監督:ポール・バーホーベン
出演:ビルジニー・エフィラ、シャーロット・ランプリング、ダフネ・パタキア、ランベール・ウィルソン、オリビエ・ラブルダン、ルイーズ・シュビヨット、エルベ・ピエール、クロチルド・クロ
原題:Benedetta
制作:フランス/2021
URL:https://klockworx-v.com/benedetta/
場所:新宿武蔵野館

ポール・バーホーベン監督の『ロボコップ』(1987)を最初に観たとき、今までのハリウッド映画にはない異様で過激な描写がかえって新鮮に写って、そこがこの映画を実際の出来以上に面白く感じた理由だったんじゃないかとおもう。それがハリウッド5作目の『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)になるとグロテスクな描写をやり過ぎてて、すっかりそのスタイルにも飽きがきてしまった。『インビジブル』(2000)を最後にハリウッドを去ったのは多くの人が同じような感想を持った結果だったのかもしれない。

ヨーロッパに活動の場を戻したポール・バーホーベン監督の映画にはまったく興味が持てなかったのだけれど、なぜか最新作の『ベネデッタ』は観てみようと食指が動いてしまった。

今回の主人公は17世紀に実在した同性愛主義で告発された修道女ベネデッタ・カルリーニ。聖痕が浮かび上がったとして信者の注⽬を集め、⺠衆の⽀持を得て修道院⻑に就任した女性をポール・バーホーベン監督が描いた。

へー、こんな史実があったのか、の興味が作品の出来を上回り、とても面白く観てしまった。映画自体はどこか70年代あたりの映画を彷彿とさせるような作りで、人物の描写方法やカメラワークなども懐かしさを感じて面白かった。そもそも性的に抑圧された修道女たちが敬虔な行動を捨てて性行為にふけるのは70年代に流行ったナンスプロイテーションのようだし、ベネデッタ役のビルジニー・エフィラが豹変して男の声で罵るシーンは『エクソシスト』にも見えるし、シャーロット・ランプリングも歳を重ねてはいるものの昔の美貌を感じさせる点も良かったし。

この映画に食指が動いたのは、ネットなどに流れてきた『ベネデッタ』のポスター等のビジュアルに昔の映画の匂いを感じたからかもしれない。その感覚は当たっていて、そう云った意味で楽しめた映画だった。

→ポール・バーホーベン→ビルジニー・エフィラ→フランス/2021→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:リューベン・オストルンド
出演:ハリス・ディキンソン、チャールビ・ディーン、ドリー・デ・レオン、ズラッコ・ブリッチ、イーリス・ベルベン、サニーイー・ベルズ、ヘンリック・ドーシン、キャロライナ・ギリング、ヴィッキ・ベルリン、ハンナ・オルデンブルグ、オリヴァー・フォード・デイヴィーズ、アマンダ・ウォーカー、アーヴィン・カナニアン、ウディ・ハレルソン
原題:Triangle of Sadness
制作:スウェーデン、イギリス、フランス、ドイツ/2022
URL:https://gaga.ne.jp/triangle/
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

カンヌ映画祭のパルム・ドールを取った映画はなるべく追いかけるようにしてはいるのだけれど、なぜか2017年のリューベン・オストルンド監督『ザ・スクエア 思いやりの聖域』は見逃していた。それに気づいて、先日、Amazon Primeで見てみた。これがなんとも不思議な映画で、現代美術館と云うとてもお洒落で洗練された場所にわざと人間の醜さを対比させて、映画を観ている我々を居心地悪くさせるような映画だった。とくに印象的だったのは、美術館でのトークイベントの際に観客の一人が大きな声で卑猥な言葉を連発するシーンだった。隣にいた妻が、すみません病気なんです、と理由付けはされていたのだけど、このシーンが象徴するように上品と下品とをシニカルに同居させているのがこの映画の特徴だった。

そのリューベン・オストルンド監督が新作の『逆転のトライアングル』で2022年のパルム・ドールをまた取った。今回は見逃さずに、と云ってもユナイテッド・シネマ浦和の最終日になってしまったけれど、観に行った。

『逆転のトライアングル』の原題 “Triangle of Sadness” は直訳すると「悲しみのトライアングル」。この「トライアングル」とは眉間のことで、そこにできるシワが「悲しみのトライアングル」なんだだそうだ。眉間にシワを寄せる(眉をひそめる)機会がどんなときに訪れるかと云えば、上品な場所に下品なものが現れるときによくする表情で、それはつまりリューベン・オストルンド監督が『ザ・スクエア 思いやりの聖域』から通じて示しているテーマなような気もしてしまった。この原題がそういったことを意図していたのかはわからないのだけれど、真っ先にそう判断してしまった。

『逆転のトライアングル』ではさらに、持っているものと待たざるもの、エセ資本主義とエセ社会主義、セレブと使用人などの対立軸となるようなものでも、その両方に存在する人間の醜さを同時に露呈させて、観ている我々の眉間にシワを寄せさせる映画になっていた。

でも、そんな高尚なテーマなんかクソ喰らえ、てな感じで、セレブが乗り合わせる豪華客船が嵐にあって、食事中の全員がゲロまみれになるシーンはまさにそのものズバリのストレートに眉間にシワを寄せるシーンになっているのは勇ましかった。この映画に対して眉間にシワを寄せることがあるとするのなら、それはまさにリューベン・オストルンド監督のやりたいことだった。

→リューベン・オストルンド→ハリス・ディキンソン→スウェーデン、イギリス、フランス、ドイツ/2022→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★☆

監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:ガブリエル・ラベル、ミシェル・ウィリアムズ、ポール・ダノ、セス・ローゲン 、ジャド・ハーシュ、クロエ・イースト、オークス・フェグリー、ジュリア・バターズ、ジーニー・バーリン、ガブリエル・ベイトマン、グレッグ・グランバーグ、デイヴィッド・リンチ
原題:The Fabelmans
制作:アメリカ/2022
URL:https://fabelmans-film.jp
場所:109シネマズ菖蒲

自分の映画遍歴を振り返ると、そのはじまりはジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』であり、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』だった。とりわけスティーヴン・スピルバーグは、その後に続く『1941』『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』『E.T.』と、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような作品ばかりが続いて、いまおもい返しても映画ファンのはじまりとしては運の良い時代だった。

そのスティーヴン・スピルバーグも76歳になって、おそらくは映画人生の締めくくりも感じて、自伝的作品として『フェイブルマンズ』を撮ったのだろうとおもう。

スティーヴン・スピルバーグの実際の子供時代のはなしは、幼い頃から8ミリを撮りはじめたことがその後の彼の人生に大きな影響を及ぼしたことぐらいは何となく理解していた。でも、父親が電気技師をしていたとか、母親がコンサートピアニストだったとか、その両親が離婚したとかのプライベートなことと彼の作品とを結びつけることはまったくなかった。ところが今回の『フェイブルマンズ』を観て、驚いたことにスピルバーグが撮った映画のなかのシーンが同時に脳裏に蘇ってしまった。それは『未知との遭遇』のUFOに取り憑かれてしまうリチャード・ドレイファスだったり、『E.T.』のなぜか父親のいない家庭のシーンだったり、『A.I.』の母親から見放されるA.I.ロボットだったり。この映画は彼の人生と作られた作品とが密接に結びついていることを追体験する映画だった。

この追体験を終えた後に、またスピルバーグの作品を見返したいとおもう。絶対に新たな発見があるに違いない。

→スティーヴン・スピルバーグ→ガブリエル・ラベル→アメリカ/2022→109シネマズ菖蒲→★★★★

監督:ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート
出演:ミシェール・ヨー、キー・ホイ・クァン、ステファニー・スー、ジェニー・スレイト、ハリー・シャム・ジュニア、ジェームズ・ホン、ジェニー・スレイト、ジェイミー・リー・カーティス
原題:Everything Everywhere All at Once
制作:アメリカ/2022
URL:https://gaga.ne.jp/eeaao/
場所:109シネマズ木場

「マーベル・シネマティック・ユニバース」の最新作『アントマン&ワスプ:クアントマニア』は、量子世界に加えてマルチバースの概念が加わって来た。『スパイダーマン:スパイダーバース』『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』に続いてのマルチバース世界の採用で、またかよ、な感じがしないでもなかった。

マルチバース(多元宇宙論)とは、複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学の説。宇宙が一つではないと考える理由は仮説によってさまざまで、それは単に距離による説明のものだったり、「泡宇宙モデル」だったり、「多世界解釈(エベレット解釈)」だったりと、ひとつの概念によるものではないことが調べていてわかってきた。

そんな中で「マーベル・シネマティック・ユニバース」に代表されるようなSF映画のマルチバースとは、本格的な理論をちょこっと拝借して、ストーリーに都合の良い解釈にして、派手に面白おかしく展開するための素材にすぎなかった。

ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート監督の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』もまたマルチバース世界のはなしだった。でも「マーベル・シネマティック・ユニバース」の映画とは一線を画していて、もっと人の情緒に訴えるためにマルチバースの理論を使っていた。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でのマルチバースとは、おそらく「多世界解釈(エベレット解釈)」を採用しているようにみえる。

「多世界解釈(エベレット解釈)」とは、1957年に観測物理学者のヒュー・エレベット氏が提唱したもので、マクロな私たちの現実は異なる宇宙の重ね合わせであるという考え方。この多世界解釈の中では、私たちが一つひとつの選択を行うたびに宇宙は分岐して異なる現実が生まれるが、自分が知覚できる現実は自分の生きている現実だけ。
参考:https://ideasforgood.jp/glossary/multiverse/

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の主人公エヴリン(ミシェール・ヨー)はコインランドリーを経営する女性。IRS(アメリカ合衆国内国歳入庁)へ行って、いくらかでも経費を認めてもらおうと奮戦している。そんななか、優しいけれど頼りがいのない夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)が突然変貌し、エヴリンはマルチバースへの脅威となるジョブ・トゥパキに対抗できる人物だと告げる。

そんな大それた人物であることを信じられないエヴリンは、変貌した夫ウェイモンドに付けられた装置によって、さまざまな人生の可能性を見せられる。彼女の人生のときどきの選択によって大女優になっていたかもしれないし、パフォーマンスをする料理人だったかもしれないし、京劇の役者だったかもしれないし、ソーセージ指の世界の住人であったかもしれない(これだけは人生の選択とは違うような?)。これはまさしく「多世界解釈(エベレット解釈)」に見える。

でも、マルチバース間を移動することはできないと(現在のところは)考えられているので、そのあたりの描写はだいぶコミカルにしている。移動をするためには、誰もが想像だにしない行動をしろ、なんてちょっとドタバタコメディにしている。まあ、あんまり笑えなかったけれど。
参考:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD10CIA0Q2A510C2000000/

ちょっと長すぎる映画ではあったけれど、エヴリンの人生の選択において、IRSへの対応はこれで良いのかと云う些細な選択から始まって、彼女にとってのもっと大きな選択、この夫で良かったのか、娘への対応は間違っていなかったのか、にまで大きく広げて、でもすべての可能性を重ね合わせて存在している今の自分が最高なのだと、最高のヒーローなのだと帰結させる流れは観ていて清々しかった。

いまの過度な、強迫的とも云える多様性の流れを受けて、今回は中国系の年としてアカデミー賞をいろいろと取りそうだけれど、そんな馬鹿げた評価を抜かしても良い映画だった。

→ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート→ミシェール・ヨー→アメリカ/2022→109シネマズ木場→★★★★

監督:ペイトン・リード
出演:ポール・ラッド(木内秀信)、エヴァンジェリン・リリー(内田有紀)、ジョナサン・メジャース(中村和正)、キャスリン・ニュートン(高橋李依)、デヴィッド・ダストマルチャン(山口勝平)、ケイティ・オブライアン(冠野智美)、ウィリアム・ジャクソン・ハーパー(北田理道)、ビル・マーレイ( 江原正士)、ミシェル・ファイファー(高島雅羅)、コリー・ストール(山野井仁)、マイケル・ダグラス(御友公喜)
原題:Ant-Man and the Wasp: Quantumania
制作:アメリカ/2023
URL:https://marvel.disney.co.jp/movie/antman-wasp-qm
場所:109シネマズ菖蒲

「マーベル・シネマティック・ユニバース」の中の「アントマン」の立ち位置って、他のマーベルヒーローに比べるといささか特殊で、ちょっとコミカルな立ち回りを受け持っている存在だったとおもう。それは、強大な存在がちっちゃなものに成り果てたり、ゴミみたいなものが無敵になったりと、逆転することによって生まれる典型的な「笑い」が象徴している。でも、前作の『アントマン&ワスプ』では量子世界がクローズアップされて「笑い」の入る余地が少なくなってしまった。そして今回の『アントマン&ワスプ:クアントマニア』ではマルチバースの世界も加わったのでさらに笑えなくなってしまった。映画のオープニングとクロージングでスコットがカフェに行くコミカルなシーンは、まるで取って付けたようでまるっきり浮いてしまっている。これでは他の「マーベル・シネマティック・ユニバース」の映画と差別化が出来ないんじゃないのかなあ。

ひとつ大きな疑問なんだけど、量子世界に生物がいるものなんだろうか? 素粒子とか原子とか分子だけの世界だとおもっていた。

→ペイトン・リード→オリヴィア・コールマン→イギリス、アメリカ/2022→109シネマズ菖蒲→★★☆

監督:サム・メンデス
出演:オリヴィア・コールマン、マイケル・ウォード、コリン・ファース、トビー・ジョーンズ、ターニャ・ムーディ、トム・ブルック、クリスタル・クラーク
原題:Empire of Light
制作:イギリス、アメリカ/2022
URL:https://www.searchlightpictures.jp/movies/empireoflight
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

最近では007の映画や第1次世界大戦を舞台にした『1917』など大資本の映画ばかりを撮っていたサム・メンデス監督が『アメリカン・ビューティー』や『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』のようなこじんまりとした人間ドラマに戻ってきた。サム・メンデスにはこのような地味な映画にこそ上手さを発揮する余地があるとはおもうのだけれど、シネコンの映画としてはあまりにも話題性が欠けていた。ユナイテッド・シネマ浦和での平日18時20分の回では、自分を含めて2人しか観客がいなかった。

今回の『エンパイア・オブ・ライト』は、サッチャリズムによって第二次世界大戦以降最悪の失業率を記録していた1980年代初頭、イギリス南東部の海辺の町マーゲイトにある映画館「エンパイア劇場」でのおはなし。

「エンパイア劇場」の統括支配人をしているヒラリー(オリヴィア・コールマン)が開場を準備しているシーンから映画ははじまる。カメラが彼女を追っていくにつれて、この人物に対する違和感が少しづつ増して行って、しだいに彼女が統合失調症を病んでいたことがわかってくる。そしてそこに、新しい映画館のスタッフとして若い黒人のスティーヴン(マイケル・ウォード)がやってくる。この映画は基本的にこの歳の差のある二人の男女が次第に惹かれ合う過程を描いていた。

統合失調症を病むということがどんなものか想像すら出来ないのだけれど、はにかむような不思議な笑顔をするオリヴィア・コールマンを見ただけで、その病気の苦しさが充分に伝わってくる演技は凄かった。そして「エンパイア劇場」で行われた『炎のランナー』のプレミア上映で、いきなりオーナーのコリン・ファースの次に壇上に立ってスピーチをしてしまうオリヴィア・コールマンの何をしでかすかわからない恐ろしさ! 静かな演技ながらも観るものに恐怖を覚えさせる素晴らしさだった。

1980年代初頭のイギリスと云う時代背景も面白かった。女性が首相なのにまだまだ女性たちの地位が向上していない時代で、失業した若い白人たちの怒りの矛先が移民たちへと向けられた殺伐とした時代でもあった。そんななかで病気を抱えながら生き抜いている中年女性と、レイシズムに耐えながら働く若い黒人と云う組み合わせの、すべてにおいて世間からは容認されざる関係の行く末を絶望的に案じながらも、昔ながらの古い映画館と云う長年人々に現実逃避を提供してきた舞台を用意したことで、どこかファンタジーめいた色合いがあるのも面白かった。

この『エンパイア・オブ・ライト』は映画館が舞台なので、もちろん映画に関する固有名詞はたくさん出てくるし、映画ポスターやスチル写真も数多く出てくる。でも、映画のシーンそのものが登場するのはアーサー・ヒラー『大陸横断超特急』(1976)とハル・アシュビー『チャンス』(1979)だけだった。どちらも大好きな映画なので、その2つをピックアップして使うサム・メンデスと自分との相性の良さも再確認してしまった。

そして、詩と云うものにまったく疎いのだけれども、大学へ行くために去っていくスティーヴン(マイケル・ウォード)に対してヒラリー(オリヴィア・コールマン)が捧げるフィリップ・ラーキンの詩「The Trees」が素晴らしかった。これは彼女自身へのエールでもあった。

https://poetryarchive.org/poem/trees/

最後の、

Begin afresh, afresh, afresh.

が突き刺さる。

→サム・メンデス→オリヴィア・コールマン→イギリス、アメリカ/2022→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★★

督:デイミアン・チャゼル
出演:マーゴット・ロビー、ブラッド・ピット、ディエゴ・カルバ、ジーン・スマート、ジョヴァン・アデポ、リー・ジュン・リー、ルーカス・ハース、マックス・ミンゲラ、エリック・ロバーツ、ローリー・スコーヴェル、キャサリン・ウォーターストン、トビー・マグワイア
原題:Babylon
制作:アメリカ/2022
URL:https://babylon-movie.jp
場所:109シネマズ菖蒲

1989年に日本でも翻訳されたケネス・アンガーの「ハリウッド・バビロン I」(明石三世訳、リブロポート、2011年にPARCO出版で再販)は、映画制作黎明期の1920年代から1960年代にかけての監督や俳優によるスキャンダラスな殺人、自殺、性犯罪、ドラッグによる事件を扱っていて、チャーリー・チャップリンやエロール・フリン、マリリン・モンローにいたるまで何となく風聞として知っていた下世話な逸話が事細かく(ちょっと誇張気味?に)記載されていてめちゃくちゃおもしろかった。普段は文春オンラインなんかのゴシップ記事を毛嫌いしていながらも、そういったたぐいのモノは読むと面白い。自分の中の人間の性がさせる矛盾がなんとも悩ましい。

このケネス・アンガー「ハリウッド・バビロン」にインスパイアされたとおもわれるデイミアン・チャゼル監督の映画『バビロン』は、1920年代当時のバブルな映画製作者たちの乱痴気騒ぎのパーティーへ本物のゾウを運ぶシーンからはじまる。ゾウと云えば「ハリウッド・バビロン I」の巻頭も飾るD・W・グリフィス『イントレランス』(1916)のソウの石像のシーン(ベルシャザールの祝宴)を連想させて、オープニングから一気に盛り上がってしまった。

そのゾウが運び込まれた大豪邸での肉欲の饗宴のさなか、デブの男が一人の女を殺してしまう。これはまさしく「ハリウッド・バビロン I」にも出てくるロスコー・アーバックルが女優のヴァージニア・ラッペを性的暴行によって殺害してしまった事件がモデルななっていることは間違いない。

ヴァージニア・ラッペが亡くなったことで、穴が空いてしまった女優の代役として起用されるのが、ニュージャージーから出てきて女優になろうと野心満々のネリー・ラロイ(マーゴット・ロビー)だった。このネリー・ラロイのモデルはクララ・ボウであることに間違いないとおもう。でも企画当初は、デイミアン・チャゼルと『ラ・ラ・ランド』でコンビを組んだエマ・ストーンがネリー・ラロイを演じる予定で、もっとよりクララ・ボウに近い人物像になる予定だったらしい。それがマーゴット・ロビーが演じることになって、当時のスキャンダラスな女優の要素がいろいろと盛り込まれる人物像になって行った。例えばこの映画の中でネリー・ラロイが乳首を目立たせるために氷でアイシングするシーンがでてくるけれど、それはジーン・ハーロウの十八番だった。

他にブラッド・ピットが演じているジャック・コンラッドのモデルはジョン・ギルバート。ネリー・ラロイとコンビを組む女性映画監督のモデルは、クララ・ボウの初のトーキー映画『底抜け騒ぎ (The Wild Party)』(1929)を撮ったドロシー・アーズナー。映画ゴシップ・コラムニストのエリノア・セント・ジョンのモデルはルエラ・パーソンズと、ケネス・アンガーの「ハリウッド・バビロン」に取り上げられている人物をモデルとした登場人物たちが次から次へと登場してきた。

『バビロン』は同時にサイレント映画からトーキー映画への転換期の時代も描いているので、となると真っ先におもい浮かぶのがジーン・ケリー&スタンリー・ドーネンの『雨に唄えば』(1952)だった。アーサー・フリード作詞、ナシオ・ハーブ・ブラウン作曲の“Singing in the Rain”が最初に使われた映画『ハリウッド・レヴィユー』(1929)らしきのミュージカルシーンも登場する。この映画にはジョン・ギルバートをはじめとしたMGMスターが多数出演していた。

トーキー映画が一般的になるにつれて、イメージとは違う甲高い声や訛りを発することによってイメージダウンしてしまう俳優が出てきてしまったことは『雨に唄えば』に描かれているとおりで、ジョン・ギルバートもクララ・ボウもそれで失墜して行った。ジョン・ギルバートの場合は、彼との契約を切ろうとしたルイス・B・メイヤーがわざとサウンド技師に命令して甲高い声にさせたとの逸話も「ハリウッド・バビロン I」には書かれてある。たしかにジョン・ギルバートがモデルのジャック・コンラッドを演じているブラッド・ピットは低音の良い声だ。ところが観客がその声を聞いて大笑いするシーンが出てくる。彼らがなんで笑っているのかは、そんな逸話を知らなければまったくわからない。

と、マーゴット・ロビーやブラッド・ピットのことばかり触れてきたけれど、この映画の主人公は冒頭にゾウを運んできたメキシコ系アメリカ人のマニー・トレスだった。映画のアシスタントから始まって会社の重役にまで上り詰める人物をアメリカではまだ無名のディエゴ・カルバが演じている。彼の目を通して描かれているこの映画は、メキシコ系だろうが黒人だろうが中国系だろうが、実力があれば肌の色に関係なく稼げた当時の映画界へのリスペクトも含まれていた。

で、このゴシップとリスペクトが混在するてんこ盛りの映画のための映画をどんな結末にするんだろうかと期待していたら、ネリー・ラロイのギャングからの借金問題に巻き込まれてメキシコに逃げざるを得なくなったマニー・トレスが、1950年代のハリウッドへ家族とともに観光で戻ってきて、映画館でジーン・ケリー&スタンリー・ドーネン『雨に唄えば』を観て涙するシーンをラストに持ってきた。そして、彼の脳裏にフラッシュバックする様々な映画(『2001年宇宙の旅』もあったので時空を超えてる)のシーンはまるでジュゼッペ・トルナトーレ『ニュー・シネマ・パラダイス』のようで、ちょっとベタでありきたりなお涙頂戴の結末のような気がしないでもなかった。

デイミアン・チャゼルの映画は人間を過剰に描くきらいがあって、今回の『バビロン』はまさに彼のやりたい放題の、これがやりたかったんだ! の真骨頂の映画だった。この脂ぎったしつこさをどのように感じるのか、それは人さまざまで、まったく胃が受け付けないと云う人も大勢いいるとおもう。でも自分にとってデイミアン・チャゼルはとてもしっくりと来てしまう。『バビロン』も面白くてあっと云う間の3時間だった。

→デイミアン・チャゼル→マーゴット・ロビー→アメリカ/2022→109シネマズ菖蒲→★★★★

監督:マーティン・マクドナー
出演:コリン・ファレル、ブレンダン・グリーソン、ケリー・コンドン、バリー・コーガン、シーラ・フリットン
原題:The Banshees of Inisherin
制作:アイルランド、イギリス、アメリカ/2022
URL:https://www.searchlightpictures.jp/movies/bansheesofinisherin
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

子どものころから不思議におもうのは「友達」ってものの関係性だったりする。おそらくは赤毛のアンが云うような「ウマが合う」が基本だとはおもうのだけれど、双方向に「ウマが合う」と感じることはまれで、なんとなくその場を取り繕って「友達」に収まっていたりする場合も多い。それは大人になったとしても同様で、つまんねえ奴だなあ、っておもいながら飲み友達だったりする。

アイルランドのイニシェリン島(架空の島?)に住むパードリック(コリン・ファレル)にはコルム(ブレンダン・グリーソン)と云うパブ仲間がいる。毎日、午後2時には二人連れ添ってパブへ行く。ところがある日、いきなりコルムに無視されて、一人でパブへ行くはめになってしまう。納得がいかないパードリックはコルムに問いただす。彼が云うには、これからあとの老い行く人生にお前のくだらない話を聞いて無為に過ごしたくない。好きなバイオリンで作曲などをして有意義に暮らしたい、と絶縁宣言を云い渡される。

この導入からはじまった『イニシェリン島の精霊』は、あれよあれよと、まるでゴーギャンとの関係に絶望したゴッホが耳を切り落としたような凄惨な展開へと進んで行って、さらには全面戦争の様相を呈して取り返すことの出来ない事態へと陥っていく。「友達」なんてものが儚い関係性の上に成り立っていることを見せつけられて、やりきれない気持ちになると同時に、取るに足らないことで極端な行為をしてしまう馬鹿な人間に半笑いさえ起きてしまう。

この映画の舞台は1923年。アイルランドが独立する際にかわされたイギリスとの条約の是非をめぐっての内戦はゲリラ戦へと泥沼化し、イニシェリン島から見えるアイルランド本土でも時々砲撃が聞こえて土煙があがる。それを見てパードリックは、彼らが何を争っているのか知らない、と云う。それは彼の時事への興味の無さから来るのか、皮肉を云っているのかはよくわからない。皮肉であるならばアイルランド内戦のミニマムな状態がパードリックとコルムの諍いにも見えるので自虐的だった。

この映画を引き締めているのが脇役の存在だった。とくにパードリックの世話をしている妹のシボーンを演じているケリー・コンドンが素晴らしかった。妹は兄と違って読書が大好きで頭の回転も早い。イニシェリン島のような寒村の人間関係に嫌気が差しているものの、朴訥な兄のことを見捨てられずに「行き遅れ」などと陰口を叩かれながら島での暮らしに甘んじている。その彼女が島を出ることを決意して、就寝中に枕を濡らすシーンが見ていて辛い。この映画で唯一と云っても良いほどの優しさにあふれるシーンだった。

そしてもうひとりの重要な脇役、シェークスピアの「マクベス」に出てくる魔女のような老婆を演じているシーラ・フリットン。彼女がが言い放つ「これから二人の死者が出る」の予言はてっきりパードリックとコルムのことだとおもっていた。でも一人は、たえずパードリックにちょっかいを出してくる島の青年ドミニク(バリー・コーガン)だった。じゃあ、もう一人は誰なんだ? で映画は終わる。

提示されるテーマの興味深さやそれを演じきる芸達者な俳優たち。加えて、寒村でありながら風光明媚なイニシェリン島。何もかもが映画を見ているものの心に刺さる良い映画だった。

→マーティン・マクドナー→コリン・ファレル→アイルランド、イギリス、アメリカ/2022→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★★

監督:S・S・ラージャマウリ
出演:N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア、ラーム・チャラン、アジャイ・デーヴガン、アーリヤー・バット、シュリヤ・サラン、サムドラカニ、レイ・スティーヴンソン、アリソン・ドゥーディ、オリヴィア・モリス
原題:RRR
制作:インド/2022
URL:https://rrr-movie.jp
場所:109シネマス木場

1998年に日本で公開された『ムトゥ 踊るマハラジャ』が話題になってからと云うものの、続々とインドの娯楽映画がシネコンでも公開されるようになった。そんなに映画館で観ているわけではなくて、Netflixなどの追いかけ鑑賞の範囲内での感想なのだけれども、インド映画を観ていつも感じることは、彼らの面白い映画を作ろうとするひたむきな努力が画面から伝わってくること。ケレン味のまったく無いところところに感心してしまう。それは韓国映画にも感じることで、残念ながらいまの日本映画にはそれを感じることがとても少ない。

S・S・ラージャマウリ監督の『RRR』は、ふたりの男が関わり合う数奇な運命を、これでもか!の映像テクニックでこってりと味付けている楽しい映画になっていた。強引なストーリー展開があっても、そのパワフルな映像に乗って観てしまえばさほど気にならない。『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』と同じようにアトラクションを楽しむ感覚の映画だった。

ただ、製作者が映画の途中にインターミッションを入れているのなら、日本でもそれを再現すべきじゃないのかなあ。『アラビアのロレンス』でも『80日間世界一周』でもインターミッションがあっての作品だったような気もする。

→S・S・ラージャマウリ→N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア→インド/2022→109シネマス木場→★★★☆

監督:香港ドキュメンタリー映画工作者
出演:
原題:理大圍城/Inside the Red Brick Wall
制作:香港/2020
URL:https://www.ridai-shonen.com
場所:ポレポレ東中野

2019年の香港民主化デモの中で香港理工大学包囲事件は起きた。中高生を含むデモの参加者と大学生が警察によって包囲された香港理工大学の構内に取り残されてしまった。その構内での学生らの統率を欠いた右往左往ぶりを追ったドキュメンタリーが『理大囲城』だった。

この香港理工大学構内の映像を誰が撮ったのかと云うと複数の「匿名人士」だった。「匿名人士」とは報道機関に属さないセルフメディアなどと呼ばれた人たちらしい。この映画の中には「PRESS」の腕章をつけた人たちが大学構内を駆け巡って写真や動画を撮っているシーンも出てくる。セルフメディアの人たちはこの「PRESS」と同じ扱いをうけて動画を撮影していたんじゃないかとおもう。

警察側は力ずくで大学構内へ突入するような手荒な真似をするわけでもなく、完全に兵糧攻めを狙って来ている戦法だった。包囲網を無理やり突破しようとしてくる学生たちを待ち構えて逮捕するだけで、警察側が大きく行動に移すことはまったくなかった。時間が経過するだけの学生側は、顔にぼかしが入っているものの次第に追い詰められて焦燥感を増している状況が痛々しいほど映像から伝わってくる。

でも、ここで不思議な感覚に襲われた。その学生たちの苦境を収めた映像がこうして映画としてまとめられている以上、「PRESS」の人たちは映像を没収されることなく開放されたんだろうとおもう。かたや学生たちはほとんどが逮捕されてしまった。自由な映像と縛られた学生たち。そのアンバランスが不思議だった。

最後は、デモに参加している中高生の通う学校の校長(とおもわれる人)たちが突然大学構内に現れて、生徒たちは警察への学生証の登録だけで家へ帰れると説得にかかる。この策略がデモ参加者全員を動揺させ、結果この香港理工大学包囲事件は、1377人が逮捕される事態となって終わった。

この映画が中国政府の理不尽さを訴えるドキュメンタリーになっていたのかどうか。リーダーのいないデモ隊内部の罵り合いばかりが目について、中国政府のしたたかさが強調されたドキュメンタリーだけだったような気もする。記録としては貴重だけれども、どこか腑に落ちないもどかしさがあとに残ってしまった。

→香港ドキュメンタリー映画工作者→→香港/2020→ポレポレ東中野→★★★☆