監督:大森立嗣
出演:真木よう子、大西信満、大森南朋、鈴木杏、鶴田真由、井浦新、新井浩文、木下ほうか、三浦誠己、薬袋いづみ、池内万作、木野花
制作:「さよなら渓谷」製作委員会/2013
URL:http://sayonarakeikoku.com
場所:新宿武蔵野館
最初のシーンから「秋田児童連続殺害事件」をイメージさせて、さらにそこへ大学の体育会系部員が引き起こしたレイプ事件の加害者と被害者のその後の悲惨な転落ストーリーをかぶせてきたので、加害者の贖罪や事件によって引き起こされた被害者への差別のことなどを描く社会派ドラマとしてこの映画を見始めてしまった。だから、加害者の被害者に対する一方的な贖罪の映画としてストーリーを追いかけていたのだけれども、そこで被害者が見せる「許し」の態度や、そこからさらに「愛情」へと発展させた態度が、本当にそう云った感情のもとに見せている態度なのか、それともそう見せておいて、実際には相手をまったく許していないと云う事実を突きつけることによって「復讐」を果たそうとしている態度なのか、そこがとても曖昧に描かれていた。おそらくこの部分は、一緒に暮らし始めることによって被害者は徐々に加害者を許しはじめ、愛情さえも持ちはじめたのだけれど、でもどうしてもそうすることの許せない自分が同時に存在していて、そこの葛藤を激しい感情で見せることなく、とても平面で起伏のない感情で見せることによって、かえって問題の根深さを表現させていたのではないかとおもう。そのような表現方法がうまくいっていたかは難しいところだけど。
一方で、加害者にとっても被害者からの単純な「許し」を得ることが必要なのではなくて、どちらかと云えば今まで被害者の受けて来た責め苦と同等のものを自分に返されることこそが真の「許し」であるので、自分のことを殺人幇助罪の犯人として陥れるような行為こそが求めていたものだったのに、被害者が自分に好意を持ち始めた感情の変化からか、それを撤回された状態はかえって「復讐」以外のなにものでもなくなってしまった。ここの微妙なバランスがこの映画の面白いところだった。つまり、相手にとっての「許し」が「復讐」になり、「復讐」が「許し」になってしまう。最後に被害者は加害者の元を去るが、これも愛情を持ちはじめたことに耐えられなくなった結果としての行為なんだろうけど、その結果、加害者にとって責め苦を受けられなくなった状態ほど辛いものはなく、おそらく今後も彼女を追い続けることを案じさせて映画が終わる。
原作を読みたくなってしまったが、吉田修一の作品は「悪人」を読んだ限りではあまり面白いとはおもえなかったんだよなあ。映画化作品としては『悪人』よりこっちのほうが断然面白かったけど。
→大森立嗣→真木よう子→「さよなら渓谷」製作委員会/2013→新宿武蔵野館→★★★☆