監督:濱口竜介
出演:西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、ペリー・ディゾン、アン・フィテ、安部聡子
制作:『ドライブ・マイ・カー』製作委員会/2021
URL:https://dmc.bitters.co.jp
場所:109シネマズ菖蒲

即興演技のワークショップに参加した人たちを起用した濱口竜介監督の『ハッピーアワー』を観たときに、役者としての演技力があまり備わっていないにもかかわらず、映画として面白いものに仕上がっていることに不思議でならなかった。映画の中での役者の演技って何なんだろうなあ、とあらためて感じざるを得なかった。たとえば小津安二郎やロベール・ブレッソンの映画を見たときに感じたことと同じこと。映画の中での俳優の演技に我々がおもうような「上手い演技」なんてものはまったく必要なくて、ストーリーが面白くて、その語り口にリズムがあれば、過剰な演出は必要ないし、過剰な役者の演技も必要ないと云うことを教えてくれる映画だった。

濱口竜介監督の新作『ドライブ・マイ・カー』は、なんと、その濱口竜介監督の演出法を垣間見ることができる映画だった。

西島秀俊が演じている舞台俳優で演出家の家福悠介は広島の演劇祭に招かれる。そこでプロアマ、国籍を問わずに、オーディションで選ばれた人たちを使ってチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を上演することになる。その最初の「本読み」の段階が、ああ、『ハッピーアワー』はこんなふうに作って行ったんだろうなあ、とおもえるシーンだった。

それぞれの役者に、ゆっくりと、感情を入れさせずに、まるで棒読みのようにセリフを読ませていく。そして一人のセリフが終わったら、机をポンと叩いて次の役者にパートを受け渡していく。それをリズム良く、何度も何度も繰り返えさせて、役者の体にセリフを染み込ませていく過程が描かれていた。これがつまり、濱口竜介監督が実践している演出方法なんじゃないかと想像してしまう。何度も普通に読ませることによって、過度な演技を省いて行って、自然なものに整えていく。

昔の映画監督とかも、相米慎二もそうだったのかなあ、まるでパワハラまがいに(いまの尺度で云えばパワハラ確定だ!)、役者に同じシーンのセリフを何度も云わせて、過剰な演技を取り除いて行く方法があった。それの、やさしいバージョンのような気がする。

斉藤由貴「頭もおかしくなりますよ」デビュー映画で浴びた相米監督の洗礼
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202108300000372.html

この『ドライブ・マイ・カー』での西島秀俊も、妻の霧島れいかに相手役のセリフだけをテープに吹き込んでもらって、車での移動時間にその録音テープを使ってセリフの練習をするシーンが出てくる。それはまるで、西島秀俊と霧島れいかが、『ドライブ・マイ・カー』の「本読み」を何度も行っているようにも錯覚してしまうシーンだった。

おそらくは、そのような方法を取って『ドライブ・マイ・カー』自体も作られて行ったんだとおもう。西島秀俊も、妻役の霧島れいかも、運転手役の三浦透子も、過剰な演技することなしに、フラットでありながらも、それでいて内面からにじみ出てくるような自然な演技をしていた。濱口竜介監督はそれを絶えず追求しているんだとおもう。

と考えると、岡田将生だけは、ちょっとだけ芝居がかっているように見えてしまった。まあ、役柄的にどうしようもなかったのかなあ。

反対に、広島演劇祭を主催している柚原を演じていた安部聡子は凄かった。彼女のような、何もかもを削ぎ落としてしまったかのような、能面のような演技が見られるのも濱口竜介監督作品の醍醐味だとおもう。

→濱口竜介→西島秀俊→『ドライブ・マイ・カー』製作委員会/2021→109シネマズ菖蒲→★★★★

監督:トマス・ビンターベア
出演:マッツ・ミケルセン、トマス・ボー・ラーセン、マグナス・ミラン、ラース・ランゼ、マリア・ボネヴィー、スーセ・ウォルド
原題:Druk
制作:デンマーク、オランダ、スウェーデン/2020
URL:https://anotherround-movie.com
場所:新宿武蔵野館

今年のアカデミー外国語映画賞はデンマークのトマス・ヴィンターベア監督が撮った『アナザーラウンド』が受賞した。その授賞式のときに流れた映画のダイジェスト版を見ると「呑んべえ讃歌」のような映画なんだろうなあとイメージできる内容だった。

実際に映画を観てみると、生徒や生徒の親からダメ教師の烙印を押されてしまったマッツ・ミケルセンがアルコールのちからを借りて、次第に
活気のある授業ができるようになる様子を描いていたので、途中までは「呑んべえ讃歌」の内容で間違いのない映画だった、ところが、酒っていうものは自分で飲む量をコントロールできなくなってしまう飲み物で、仲間の教師をも巻き込んで酒に溺れていく過程をも合わせて描いているところが単純な「呑んべえ讃歌」の映画にはしていなかった。

トマス・ヴィンターベア監督がアカデミー賞の受賞スピーチで、この映画の撮影開始から4日後に娘が高速道路での事故によって亡くなったことを明かしていた。その娘はこの映画のマッツ・ミケルセンの娘役が予定されていたということだった。

娘が亡くなる前の段階では「アルコールがなければ世界の歴史は違っていただろうという説に基づくアルコールの祝祭」がこの映画の主題だったらしい。ところが娘の死を受けて「人生に目覚めることについて」の要素が取り入れられて脚本は書き換えられて行ったということだった。つまり、なんとなくコメディっぽい含みも持たせて映画が進行して行くのに対して、途中から次第に深刻なドラマに発展して行くのは、こんなトマス・ヴィンターベア監督の実際の悲劇が関連していたんじゃないかと想像できてしまう。

自分としては、コメディっぽい流れのままに映画が帰結していたほうが好みの映画だったのかもしれないのだけれど、娘の死を受けて、のんきにコメディを作っている場合じゃなくなってしまった心情もわかる気がして、なんとなく複雑なおもいの残る映画となってしまった。

→トマス・ビンターベア→マッツ・ミケルセン→デンマーク、オランダ、スウェーデン/2020→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:細田守
声:中村佳穂、成田凌、染谷将太、玉城ティナ、幾田りら、森川智之、津田健次郎、小山茉美、宮野真守、森山良子、清水ミチコ、坂本冬美、岩崎良美、中尾幸世、佐藤健
制作:スタジオ地図/2021
URL:https://ryu-to-sobakasu-no-hime.jp
場所:MOVIXさいたま

細田守監督の『サマーウォーズ』を公開時に映画館で観たとき、その面白さに熱狂してすぐさまBlu-rayを買ってしまったほどだった。それは今でも変わらず、テレビ放映で見ても面白い作品だとおもう。ところが細田守監督のその後の作品が、『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』『未来のミライ』と、どれも面白くない。それぞれの映画の世界観が『サマーウォーズ』ほどにまとまってなくて、どちらかと云えば混乱しているように見えてしまう映画ばかりだった。こんな映画ばかり見せられると、もしかすると『サマーウォーズ』はたまたま上手くハマっただけの映画だったのか? の懸念さえ芽生えてきてしまった。

『サマーウォーズ』を何度も見ていると、ストーリーを強引に進めている部分が気になってくる。仮想世界のアカウントが国のインフラ制御にまで関わっているのはやり過ぎだし、そんな現実とシンクロしている世界にしてはセキュリティがユルユルだし、RSA暗号を紙とペンだけで解読するのも無理があるし、格闘ゲーのようなものをキーボードでコントロールさせるなんてあり得ないし、とにかく気になる部分をあげつらって行けば枚挙にいとまがない。もうちょっとディティールを詰めても良かった気がする。

でも、アニメーションとしてビジュアル的な派手さに重きをおいて、複雑な部分をハッタリで押し通したとしても、映画として面白ければそれはそれで良いとはおもう。それが『サマーウォーズ』では上手くハマっていた。おそらく他の作品では失敗していたんだとおもう。

今回の『竜とそばかすの姫』も『サマーウォーズ』と同じような仮想世界を描いていた。全体的なストーリー構成も『サマーウォーズ』と似通っていて、だからなのか今回もとても面白く映画を観ることができた。

ただ、今度ばかりは『サマーウォーズ』を教訓にして、少しばかり身構えて映画を観たために、映画としての弱い部分、強引な部分、雑な部分がはっきりとわかってしまった。この映画の一番の問題点は、主人公の「すず」が「目立たなくて魅力のない子」には見えなかった点だった。十分に可愛い子に見えるキャラクターデザインだし、負の要素として設定されているはずの「そばかす」でさえも魅力的なものに見えてしまった。

そして、クラスで一番の人気者の女の子「ルカちゃん」が「魅力的な女の子」に見えなかった点も大きな問題点だった。いや、そもそも、どんな顔立ちをしているのかまったく頭に入って来なかった。彼女の顔が明確に認識できていなければ、おもわず「ルカちゃん」の顔をアバターに設定してしまった仮想世界上の「すず(ベル)」が、あこがれの人間を具現化した、とは捉えることができない。二人の差が明確にわからなければ、「こんな普通の女の子がベルだったの?」の驚きにも共感できはしなかった。

他にもご都合主義的で強引な部分も多々あって、そんな雑な部分を許せない人は大勢いるのだろうなあ、とはおもう。それは細田守の他の映画にも共通するところだった。

とは云っても、自分としては、その細田守のハッタリで強引に押し通す部分は、映画としてリズムが生まれれば許せるのかなあ、とはおもっている。だから今回も細田守に惑わされて面白く映画を観ることができた。それが仮想世界の映画ばかりなのが残念なところなんだけど。

→細田守→(声)中村佳穂→スタジオ地図/2021→MOVIXさいたま→★★★★

監督:ケイト・ショートランド
出演:スカーレット・ヨハンソン、フローレンス・ピュー、デヴィッド・ハーバー、O・T・ファグベンル、オルガ・キュリレンコ、ウィリアム・ハート、レイ・ウィンストン、レイチェル・ワイズ
原題:Black Widow
制作:アメリカ/2021
URL:https://marvel.disney.co.jp/movie/blackwidow.html
場所:109シネマズ木場

アベンジャーズの中でもとりわけスカーレット・ヨハンソンが演じているナターシャ・ロマノヴァの立ち位置がよくわからなくて、どんな特質を持ってアベンジャーズに加わっているのか、「マーベル・シネマティック・ユニバース」シリーズの映画を見ているだけではまったくピンとこなかった。それを解決してくれる映画が『ブラック・ウィドウ』だった。

ケイト・ショートランド監督の『ブラック・ウィドウ』は、今まで「マーベル・シネマティック・ユニバース」シリーズの中でさらりと語られてきたロシアのスパイ養成機関「レッドルーム」のことをメインで取り上げている。世界各国から孤児を集めてきて、まるでリュック・ベッソン『ニキータ』のようなスーパー暗殺者に育て上げる組織が「レッドルーム」で、その孤児の中のひとりがナターシャ・ロマノヴァ(コードネーム「ブラック・ウィドウ」)だった。

つまりナターシャは、アベンジャーズの中では普通の人間であって、超人的なパワーを持ち合わせていない生身の人間でしかなかった。ただ彼女は「レッドルーム」でスパイとして厳しく鍛え上げられ、格闘技、射撃、アクロバットなどの様々なトレーニングも受けていて、他のメンバーとはまた違った角度の生身のスーパーヒーローの位置づけだったことがこの映画でよくわかった。

「マーベル・シネマティック・ユニバース」は、ドラマではすでに「ワンダヴィジョン」「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」「ロキ」が「フェーズ4」に突入しているけれど、映画ではこの『ブラック・ウィドウ』が初めて。うーん、ちゃんと「フェーズ4」を追っかけるために「Disney+」もサブスク契約しないといけないのか! もうサブスク契約したくない。

→ケイト・ショートランド→スカーレット・ヨハンソン→アメリカ/2021→109シネマズ木場→★★★☆

監督:エメラルド・フェネル
出演:キャリー・マリガン、ボー・バーナム、アリソン・ブリー、クランシー・ブラウン、ジェニファー・クーリッジ、コニー・ブリットン、ラバーン・コックス、アダム・ブロディ、マックス・グリーンフィールド、クリストファー・ミンツ=プラッセ、アルフレッド・モリーナ
原題:Promising Young Woman
制作:アメリカ/2020
URL:https://pyw-movie.com
場所:MOVIXさいたま

映画のテッパンのストーリーとして復讐劇がある。昔の西部劇なんて、多くが復讐劇だった。日本の時代劇だって、任侠映画だって、めちゃくちゃ多い。でも、これだけ同じような映画を見せられれば飽きちゃうのかと云えば、たとえ似たような復讐ネタを繰り返されても、ラストに主人公が復讐を果たすとスッとする。復讐相手がクソ野郎であればあるほど痛快だ。だから今でも復讐劇の映画は多い。

が、時代はいろいろと変わってきていて、単純に復讐劇を見せるだけではいかなくて、ひとひねり、ふたひねり、ストーリーに変化球を加えなくてはいけなくなって来ている。

エメラルド・フェネル監督の『プロミシング・ヤング・ウーマン』も単純に云えば復讐劇だった。

キャリー・マリガンが演じているカサンドラ・トーマス(キャシー)が医学部在籍中に、親友のニーナが同級生にレイプされるという事件が起きる。ニーナはその事件の後に心を病んで自殺してしまう。親友の自殺をきっかけに医学部を退学したキャシーはニーナをレイプした同級生に復讐を果たそうとする。

ストーリーを要約するとこんな感じなんだけど、この映画の面白いところは、導入からして、なぜニーナがコーヒーショップの店員に身をやつして、そして夜の顔を持って男たちに復讐を重ねているのか、それはどんな復讐なのか(殺しているのか? あそこをちょん切っているのか?)なんの説明もなしに見せてくるところだった。さらにストーリーの核心に迫っても、ニーナがレイプされるシーンも、ニーナがどのように亡くなったのかも、なぜ亡くなったのかも、まったく出てこない。説明もない。映画を観ていくうちに、おぼろげながらにわかってくるだけだった。

最近の映画はやたらと説明が多い。セリフでベラベラと説明しちゃうような映画もある。ああ、でも、映画は映像で見せてくれるのが一番だ。サイレント映画に近いかたちで映像で見せてくれるのがベストだ。そういった意味ではエメラルド・フェネル監督の『プロミシング・ヤング・ウーマン』は素晴らしかった。

そして、この公正・公平の時代に、復讐する側にも罰を用意しなければならなくなってきている。そういった意味でも『プロミシング・ヤング・ウーマン』は上手くストーリーを展開していた。

同じような復讐劇でも、やりようによっては無限大に広がることを示してくれる映画だった。

→エメラルド・フェネル→キャリー・マリガン→アメリカ/2020→MOVIXさいたま→★★★★

監督:ホン・サンス
出演:キム・ミニ、ソ・ヨンファ、ソン・ソンミ、キム・セビョク、イ・ユンミ、クォン・ヘヒョ、シン・ソクホ、ハ・ソングク
原題:도망친 여자
制作:韓国/2020
URL:https://nigetaonna-movie.com
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町

ホン・サンスとキム・ミニのコンビによる7本目の映画。

5年間の結婚生活で一度も離れたことのなかった夫の出張中に初めてひとりになった主人公ガミ(キム・ミニ)は、ソウル郊外の3人の女友だちを訪ね歩いて行く。

女友だちと会う3つのパートを見ていくうちに、タイトルの「逃げた女」とは何を意味するのだろうかと考え始める。主人公のガミ(キム・ミニ)は絶えず夫との仲の良さを強調するので、それがまったくの嘘でないかぎり、夫から「逃げた女」では無いことになる。となると、何から逃げているのか? それとも、それぞれが微妙な立場にいる女友だちのことを指しているのか?

映画のタイトルのことが最後までモヤモヤしていたので、映画を観終わったあとにネットを検索してみた。すると、ホン・サンスへのインタビュー記事があった。

https://www.cinemacafe.net/article/2021/06/21/73453.html

これを読むと「実は誰かは決めていなかったんです(笑)」と云っている。さらに「私が望むのは、どんな意味付けもすることなく、いかに断片を集めてこられるかということ」とも云っている。ああ、なるほど。ホン・サンスの映画って、どの映画でも、断片的に現れる会話シーンを楽しむ映画ばかりで、そこから何を得られるのかは見る側にかかっているような気もする。だから今回の映画でも、主人公のガミ(キム・ミニ)と女友だちとの会話から映画を観る側が「逃げた女」を感じ取れれば良いように作られている。

どんなに満足な状態でも、かえってそれがアダとなって逃げ出したくなる場合もあるわけだし、主人公のガミ(キム・ミニ)と夫との関係もそんなふうに捉えることもできてしまう。ひいてはキム・ミニとホン・サンスの関係だったりして、、、

→ホン・サンス→キム・ミニ→韓国/2020→ヒューマントラストシネマ有楽町→★★★☆

監督:三木孝浩
出演:山﨑賢人、清原果耶、夏菜、眞島秀和、浜野謙太、田口トモロヲ、高梨臨、原田泰造、藤木直人
制作:「夏への扉」製作委員会/2021
URL:https://natsu-eno-tobira.com
場所:109シネマズ木場

一時期、有名なSF小説を立て続けに読んでいたときがあった。そのときにはもちろん、ロバート・A・ハインラインの「夏への扉」も読んだ。でも、ちょうどアーサー・C・クラークの「幼年期の終り」に衝撃を受けた直後のことだったので、それに比べると内容があまりにも軽くて、センチメンタルすぎたので、どこか拍子抜けしてしまった記憶がある。いま改めて読み返せば、もっと面白く感じられるのかなあ。

と云う気持ちで、日本で映画化された『夏への扉 -キミのいる未来へ-』を観た。

考えてみれば、小説の細かい内容をすっかり忘れてしまっていたので、ああそうだ、そんなストーリーだったなあ、と次第におもい出しながら映画を観て行くことになった。で、その内容から受ける印象は、小説を読んだときとまったく変わらなかった。そういった意味では、それなりにうまく小説をコンパクトに映画化していたのかもしれない。ただ、それだったら、日本で映画化する意味をまったく見い出せないので、なにか、もうちょっとプラスアルファが必要だったような気もしてしまう。新海誠のような日本のアニメ映画レベルに、もっとセンチメンタル強めの映画に仕上げても良かったような気もしてしまう。まったくの平均点の映画で、あまりに印象に残らない映画となってしまった。

→三木孝浩→山﨑賢人→「夏への扉」製作委員会/2021→109シネマズ木場→★★★

監督:スパイク・リー
出演:デイヴィッド・バーン、ジャクリーン・アセヴェド、グスタヴォ・ディ・ダルヴァ、ダニエル・フリードマン、クリス・ギアーモ、ティム・カイパー、テンデイ・クーンバ、カール・マンスフィールド、マウロ・レフォスコ、ステファン・サン・フアン、アンジー・スワン、ボビー・ウーテン・3世
原題:David Byrne’s American Utopia
制作:アメリカ/2020
URL:https://americanutopia-jpn.com
場所:MOVIX三郷

今となってはレガシーとなってしまったレーザーディスクと云うもののソフトを作っている会社に勤めていたとき、ジョナサン・デミが監督をしたデイヴィッド・バーンの『ストップ・メイキング・センス』と云うライブ映画をレーザーディスク版で見た。当時は洋楽のことにあまり詳しくなくて、トーキング・ヘッズなんてグループのことをまったく知らなかったのだけれど、そのスタイリッシュなパフォーマンスにすっかり魅せられてしまった。オープニングにギター一本でステージに現れたデイヴィッド・バーンが、曲ごとに次第に演奏するパフォーマーを増やしていって、最後には楽団として大団円を迎える舞台構成は、ステージを見ている観客のボルテージを次第に上げて行って歓喜させていくツボを心得ているミュージシャンであることを証明しているような映画でもあった。

そのレーザーディスク版の『ストップ・メイキング・センス』を見てから、おそらくは30年くらい経っているとおもう。そんな長い時間を経てから、今回またデイヴィッド・バーンが、今度はスパイク・リーと組んで、2018年に発表したアルバム「アメリカン・ユートピア」をもとに制作されたブロードウェイのショーのライブ映画を作った。これも『ストップ・メイキング・センス』と同じように、徐々に観客を高揚させていく構成のライブで、昔のトーキング・ヘッズ時代の「Once In A Lifetime」や「Burning Down The House」も演奏するので、まるで30年の時をタイムスリップしているような既視感も加わって、気が狂わんばかりの楽しい映画に仕上がっていた。

いやいや、それ以上に、このステージの中でデイヴィッド・バーンが云っているように、ワイヤーを使っていない楽器、つまり電気の力を借りていない楽器だけで構成する舞台は、まるで人間たちが原初から行って来た祝祭のように、自然のちからに対する畏敬の念とか、豊穣の恵みに対する感謝とか、そういったものをまとめて崇め奉っているようにも見えてきて、ラストには最高潮を迎えた祭りの歓喜のような、不思議な高揚感も味わえる効果を上げているのにはびっくりした。

いやあ、すごい映画だった。スパイク・リーの構成も素晴らしかった。今年のベストの映画になりそうな気がする。

→スパイク・リー→デイヴィッド・バーン→アメリカ/2020 →MOVIX三郷→★★★★

監督:ホン・サンス
出演:オ・ユノン、ペク・チョンハク、キム・ユソク、パク・ヒョニョン
原題:강원도의 힘
制作:韓国/1998
URL:https://apeople.world/hongsangsoo/
場所:ユーロスペース

エリック・ロメールの次にホン・サンスを観る。

小説を原作としたデビュー作『豚が井戸に落ちた日』と違って、自らの着想から始まったオリジナル作品というという点でもこの『カンウォンドのチカラ』がホン・サンス映画の原点と言える作品、だそうだ。『豚が井戸に落ちた日』を観ていないのでなんとも云えないのだけれど、いつもホン・サンスの映画には必ずと云って良いほどに登場するテーブルを挟んでの食事上での会話シーンが、確かにこの『カンウォンドのチカラ』には何回も出て来る。すでに2作目にして、現在のホン・サンスの映画に通ずるスタイルが確立したってのは、そうなのかもしれない。

『カンウォンドのチカラ』は、前半がオ・ユノンが演じる大学生イ・ジスクたち女三人組の江原道(カンウォンド)への小旅行の話し。後半はペク・チョンハクが演じる大学講師が後輩に誘われてやはり江原道へ行く話し。映画を観ているだけでは、前半から後半へと、普通に時間軸が進んで行くように見えた。でも、細かなエピソードが前半と後半の双方に出てきて、この2つが同じ時間を共有していることがだんだんとわかってくる。ただ、二人の主人公が交わることはない。微妙にすれ違っているだけなので、大きくストーリーが展開することはない。

映画を観たあとにネットでストーリーを確認すると、前半に出て来る大学生のオ・ユノンと後半に出て来るる大学講師のペク・チョンハクは別れたばかり恋人同士なんだそうだ。ペク・チョンハクには奥さんも子供もいるから不倫カップルと云うことか。その二人が同じ場所で、同じ時間を共有していながらも決して出会うことはなくて、唯一の接点はオ・ユノンがお寺に落書きした「もう少し長い呼吸で待っていよう」をペク・チョンハクを見つけるところだけ。そうか、全体の構成はそういうことだったのか。ああ、ホン・サンスは巧いなあ。観終わったあとにジワジワくる良い映画だった。

→ホン・サンス→オ・ユノン→韓国/1998→ユーロスペース→★★★☆

監督:エリック・ロメール
出演:ベルナール・ヴェルレー、ズーズー、フランスワーズ・ヴェルレー、ダニエル・セカルディ、マルヴィーナ・ペーヌ
原題:L’Amour l’après-midi
制作:フランス/1972
URL:
場所:ル・シネマ

東京都の非常事態宣言のなか、映画館の上映もやれるのか、やれないのか、どっちなのか迷走していて、今回のル・シネマでの「エリック・ロメール監督特集上映」も予定がめちゃくちゃになってしまった。どういうルールなんだかわからないのだけれど、非常事態宣言時のなかでも途中から映画館の上映がOKになって、やっとエリック・ロメールが観られることとなった。

エリック・ロメールの「六つの教訓話」シリーズの中でもまだ観たことのない『愛の昼下がり 』がちょうど土曜の夜の回に間に合ったので滑り込んで観ることができた。

エリック・ロメールの映画には、めんどくせえ女だなあ、って女性がよく出て来る。まあ、あくまでも自分の主観での印象なので、多くの人がこのことに共感してくれるのかと云えば、そうでもない。いや、でも、『緑の光線』のマリー・リヴィエールなんて相当なものだよなあ。今回の『愛の昼下がり』にも、そのマリー・リヴィエールにも勝るとも劣らない女性が出てきた。やたらと気まぐれで自由奔放な、それでいてこちらの気持ちにズカズカと土足で踏み込んでくるような、めんどくせえ、と云うよりは、それよりも上を行く危険な雰囲気を漂わせる女性だった。歌手やモデルとしても活躍したズーズーと云う女優が演じていた。

そのズーズーを観ていて、なぜか不思議な魅力を感じるところが『緑の光線』のマリー・リヴィエールとは違うところだった。この映画の主人公ベルナール・ヴェルレーと同様に、危ない女だ、とおもいながらも次第に惹きつけられて行ってしまうところが完全に自分とシンクロしていた。

ズーズーに興味を持ってネット検索すると日本語のページはあまりない。で、苦労して英語やフランス語のページを見ると、薬物依存で苦労した女性だったらしい。ただ、ジョージ・ハリスンやボブ・ディラン、ブライアン・ジョーンズなど、関わった男性たちの名前が豪華なところが目を引く。実生活でも魅力的な人物だったのかもしれない。と云うか、この映画のズーズーは地で演じていたのかもしれない。

※同時上映の短編映画『モンフォーコンの農婦』(1968年、13分)も観た。結婚を機に田舎で暮らす元教師の女性のドキュメンタリー。

→エリック・ロメール→ベルナール・ヴェルレー→フランス/1972→ル・シネマ→★★★☆