ベロニカ・フォスのあこがれ

監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
出演:ローゼル・ツュヒ、ヒルマール・ターテ、コーネリア・フロベス、アーミン・ミューラー=スタール、アンネマリー・デューリンガー、ドーリス・シャーデ、エリック・シューマン、ペーター・ベルリング、ギュンター・カウフマン
原題:Die Sehnsucht der Veronika Voss
制作:西ドイツ/1982
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の映画は、『マリア・ブラウンの結婚』と『リリー・マルレーン』しか見ていないので、アテネ・フランセ文化センターの「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2015」に行くことにした。せっかくだから『ニクラスハウゼンへの旅』や『インゴルシュタットの工兵隊』あたりのレアなテレビ向けの映画にしようかと考えたのだけれど、やはりここは順序として『ベロニカ・フォスのあこがれ』だろうと云うことになった。

ビリー・ワイルダーが『サンセット大通り』でハリウッドの伝説を語ったように、この映画はファスビンダーがドイツ映画界の伝説を語る映画なのかと期待したら、まったくそんな映画ではなかった。そのようなセンチメンタルな映画ではまったくなくて、ただ、ただ、元スタアだった女優が壊れて死んで行く映画だった。それを軽快な音楽とともにテンポ良く、良いどころか、前のシーンから次のシーンへと繋ぐ展開がやたらと速くて、見ているこちら側には何の余裕も、余韻も与えてはくれない。それはまるで主人公への感情移入を拒絶しているようだった。そしてラスト、新聞記者が読んでいる新聞の裏面にベロニカ・フォスの自殺の記事が見えるだけで、THE END。死ぬシーンさえ描かなかった。この突き放し方がファスビンダーなんだろうか。あまりにも冷たすぎる。

→ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー→ローゼル・ツュヒ→西ドイツ/1982→アテネ・フランセ文化センター→★★★☆

チャッピー

監督:ニール・ブロムカンプ
出演:シャールト・コプリー、ヒュー・ジャックマン、デーヴ・パテール、シガニー・ウィーバー、ワトキン・チューダー・ジョーンズ、ヨーランディ・ヴィッサー、ホセ・パブロ・カンティージョ、ブランドン・オーレット
原題:Chappie
制作:アメリカ/2015
URLhttp://www.chappie-movie.jp
場所:T・ジョイ大泉

ニール・ブロムカンプ監督の映画は、ポール・バーホーベンのようなエログロのどぎついスタイルを継承しているのではないかと『第9地区』を見た時には感じたのだけれど、『エリジウム』ではそれがハリウッド的な毒にも薬にもならないスタイルに落ち込んで、今回の『チャッピー』では同じ『ロボコップ』のような題材を扱いながら、さらにポール・バーホーベンから遠いところに落ち着いてしまった。

ハリウッド的なフツーなSF映画に落ち着いてしまったぶん、ストーリーのめちゃくちゃ具合が浮き立ってしまって、そのおかしなところを突っ込んで面白がることが出来るのか、反対に白けてしまうのか、微妙な映画に出来上がっていた。例えば、AIが育てた「意識」のデータをロボットの頭に着けた脳波検知ヘルメットで転送してしまうなんて設定を笑って許すのか、そんなバカなこと出来るわけないじゃん、と怒るのか、どっちつかずにフラフラと漂って、最後、“ニンジャ”のパンツに日本語のカタカナで「テンション」と書いてあったのを大笑いしてテンションが上がったので、めでたしめでたしとなりました。

→ニール・ブロムカンプ→シャールト・コプリー→アメリカ/2015→T・ジョイ大泉→★★★

Mommy/マミー

監督:グザヴィエ・ドラン
出演:アンヌ・ドルヴァル、スザンヌ・クレマン、アントワン=オリヴィエ・ピロン
原題:Mommy
制作:カナダ/2014
URLhttp://mommy-xdolan.jp
場所:新宿武蔵野館

25歳のグザヴィエ・ドラン監督の5本目の映画。

カンヌ映画祭で評価されるだけあって、独特な映像スタイルを持っていて、その部分に共鳴できるかどうかがグザヴィエ・ドランの映画を好きになれるかどうかの分かれ目だろうけど、なんだろう、そんなキレイな映像が少し鼻に付いてしまった。情緒的に不安定なADHD(注意欠如・多動性)の主人公を扱うには、スタイリッシュな構図がどうしても相反しているようにも見えてしまって、絶えず居心地の悪さを感じながら映画を観続けてしまった。このような題材は、映像的にももっと破綻しているべきで、泥臭い映像にこそリアルさがあるんじゃないかとのおもい込みが自分には強すぎるのかもしれない。

スクリーンに映し出される映画の画面の縦横比はまるでスマホのような比率で、それが時おり普通のビスタサイズに広がる解放感は素晴らしかった。そしてそれを元のスマホ比率に戻すテクニックもとても巧いけど、それがADHDの男の子の内面的感情ときっちりと同調していなかったのはちょっと残念。

カナダ映画には、クローネンバーグやエゴヤンやドゥニ・ヴィルヌーヴがそうだけど、どこか北の国の冷たさがいつも付きまとっていて、それが自分の心の奥底にある澱んだ冷たさと同調して気持ちが良いのだけれど、グザヴィエ・ドランにはそれをまったく感じなかった。カナダ映画の新しい世代なんだろうなあ。

→グザヴィエ・ドラン→アンヌ・ドルヴァル→カナダ/2014→新宿武蔵野館→★★★

セッション

監督:デミアン・チャゼル
出演:マイルズ・テラー、J・K・シモンズ、ポール・ライザー、メリッサ・ブノワ、オースティン・ストウェル、ジェイソン・ブレア、カヴィタ・パティル、コフィ・シリボー、スアンネ・スポーク、エイプリル・グレイス
原題:Whiplash
制作:アメリカ/2014
URLhttp://session.gaga.ne.jp
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

『セッション』が公開されたと同時に、ジャズ・ミュージシャンの菊地成孔の酷評が話題になった。

http://www.kikuchinaruyoshi.net/2015/04/08/セッション-正規完成稿/

映画を見終わったので、やっとそれを読むことが出来た。

まず、音楽的接点の何も無い自分にとって、この映画はすこぶる面白かった。それはもちろん、菊地成孔の云うところの「カリカチュアライズされたマンガ」として面白かったのだろうし、音楽的なディティールの矛盾に引っ掛かることなく、勢いで楽しんでしまった結果だったとはおもう。

菊地成孔が音楽的なディティールに憤慨するのはわかるような気がする。上記の文章を読めば、なるほどなあ、と納得できる。でも、「カリカチュアライズされたマンガ」としてまったくダメな映画だったのか、最後の「どんでん返し」も「つぶさに観れば、かなりいい加減」だったのかと云うと、うーん、まったくそうはおもえなかった。この「どんでん返し」に緻密な伏線がそれほど必要だったとはおもえないし、このような緩いストーリーの流れでも、メンヘラ教師が計らずも悪意で持って弟子を昇華させてしまう意外性を、そのメンヘラ教師と一緒に感動出来てしまうヘンテコな「どんでん返し」は体験できたとおもう。

菊地成孔はそうではないと云うけれど、「自白的に憤激している」ことに引っ張られて、「冷静に分析している」は取ってつけたようなものになっているような気がする。

→デミアン・チャゼル→マイルズ・テラー→アメリカ/2014→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★★

海外に比べれば犯罪発生率の低い日本ではあるけれど、昔に比べれば犯罪に巻き込まれる確率が格段に上がっているような気がする。今までのような平和ボケで街を歩いていると財布くらいは簡単に盗られてしまう世知辛い世の中になってしまった。もし、悪漢に襲われた場合に撃退するにはどうしたらいいのだろうか。やはり武器を持たねばなるまい。と言っても、銃砲刀剣類は法律に引っ掛かるので、何か武器に取って代わるような一般的なモノで代用しなければならない。

何が良いんだろうか?

そうだ! コリン・ヒギンズ監督の映画『ファール・プレイ』(1978年)の中でゴールディ・ホーンは、雨傘を使って悪漢を叩きのめしていた。見た目からして鋭利さを強調させている雨傘は、雨の多い日本ではやはり武器となりうる手近なアイテムだろう。

『ファール・プレイ』の舞台はサンフランシスコで、とりたてて雨が多いと言うわけではないそうだ。でも、この映画では必ずゴールディ・ホーンが黄色い雨傘を携帯していた。最初にその雨傘で悪漢を撃退したことから、悪の一味に捉えられた刑事からおびき出しの電話を受けた時に、その刑事は「雨傘を忘れずに」とさらりと言う。その言葉が何を意味するかバレないうえに、雨傘が武器となってゴールディ・ホーンの身を助ける手だてになると思ったからだった。

『ファール・プレイ』は『知りすぎていた男』をベースにしたヒッチコックのパロディ映画で、『逃走迷路』『ダイヤルMを廻せ!』『北北西に進路を取れ』などから拝借したシーンやマクガフィンをちょっとひねって面白可笑しくストーリーの中に取り込んでいるテクニックが素晴らしく、何度も何度も名画座に足を運んだものだった。そして、あまりにもこの『ファール・プレイ』が好きすぎてサンフランシスコのロケ現場まで行ってしまった。

この日はゴールデン・ゲート・ブリッジまで見渡せるほどよく晴れていたけれど、翌日はしとしとそぼ降る雨で、その中をあちこちと出歩いたものだから高熱を出してしまった。ああ、今思えば傘を持ち歩けば良かったのだ。それも黄色い傘を。

水牛に書いた文章を転載。