市がどのような状況にあるのか確かめたいとおもう。そのためにもこの映画は良い予習となった。そしてさらに出来たら自転車を持って行って、国道6号線を浪江、双葉方面に南下して行けるところまで行きたいとおもう。

→稲塚秀孝→南相馬市、飯舘村の人々→タキシーズ/2012→明治大学リバティホール→★★★☆

グランド・ブダペスト・ホテル

監督:ウェス・アンダーソン
出演:レイフ・ファインズ、F・マーリー・エイブラハム、マチュー・アマルリック、エイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー、レア・セドゥー、ティルダ・スウィントン、トニー・レヴォローリ、ジェフ・ゴールドブラム、ハーヴェイ・カイテル、ジュード・ロウ、ビル・マーレイ、エドワード・ノートン、シアーシャ・ローナン、ジェイソン・シュワルツマン、トム・ウィルキンソン、オーウェン・ウィルソン、ボブ・バラバン
原題:The Grand Budapest Hotel
制作:ドイツ、イギリス/2014
URL:http://www.foxmovies.jp/gbh/
場所:イオンシネマ板橋

多くの人が絶賛しているを映画を観て、イマイチ乗り切れなかった時のその映画の評価を人に語る時が一番難しい。絶賛が多いわけだから悪い映画ではない。評論家もそれに加わっていれば、映画として優れている場合も多い。しかし、どんなに映画として素晴らしくとも、自分の肌に合わないのはいかんともしがたい。

この『グランド・ブダペスト・ホテル』が良く出来ていることは理解できる。オールスタアキャストもわくわくする。楽しい映画であることはよくわかる。でもどうしてもこのようなスタイルの映画を面白く感じることができない身体にいつの間にかなってしまった。

寓意的な解釈を裏に秘めた大人の童話のようなストーリー。
デフォルメされた人物たちはコミカルなオーバーアクション。
原色を多く使ったスタイリッシュな美術。

この手の映画が来ると、なぜか脳が受け付けなくて感情が平坦になってしまう。ただストーリーを追いかけるだけ、になってしまう。

だから、どうだった? と人から聞かれると、真顔で、良かったよ、で終了です。

→ウェス・アンダーソン→レイフ・ファインズ→ドイツ、イギリス/2014→イオンシネマ板橋→★★★