監督:トッド・フィリップス
出演:ホアキン・フェニックス、レディー・ガガ、ブレンダン・グリーソン、キャサリン・キーナー、ザジー・ビーツ
原題:Joker: Folie à Deux
制作:アメリカ/2024
URL:https://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の前作『ジョーカー』を観て、それがDCコミックス「バットマン」シリーズに登場するスーパーヴィラン「ジョーカー」のストーリーであることを忘れてしまって、殺人を犯してしまう一人の男のそれに至る、孤立感や劣等感、焦燥感、絶望感などを共に体験する映画として、どっぷりとのめり込んでしまった。こんなにアーサー・フレック(ジョーカー)に対して一心同体となってしまう理由は、常日頃から何か大きな事件があるごとに犯人を糾弾する気にはなれずに、その犯人がいかにしてその犯行に至ったのかにばかり気持ちが向いてしまう傾向があるからで、それはやはり自分が社会人になったころに宮崎勤が起こした事件がPTSDのように自分の内面に居座り続けているからに他ならないとおもっている。

部屋いっぱいにうず高く積まれたビデオテープの山を見て、オレの部屋じゃないか! の衝撃は計り知れなかった。じゃあどうして彼は犯行を起こして、自分は犯行を起こさないでいられたのか。そこには「運」しか存在しないように見えた。自分だって、ボタンの掛け違いが起きれば宮崎勤になっていた可能性を感じたからこそ、最近の事件で云えば、例えば「京都アニメーション放火殺人事件」の犯人に対してさえも、彼の「自分の作品が盗作された」ことに対する怒りがどこから来るのか、その強烈な怒りはどんなものだったのかばかりに気持ちが行ってしまう。

何を持ってして、ひとりの人間の怒りをマックスレベルに振り切れさせるかと云えば、自分の持っている才能が世間に認められないことが一番のような気がする。最近のSNSでも見られる承認欲求ほど、それがマイナス面に働くと爆発的な感情に触れてしまう。『ジョーカー』のアーサー・フレック(ジョーカー)も、自分の笑いのギャグを過大評価していて、さらに家族との関係、緊張すると発作的に笑い出してしまう病気などが合わさって、自分が世間に認められない焦燥感が他の人よりも大きくなってしまっていた。そこから殺人へ突き進む過程は、まさに犯罪者の心理を云い得ているように見えてしまった。

その『ジョーカー』から引き継いでの2作目『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』がどこへ向かうのか謎だったけれど、なんと「愛」の物語だった。それもミュージカルで。

ミュージカルって、突然歌い出すことに違和感を覚える人もいて、たしかに我々の日常で突然歌い出すことなんてない。もしそんな人がいたら、ちょっと頭のおかしい人だ。でも、映画が人を楽しませるエンターテインメントだとしたら、突然歌い出したとしてもそれが場を盛り上げる作用を引き起こすのであれば大いにあり得る。アーサー・フレック(ジョーカー)は人を笑わせるコメディアンを目指していたわけだから、彼の「愛」の物語にエンターテインメントとしてのミュージカルを使うのは一つの大きな効果をもたらせていたようにおもう。

この映画の中でも引用された映画『バンド・ワゴン』(1953)の中で歌われた名曲“That’s Entertainment!”に次のような歌詞がある。

Where a chap kills his father
男が父親を殺す場所

And causes a lot of bother
そして多くの迷惑を引き起こす

The clerk who is thrown out of work
仕事を追われる店員

By the boss who is thrown for a loss
負けて放り出された上司に

By this girl who is doing him dirt
彼に汚いことをしているこの女の子によって

The world is a stage,
世界は舞台であり、

The stage is a world of entertainment!
舞台はエンターテイメントの世界!

(Google翻訳を使用)

まるでアーサー・フレック(ジョーカー)がいた世界を云っているようだ。たとえ暴力や殺人を美化しているように見える映画だとしても舞台はエンターテイメントの世界。脚本を書いたトッド・フィリップスとスコット・シルヴァーは、そこに注目してさらにミュージカルに仕立てようにも見える。

でも「ジョーカー」のストーリーなのでハッピーエンドと云うわけにはいかなかった。アーサー・フレック(ジョーカー)は失望のなかで人生の幕を閉じる。これでトッド・フィリップスが作りあげたオリジナルnの「ジョーカー」は終わったのか? いやいや、彼の遺伝子はハーレイ・クイン(レディー・ガガ)の中に残った。「ジョーカー」のストーリーはまだまだ続く。

→トッド・フィリップス→ホアキン・フェニックス→アメリカ/2024→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★★

監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:ジェシー・プレモンス、エマ・ストーン、ウィレム・デフォー、マーガレット・クアリー、ホン・チャウ、ジョー・アルウィン、ママドゥ・アティエ、ハンター・シェイファー、ヨルゴス・ステファナコス
原題:Kinds of Kindness
制作:アメリカ、イギリス、アイルランド/2024
URL:https://www.searchlightpictures.jp/movies/kindsofkindness
場所:イオンシネマ大宮

ヨルゴス・ランティモスの新作がもうやって来た。前作の『哀れなるものたち』とキャストがダブるので、並行して撮っていたんじゃないかとおもえるほどの矢継ぎ早の公開だった。

今回の『憐れみの3章』は邦題が示す通り、3つの短編からなるオムニバス映画。すべてをヨルゴス・ランティモスが撮っているので「オムニバス」とは云わないのかなあ。「アンソロジー」映画かな。

第1話は「R.M.F. の死」と云うタイトルが付いていて、上司から絶対的に支配されている男のはなし。男は上司から「R.M.F. 」と云う名の男を交通事故に見せかけて殺すことを命令されるが、どうしても殺人は出来ないと拒否してしまう。そのために上司からすべてを取り上げられた男は、なんとか信頼を取ろ戻そうと格闘する。

第2話は「R.M.F. は飛ぶ」。海難事故から奇跡的に助かった妻を向かい入れる警官のはなし。昔の妻とはどうしても別人に見えてしまう警官は、妻に無理難題を押し付ける。

第3話は「R.M.F. サンドイッチを食べる」。カルト指導者から依頼されて、死者を蘇らす能力を持つ特別な人物を懸命に探す女。その最中に、元夫から睡眠薬を飲まされて無理やり関係を持たされてしまう。体が汚れてしまった女は指導者から追放されて…。

どれもヘンテコなストーリーで、ヨルゴス・ランティモスらしいけれど、いつもよりは肉欲、食欲、支配欲などの人間のグロテスクさが抑え気味で、そこはヨルゴス・ランティモスらしからぬ、とてもクールな映画だった。だからこそ一般の人へも向けられた映画ではあるのだけれど、土曜日のシネコン、お昼の12時の回で、私を含めて観客は二人だけだった。

ところで、それぞれのストーリーのタイトルに出てくる「R.M.F.」って何? 第1話では交通事故に見せかけて殺される男のことなので「R.M.F. の死」はそのとおりだ。でも第2話では、ただ単に海難事故の女性を救うヘリコプターのパイロットの名前だった。「R.M.F. は飛ぶ」は、まあ、そのとおりなんだけど、タイトルにしてはまったく意味がない。第3話にいたっては、ただの死体だ。つまり「サンドイッチを食べる」ことさえしない。とおもっていたら、忘れてましたと云わんばかりに最後「R.M.F.」がサンドイッチを食べるシーンが付け加わった。

3つのストーリーはすべて「R.M.F.」でつながっている。「R.M.F.」を演じているのはヨルゴス・ステファナコス。最初「R.M.F.」はヨルゴス・ランティモス自身が演じているのかとおもってしまった。それぐらいに、どことなく似ている。だから「R.M.F.」には監督からのメッセージが込められているんじゃないのか、「R」「M」「F」には意味があって、それぞれが原題の「Kinds of Kindness(優しさの種類)」を表しているのではないか、と見てしまった。

ネットを探して見ると「R」は「Redemption(償還)」「M」は「Manipulation(操作)」「F」は「Faith(信仰)」じゃないか、と云っている人がいた。なるほど、とはおもうけれど、そこは監督に聞いてみないとわからない。

→ヨルゴス・ランティモス→ジェシー・プレモンス→アメリカ、イギリス、アイルランド/2024 →イオンシネマ大宮→★★★☆

監督:二村真弘
出演:林浩次(仮名)、林健治
制作:digTV/2024
URL:https://mommy-movie.jp
場所:シアター・イメージフォーラム

1998年(平成10年)7月25日、和歌山市園部の夏祭りで提供されたカレーに猛毒のヒ素が混入され、67人がヒ素中毒を発症し、小学生を含む4人が死亡した。当時、この「和歌山毒物カレー事件」の報道に接したとき、そのあまりの過熱報道に異様さを感じながらも、連日放映される民法のワイドショーを見れば見るほど犯人とされた林眞須美の有罪を、ご多分に漏れず、信じ込むようになって行った。

二村真弘監督の映画『マミー』の主人公は林眞須美の長男、林浩次(仮名)。事件当時、林眞須美とその次女が夏祭りのカレーの見張り番をしているのを目撃したあとに現場から離れた長男は、当時の母親の生活態度などから総合的に見てカレーに毒物を混入することなどあり得ないと云う主張をしている。もちろん肉親であることから客観性を欠くことはあるのだろうけれど、映画に登場する長男(顔にはぼかしが入っている)の言動からは、極力、客観性を保とうとしていることが見てとれる。と云うよりも、もし自分がこの長男の立場に立ったとしたらこんなに冷静でいられるのだろうか? とさえおもえるほどに、そのあまりに冷めた態度にはびっくりさせられた。

林眞須美を有罪とすることの問題点は、犯行動機が明確になってない、直接的な証拠が存在しない、にある。この事件がモヤモヤとするのはそこに尽きる。それに加えてこのドキュメンタリーでは、

・事件で使われたヒ素(亜ヒ酸)は林眞須美が持っていたものと同一性が認められる
・林眞須美がカレーの入った鍋のふたを開けるなどの不審な行動をしていたことが目撃されている
・林眞須美は長年にわたって保険金詐欺にかかわる殺人未遂等の犯行に及んでいた

についての反証も行っている。特に3つ目の「林眞須美は長年にわたって保険金詐欺にかかわる殺人未遂等の犯行に及んでいた」は、直接的な証拠ではないにしても、彼女へ疑いを向けざるを得ない大きなポイントになっているとおもう。ところがそれも、夫の林健治や長男によって事実と反することが詳しく語られている。肉親であることからその証言は裁判では採用されていないのかもしれないけれど、もし林眞須美が首謀者として保険金詐欺を計画していなかったとすると彼女を有罪とするモヤモヤ度がますます深くなってしまう。

事件から26年。その後のネットでのコミュニュケーションを経験し、やっと最近、SNSでの書き込みを客観的に見ることができるようになって、ものごとを一方的に見ることの怖さを学習してから「和歌山毒物カレー事件」を振り返ると、やはり当時の過熱報道は公平さを欠いてたように見える。あいつはおかしい、あいつがやったに違いない、と云う決めつけたイメージをマスコミがどんどんと垂れ流した結果のようにもおもえる。

このドキュメンタリーを見て、当時の和歌山市園部のコミュニティがどんなものだったのかがとても気になった。もちろん二村真弘監督もそれを明らかにしようと努力して、ちょっと行き過ぎて警察のお世話になりながらも、なんとか当時の住民の証言を取ろうとしていた。でも、ことごとく門前払いだった。あの事件のことは思い出したくもない、はわかるのだけれど、そのかたくなな姿勢がとても不気味におもえた。ただ怪しいと云うことだけで林眞須美を有罪とすることの底の浅さを露呈したとも云える。おそらくは、もっと闇は深い。それを明らかにさせたドキュメンタリーだった。

→二村真弘→林浩次(仮名)→digTV/2024→シアター・イメージフォーラム→★★★★