私はクルマの免許を持っていない。持っていないと言うことは、つまり、クルマの運転にはまったく興味がない。でも、クルマのデザインには少しばかり興味があって、映画の中に出て来る古いクルマのデザインには興味津々だ。

最近のクルマのデザインは、どれもこれもみんな似たようなデザインばかりでまったく面白くない。それは、走りやすさや燃費の良さなどを研究し続け、それを突き詰めた空気力学的なデザインの結果なので、どのメーカーも同じデザインに集約されて行ってしまうことは仕方がないことだとはわかっている。わかっているけれども、でもやっぱり面白くないのは気に入らない。その点、昔のクルマは自由に見えてしまう。もちろん、その当時としても、走りやすさや燃費の良さを追求していたんだろうけど、まだまだ未熟だった点がデザインに自由さを与えていた。

クルマに興味のなかった自分にクルマの美しさを教えてくれたのは、宮崎駿監督のアニメーション『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)だった。ルパン三世と次元大介の乗るフィアット500。そこに現れるクラリスの乗るシトロエン2CV。それを追いかける悪党一味のハンバー・スーパー・スナイプ。

この中でもクラリスの乗るシトロエン2CVに目を瞠った。

なんて美しいんだろう!

特に、お尻の、グッと急激に落ち込むカーブが美しい。
横から見ると、リアホイールのカバーも同じように半円を描いてリアバンパーへと向かっている。その二つのカーブがコラボレートした優雅さが何とも言えない。

シトロエン2CV

シトロエン2CVは、フランスの“農民車”として構想され、その基本コンセプトは、

「雨傘(こうもり傘)の下に4つの車輪をつけたもの」

であり、

「木靴をはいた農夫が2人と50kgのじゃがいも、もしくはワイン樽を積んで、60km/hで走れること。3リッター/100km(33.3km/リッター)の燃費。どんな悪い道も走破できること。悪路を走っても、後部に積んだ、かごいっぱいの卵が一個も割れないこと」
(「シトロエンの世紀 革新性の追求」武田隆著、三樹書房より)

だったそうだ。

つまり、『ルパン三世 カリオストロの城』では、追うカリオストロ伯爵側がイギリスの高級車ハンバー・スーパー・スナイプだったのに対して、追われるクラリスはジャンヌ・ダルクのごときフランスの“農民車”シトロエン2CVで、さらにそれを追うルパン三世たちは伊達男!イタリアの“国民車”フィアット500と言う構図だった。このあたりの、ぴったりとはまった構図の気持ち良さも、クラリスが運転するシトロエン2CVの美しさを際立たせていた。

後に、シトロエン2CVは宮崎駿の愛車であることがわかり、いまだに乗っていることが2013年8月26日にNHKで放送された「プロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿スペシャル」でわかった。

もし、運転免許を取ることになったら、絶対に宮崎駿のようにシトロエン2CVに乗ろう。クーラーがなくたって、故障が多くたって、素人には手に負えないクルマだってかまわない。絶対にシトロエン2CVだ。

と思いながら、いまだにクルマの免許を取っていない。

水牛に書いた文章を転載。

海外に比べれば犯罪発生率の低い日本ではあるけれど、昔に比べれば犯罪に巻き込まれる確率が格段に上がっているような気がする。今までのような平和ボケで街を歩いていると財布くらいは簡単に盗られてしまう世知辛い世の中になってしまった。もし、悪漢に襲われた場合に撃退するにはどうしたらいいのだろうか。やはり武器を持たねばなるまい。と言っても、銃砲刀剣類は法律に引っ掛かるので、何か武器に取って代わるような一般的なモノで代用しなければならない。

何が良いんだろうか?

そうだ! コリン・ヒギンズ監督の映画『ファール・プレイ』(1978年)の中でゴールディ・ホーンは、雨傘を使って悪漢を叩きのめしていた。見た目からして鋭利さを強調させている雨傘は、雨の多い日本ではやはり武器となりうる手近なアイテムだろう。

『ファール・プレイ』の舞台はサンフランシスコで、とりたてて雨が多いと言うわけではないそうだ。でも、この映画では必ずゴールディ・ホーンが黄色い雨傘を携帯していた。最初にその雨傘で悪漢を撃退したことから、悪の一味に捉えられた刑事からおびき出しの電話を受けた時に、その刑事は「雨傘を忘れずに」とさらりと言う。その言葉が何を意味するかバレないうえに、雨傘が武器となってゴールディ・ホーンの身を助ける手だてになると思ったからだった。

『ファール・プレイ』は『知りすぎていた男』をベースにしたヒッチコックのパロディ映画で、『逃走迷路』『ダイヤルMを廻せ!』『北北西に進路を取れ』などから拝借したシーンやマクガフィンをちょっとひねって面白可笑しくストーリーの中に取り込んでいるテクニックが素晴らしく、何度も何度も名画座に足を運んだものだった。そして、あまりにもこの『ファール・プレイ』が好きすぎてサンフランシスコのロケ現場まで行ってしまった。

この日はゴールデン・ゲート・ブリッジまで見渡せるほどよく晴れていたけれど、翌日はしとしとそぼ降る雨で、その中をあちこちと出歩いたものだから高熱を出してしまった。ああ、今思えば傘を持ち歩けば良かったのだ。それも黄色い傘を。

水牛に書いた文章を転載。

映画の中で小道具が効果的に使われていると、もうそれだけでその映画が好きになってしまう。そして、その小道具が欲しくなってしまう。でも、それは見果てぬ「夢のかたまり」だった。

ジョン・ヒューストン監督の『マルタの鷹』(1941年)に、中世のマルタ騎士団に由来を持つ黒いエナメルの鷹の像が出てくる。250万ドル以上もするそのお宝の像をめぐっていくつもの殺人事件が起き、ラストにはそれがまったくの偽物だと判明する。

そして、刑事役のワード・ボンドが問う。

“It’s heavy. What is it?
「重いな。これは何だ?」

私立探偵サム・スペードのハンフリ・ボガートは答える。

“The stuff that dreams are made of.”
「夢のかたまりさ」
(訳は和田誠「お楽しみはこれからだ PART2」より)

この黒いエナメルの鷹の像は、まさに「夢のかたまり」を象徴するようなデザインだった。手に入れようとする人間を寄せ付けない孤高な唯一無二の存在感があった。

『マルタの鷹』はジョン・ヒューストンの初監督作品ではあるが、とても初めての映画には見えない完成度があった。新人でありながらこの完璧な創作の秘密はどこにあるんだろうとジョン・ヒューストンの自伝「王になろうとした男」(宮本高晴訳・清流出版)を読んでみると、なるほど、映画監督としての「The Right Stuff(正しい資質)」とはいったい何なのかが良くわかってくる。5度の結婚、エロール・フリンとの殴り合い、ヘミングウェイやサルトルとの交流、狐狩りや象狩り、美術品で彩られたジョージ王朝風邸宅。どれもまさに映画の要素となりえるエピソードばかりだ。

川本三郎がジョン・ヒューストンを評して、

ヒューストンは人生のエピキュリアンだった。美しいもの、エキサイティングなもの、ロマンチックなものを愛した。ボクシング、狩猟、絵画、ギャンブル、女性、動物、そして映画。
(「ダスティン・ホフマンはタンタンを読んでいた」キネマ旬報社より)

と言っているように、人が何に快楽を見出すのかを自分の人生で持って検証しているような生涯だった。その経験をハードボイルド映画と結びつけることによって、初監督作品からすべてのシーン、すべてのショットをダイナミックに息づかせる演出が可能になったのかもしれない。小道具の黒いエナメルの鷹の像でさえもジョン・ヒューストンの人生が凝縮しているように見えてしまう。

そして、もちろん、その黒いエナメルの鷹の像が欲しくなった。でも、ハリウッドの土産物としてもあまり見たことがない。ネットを検索しても、イミテーションでさえなかなか引っ掛からない。と、長年思っていたところ、一昨年、実際に映画で使われた「マルタの鷹」がオークションに出品された。

http://articles.latimes.com/2013/nov/25/entertainment/la-et-mn-maltese-falcon-sells-for-4-million-at-auction-20131125

値段は、$4,085,000(約4億円)だ!
映画の小道具でありながら、設定上の「マルタの鷹」の像の値段よりも高くなってしまった。
とても欲しいけど、この価格ではとても手に入れることはできない。
本当に「夢のかたまり」だった。

しかたがない。今年のアカデミー賞で、長編アニメ賞にノミネートされなかった『LEGO(R)ムービー』のフィル・ロード監督がレゴでオスカー像を作ってしまったことが話題になったけど、それに習ってレゴで「マルタの鷹」の像を作ろう。

水牛に書いた文章を転載。

映画の中で小道具が効果的に使われていると、もうそれだけでその映画が好きになってしまう。そして、その小道具が欲しくなってしまう。手に入れることができさえすれば。

ビリー・ワイルダー監督の『アパートの鍵貸します』(1960年)は、気分によってはオールタイムのベストワンに挙げてしまうほど大好きな映画だ。ストーリーが面白いのはもちろんのこと、それを補う小道具がどれも素敵だったからだ。邦題に使われている「鍵」からして重要な小道具であるし、他にも「コンパクトの鏡」「帽子」「シャンパン」など、どれを取っても気の利いた使い方がされている。ストーリーを左右するほどの小道具ではないけれども「テニスラケット」「ジン・ラミー」なども印象的だ。そんな中でも、この映画を最初に見た時から釘付けになってしまったのが、ローロデックスの回転式名刺ホルダーだった。

(YouTubeにスペイン語吹き替え版が消されずに残っていたので貼り付けてみる。ジャック・レモンがスペイン語を喋っているのでおかしなことになってるけど。)

保険会社の社員であるジャック・レモンは、上司が愛人と逢引きする場所として自分のアパートの部屋を提供している。しかし、風邪を引いてしまったために、今日予定している上司に断りの電話を入れる。その時に電話番号を調べるために使っていたのがローロデックスの名刺ホルダーだった。

奥行きのある巨大オフィスの中の仕事机を真正面から捉え、中央にはジャック・レモン、左側には今では考えられないほど大きな計算機、右端にはローロデックス。片手で受話器を持ち、もう一方の手でローロデックスを回して素早く電話番号を調べる姿は、フレームの中に収まった構図としても美しいし、と同時にジャック・レモンの手際の良さを象徴するシーンでもあって、その中でローロデックスが小道具として異彩を放っていた。

ローロデックスの名刺ホルダーが発売されたのは1958年()だそうだ。となると、販売してからすぐに映画で使われたことになる。映画のシーンを効果的に見せるためには小道具ひとつとっても重要で、いかにして的確なものが配置できるかは、絶えずいろいろな方向にアンテナを巡らせている必要がある。ネットも無い時代に、ビリー・ワイルダーの映画はそのセンスが抜群だった。

『アパートの鍵貸します』をはじめて見てから長い年月が流れ、すっかりネットショッピング時代に入ったちょうど2000年のころに、なぜかふと思い立って「ローロデックス」で検索してみると、扱っているネットストアが次々と出て来た。うわぁっ! と、すぐさま購入してしまった。今ではパソコンやスマートホンがあるので使う機会は失われてしまったけれど、クルクル回すのがとても小気味良いので、たまに意味もなくクルクルと回している。もうすっかり名刺を入れ替えてないので、クルッと回して出て来た名刺がもうどこの誰かもわからない場合もあるのだけれど。

ローロデックス

水牛に書いた文章を転載。

好きな小説が映画化され、喜んで劇場に足を運んでみると、ほとんどの場合においてガッカリする。小説にあったいろいろな要素がゴッソリそげ落ち、魅力ある登場人物が減り、原作と比べるとその映画化作品は何かスカスカした印象を必ずしも持ってしまう。いや、もちろんわかっている。たとえば文庫本300ページもの小説を忠実に映画化したら、まず尺がえらいことになってしまう。それに映画には映画の文法がある。小説ではサラリと描写されていた部分を膨らませて、観客に視覚的なエモーションを与えなければならない場合もあるわけだから、さらに上映時間が必要になってしまう。長編小説を上映2時間にまとめるには、ある程度小説をダイジェスト化せざるを得ない。そんなことはわかっているんだけど、でもそこに歴然と原作が存在してしまうわけだからどうしても比較をしてしまう。

長編小説を映画化するにはだいぶ無理がある。もし長編小説を映画化するのなら、一度すべてを解体して、一から組み立て直さなければならないだろう。でもそんなのは、小説の映画化作品じゃない。監督(脚本家)のオリジナルに近い。そんなことから、映画化をするなら短編小説だ、とよく言われる。映画監督のヒッチコックは以下のように言っている。

映画は長編小説や舞台劇とは似て非なるものだ。あえて比較するとしたら、映画にいちばん近いものは短編小説(ショート・ストーリー)だ。というのも、短編小説には原則としてただひとつのアイデアがあるだけでいい。そして、そのアイデアをドラマの頂点でいっきょに表現するというのが原理だからね。(『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』山田宏一・蓮實重彦訳、晶文社刊)

数ある映画の中から小説の映画化に成功した作品を考えるとなると、やっぱり短編小説の映画化だ。そして、まずまっさきに思い浮かべてしまうのが豊田四郎監督の『夫婦善哉』(1955年・東宝)。原作は織田作之助の短編小説。脚色は八住利雄。

大阪を舞台にしたこの小説『夫婦善哉』は、“ぼんぼん”の柳吉と“芸者”の蝶子の関係を淡々と描写している。ヒッチコックが「短編小説には原則としてただひとつのアイデアがあるだけでいい」というように、この短編小説は二人の関係を描くことだけにポイントを絞っている。ときおり、大阪の“うまいもん”を織り交ぜながら。

映画『夫婦善哉』では、この“ひとつのアイデア”がうまく視覚化されている。なんといっても森繁久弥と淡島千景というキャラクターを得たことがもちろん最大の要因だが、この二人が絡むセリフのやり取りも小説の雰囲気をうまく汲み取って映像化している。小説の中からビジュアルに適している部分をピックアップして拡大する。それが小説の映画化にはとても重要だ。

小説『夫婦善哉』の中に以下のくだりがある。

柳吉は二十歳の蝶子のことを「おばはん」と呼ぶようになった。

脚本家の八住利雄は小説のこの一行に、映画化へ向けてのビジュアル的な拡大要素を見出したのではないか。自分より十一歳も年下の二十歳の芸者を「おばはん」と呼んでいるのだ。このセリフだけで柳吉と蝶子の力関係が明確になっているのと同時に、この「おばはん」と呼ぶシーンを森繁久弥に演じさせたら良い絵になる。ここを強調すれば、映画の中心的イメージになる。そう脚本家の八住利雄は思ったのかも知れない。

そんな「おばはん」が出てくる小説の中のセリフは、

「おばはん小遣い足らんぜ」
「おばはん、何すんねん、無茶しな」
「く、く、く、るしい、苦しい、おばはん、何すんねん」
「おばはん、せせ殺生やぜ」
「ああ、お、お、お、おばはんか、親爺は今死んだぜ」

のたったの5箇所。しかし映画では、事あるごとに柳吉は蝶子のことを「おばはん」と呼ぶように脚色されている。森繁久弥と淡島千景が絡むシーンは、この「おばはん」をキーに、丁々発止、とても活動的なシーンの連続で、見るものをストーリーに引き込ませる。

「そんなに怒らんときイな、おばはん!」
「おばはん、あけてエな」 「何すんのや、おばはん! わい腹が減っているのや」
「おいおばはんわいが大事か親が大事か?」

そして、なんといっても映画のラスト近くに出てくる名セリフ。

「たよりにしてまっせ、おばはん」

小説のラストは、座蒲団という小道具を使って、柳吉が蝶子の尻に敷かれて行くだろうことを暗示して終わるのだが、映画ではこの「たよりにしてまっせ、おばはん」のセリフと、さらにラストに進んで、蝶子の「あんた、どうするねん、これから?」という問いに、柳吉の「任せるがな! たよりにしてまっせ」というセリフで、同じような行く末を暗示させて終わらせている。結局、柳吉が年下の蝶子のことを「おばはん」と呼ぶのは相手を頼りきっているからで、この「おばはん」というセリフこそが、小説においても映画においても全体のトーンを表していたのだ。

小説と映画は、似て非なるものである。しかし、その非なることを理解した上で、両方を比べて読んだり観たりすることは楽しいものだ。小説に比べて映画はつまんない、なんて言うのはやめて、映画ではどんな部分が強調されているのか、俳優がどんな風にキャラクターを作っているのか、そんな細かい部分に注目してみると、また違った楽しみ方ができるものである。

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織田作之助『夫婦善哉』の図書カード