監督:ノア・バームバック、ジェイク・パルトロウ
出演:ブライアン・デ・パルマ
原題:De Palma
制作:アメリカ/2015
URL:
場所:新宿シネマカリテ

ブライアン・デ・パルマの映画を最初に映画館で観たのは1981年に日本で公開された『殺しのドレス』だった。ヒッチコックの『サイコ』にオマージュを捧げた映画として話題となって、当時、和田誠の「お楽しみはこれからだ」の影響からヒッチコックの映画を一生懸命に追いかけていた自分にとっては、観なければ! の映画だった。でも、当時の評価としては、ヒッチコックの安易な模倣として嫌悪を示す映画評論家も大勢いて、自分が映画を多く観はじめてからの作品としては、リアルタイムに賛否両論の嵐を体験した初めての映画だったような気もする。

ところが、この映画が、とても気に入ってしまった。確かにヒッチコックよりは下品で、捻りのないそのままストレートな『サイコ』の引用な気もするけど、そのけれんみのない純粋なヒッチコックへの愛情に好感を持ってしまった。スピルバーグにも通ずる映画に対する無邪気さをも感じ取ってしまった。そこからはずっと、過去の作品も含めてブライアン・デ・パルマを追いかけて来て、大好きな映画も、なんだこりゃの映画もあったけど、総合的には大好きな映画監督だった。

ノア・バームバックとジェイク・パルトロウが撮ったドキュメンタリー映画『デ・パルマ』は、単純にブライアン・デ・パルマへのインタビューでのみ構成されていて、彼が1963年に撮った『御婚礼/ザ・ウェディング・パーティ』からはじまって2012年の『パッション』に至るまで、一つ一つの作品が丁寧に彼自身によって語られて行く。ただ、それは、撮影方法とか俳優の起用方法とか作品論と云った「ヒッチコック/トリュフォー」のようなものではなくて、作品を世に出すまでに如何に自分の信念を貫いたかの逸話に多くが割かれていた。そこから彼の映画に対する情熱が充分に伝わって来て、やはりピュアな心を持ち続けることが映画制作には必要不可欠なんだなあ、と、子供がそのまま大きくなって人の良いおじさんになったように見えるブライアン・デ・パルマがますます好きになってしまった。

→ノア・バームバック、ジェイク・パルトロウ→ブライアン・デ・パルマ→アメリカ/2015→新宿シネマカリテ→★★★☆

監督:米林宏昌
声:杉咲花、神木隆之介、天海祐希、小日向文世、佐藤二朗、 大竹しのぶ、渡辺えり、遠藤憲一、満島ひかり
制作:「メアリと魔女の花」製作委員会/2017
URL:http://www.maryflower.jp
場所:109シネマズ木場

『かぐや姫の物語』と『思い出のマーニー』をプロデュースした西村義明が、スタジオジブリの制作部が解体されたあとにスタジオポノックを設立して、その第一回作品として『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』を監督した米林宏昌と一緒に『メアリと魔女の花』を撮った。

おそらくスタジオジブリの正統な継承者としてスタジオポノックは存在して行くのだろうけど、それは宮崎駿のスタイルをそのまま継承して行くと云うことではなくて、宮崎駿のテイストを受け継ぎつつも自分たちのスタイルを確立していかなければならない困難が目に見えてそこにあると云う、なんとも茨の道を突き進む決心をしているところがチャレンジャーだ。

第一回作品の『メアリと魔女の花』は、やはりまだジブリの、と云うか宮崎駿の呪縛にがんじがらめのように見えてしまうのがかわいそうだった。

プロデューザーの西村義明が以下の記事で云っているように、

ジブリと宮崎駿の呪い “リストラ”された後継者たちの「その後」

米林宏昌が「宮崎駿が持っていたアニメーションのダイナミズムを一子相伝で受け継いでいる稀有な存在」ならば、そうそう、まずはこの1点にのみ注目して、原作ありきの魔女モノのような宮崎駿がやりそうなことは置いておいて、もっとオリジナルなモノでダイナミックなアニメーションにトライできたらよかったんじゃないかともおもう。でも、そうすれば、ジブリに付いていた客をすべて拒否することにもなるのでますますチャレンジャーになるんだけど、どうせ茨の道を進む覚悟をしているのならば最初からやっておいた方がよかった。

→米林宏昌→(声)杉咲花→「メアリと魔女の花」製作委員会/2017→109シネマズ木場→★★★

監督:メル・ギブソン
出演:アンドリュー・ガーフィールド、ヴィンス・ヴォーン、サム・ワーシントン、ルーク・ブレイシー、ヒューゴ・ウィーヴィング、ライアン・コア、テリーサ・パーマー、リチャード・パイロス、レイチェル・グリフィス
原題:Hacksaw Ridge
制作:アメリカ/2016
URL:http://hacksawridge.jp
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

子供のころ、ミリタリー系のプラモデルを作るのが好きだった。その流れから、第二次世界大戦についての本を読むのも好きだった。だから、太平洋戦争のミッドウェーとか、ガダルカナルとか、レイテとか、主要な戦闘の知識はあったし、沖縄の戦争のこともある程度は知っているつもりだった。でも、ハクソー・リッジ(浦添城址の南東にある「前田高地」の急峻な崖にアメリカ軍が付けた呼称)の戦闘のことはまったく知らなかった。硫黄島もそうだけど、地下にもぐった日本軍の必死の抵抗は数多くあって、それぞれの細かな激戦については文献として残ることもなく、すっかりと忘れ去られてしまう運命にあるんだよなあ。そういった意味においては、たとえハリウッド映画だったとしても、太平洋戦争での悲惨な激闘の歴史を注目することができたのは嬉しかった。

とは云っても、もうすでにインディアンをバッタバッタと皆殺しにするような西部劇が作られなくなってから久しいのに、日本兵がゾンビのごとく人間としての尊厳もなく殺されて行くのを見るのは、まあ、なんともいい気持ちはしない。でも、でも、今の時代は公平性もちゃんと担保されて、アメリカ兵側も同等にむごたらしく殺されてしまうのが時代性と云うものなのかもしれない。それに、阿鼻叫喚をきわめた戦闘のむごたらしさは、VFXの進化によって臨場感たっぷりに腹の底にまで伝わってくるので、日本兵側にも人間としてのドラマがあるだろう! なんて、クリント・イーストウッドの映画のようなものを求める気持ちをぐっと抑えて、そこはリアルな戦闘シーンを楽しむことだけ念頭に置いて観ることだけに専念した。そして楽しんだ!

メル・ギブソンって、監督の力量はそれなりにあるとはおもう。映画の主題に『がんばれ!ベアーズ』的な「強さに勝る弱さ」を持って来て、映画を観ている人のエモーションを、これでもか、と煽るところが抜け目ないけれど、その狡さを差し引いても面白い映画だった。

→メル・ギブソン→アンドリュー・ガーフィールド→アメリカ/2016→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★☆

監督:アスガル・ファルハーディー
出演:シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリシュスティ、ババク・カリミ
原題:فروشنده
制作:イラン、フランス/2016
URL:http://www.thesalesman.jp
場所:ル・シネマ

今年のアカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされていながら、トランプ大統領がイスラム圏特定7か国の国民を90日間入国禁止にしたことに抗議し、アスガル・ファルハーディー監督と主演女優のタラネ・アリドゥスティが授賞式をボイコットしたことでも話題となった『セールスマン』をル・シネマの最終日にやっと滑り込んで観てみた。

アスガル・ファルハーディー監督の2011年の作品『別離』はとても面白い映画だった。イランの社会状況を反映させたサスペンス調のこの映画は、男と女の関係や富めるものと貧しいものとの関係など、イスラム社会であっても日本と共通するテーマを扱いながらも、まだまだ高圧的な男性が女性を支配する状況はムスリム特有の問題であって、そこから生まれるDVをも感じさせる暴力的な緊迫感がサスペンスを盛り上げる要素として有効で、予測もつかない展開にぐいぐいと引き込まれる映画だった。

今回の『セールスマン』は、構造としては『別離』にとても良く似ていたけれど、アーサー・ミラーの「セールスマンの死」を上演する劇団員の夫婦と云う設定がとても効いていて、二人の関係がまるで「セールスマンの死」の中の年老いた63歳のセールスマン、ウィリィ・ローマンと家族との関係にダブるところが「映画内劇」とか「映画内映画」が大好きな自分としては堪らなかった。イランであろうとアメリカだろうと、宗教は違えども人間関係から起きる問題は普遍的であることから、二国間に横たわる政治的な緊張をも乗り越えてテヘランでアメリカの戯曲を上演しようと努力する人びとを見るのも楽しかった。

でもやっぱり、『別離』ほどではなかったけど、夫が妻に対する高圧的な態度は不快だなあ。イスラム圏の映画を見ると、よくある情景なんだけど。

https://wan.or.jp/article/show/3470

このブログに人が云うには「もっともっと頭が古くさくてさらに高圧的な態度にある男性はイランにはまだまだごまんといます」なんだそうだ。

→アスガル・ファルハーディー→シャハブ・ホセイニ→イラン、フランス/2016→ル・シネマ→★★★★

監督:古居みずえ
出演:菅野榮子、菅野芳子
制作:映画「飯舘村の母ちゃんたち」制作支援の会/2016
URL:https://www.iitate-mother.com
場所:武蔵大学江古田キャンパス 地下1002シアター教室

2014年に福島の南相馬で毎年行われる相馬野馬追祭りへ行った時に車で飯舘村を通過した。その時に真っ先に目に飛び込んできたのは黒いフレコンバックの積まれた山だった。このフレコンバックには土地を除染するために取り除かれた表土や草木が入っていて、それが4段にわたって積み上げられ、放射線を遮るために周りと一番上の五段目には汚染されてない土を入れた袋がさらに積み上げられていた。この袋が「黒」であることから、アニメ「電脳コイル」のイリーガルのような、なにか、人間が作ったバグの集合体にも見えてしまって(実際、そうなのかもしれない)、すっかりと意気消沈してしまった記憶がある。

ただ通過するだけの旅行者でさえ、あの黒いフレコンバックの積まれた山を見れば心穏やかではいられないのに、そこに住んでいた人たちの心境がいかほどのものなのか想像すらできない。実際に住んでいた人たちの気持ちには到底及ぶことはできないのだけれど、その気持ちに少しでも寄り添えたらとおもって、毎年恒例の「被爆者の声をうけつぐ映画祭」で上映される古居みずえ監督の『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』を観てみた。

『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』の主人公とも云える菅野榮子さんは明るかった。絶えず、ガハハハ、と笑っている。でも、その笑いと笑いのあいだの、間(ま)、に見せる真剣な眼差しとの落差がとても怖かった。ああ、この人は、明るく見せてはいるけれど、神経の細やかな人の見せる仕草がところどころにあることから、画面から伝わってくる外見とは違う、もっと神経質な人なんじゃないかと映画を見ながらずっと考えていた。このことは、映画上映後の古居みずえ監督のトークで、菅野榮子さんは鬱になりそうな時期もあったとのエピソードから、映画の中での「こうやって人は鬱になって行くんだねえ〜」なんて冗談交じりに笑いながら云うシーンが実際の自分の経験からくるセリフなんだということもわかって、ああ、やっぱり、その明るさとは裏腹の、とてもナイーブな人なんだと確認することができた。

仮設住宅での生活を楽しんでいるかのように見えるその姿も、ドキュメンタリーと云ったってスクリーンに映し出されるものがすべてではないことをことさら再認識させてくれるような、いや、洞察深く注意して見れば内面をも見通すことができる力が映像には秘められているんだと認識させてくれたような、ドキュメンタリー映画の素晴らしさを確認させてくれるような映画だった。

ドキュメンタリー映画って、深刻な題材を深刻なまま伝えるのはそれはそれでストレートで良いんだけど、一生懸命に繕っている人たちの姿を見ることも、これもまた却って深刻さが引き立って見えたりもするのでこれもまた良いものだ。いつも云ってるけど、ドキュメンタリー映画はなんでもありだ。真剣な眼差しも、繕っている意地も、嘘をついている情けなさも、なんでもありだ。

→古居みずえ→菅野榮子→映画「飯舘村の母ちゃんたち」制作支援の会/2016→武蔵大学江古田キャンパス 地下1002シアター教室→★★★☆

監督:ハル・ハートリー
出演:D・J・メンデル、ダニエル・メイヤー、二階堂美穂、パラヴィ・サストリー、チェルシー・クロウ、カンスタンス・フレイクス
原題:Meanwhile
制作:アメリカ/2011
URL:http://www.shortcuts.site/piece/3231
場所:TCC試写室

ハル・ハートリーの映画が大きくクローズアップされたのは1992年から93年にかけてだった。ニューヨーク・インディーズの新しい旗手として『シンプルメン』と『トラスト・ミー』が続けざまに公開されたのだった。私も『シンプルメン』を1992年の12月26日にシャンテ・シネ2で、『トラスト・ミー』を1993年2月1日に同じくシャンテ・シネ2で観た記録が残ってる。でも最近はあんまり話題になることもなく、新作も日本で公開されなくなってしまったいた。

そんな懐かしいハル・ハートリーが「ヘンリー・フール三部作」BOXセット制作のために日本語を含む5か国語の字幕を付けるクラウドファンディングを募集しているとのニュースがTwitterで流れてきた。そのクラウドファンディングの認知度アップのために特集上映もするとのことなので、まだ見ていなかった59分の中編作品『はなしかわって』を小さな試写室へ観に行った。

何でもそつなくこなしてしまう主人公が、いろんな仕事に手を出しながらも何一つパッとしてなくて、それでもそのマメさからいろんな人に愛されていて、ひょいひょいと世渡りをしていく様子をテンポよく1時間にまとめた映画だった。こんなたわいもないストーリーを登場人物の会話だけで面白く見せてしまうのが、ああ、ハル・ハートリーなんだなあと思い出した。タランティーノの映画もそうなんだけど、無駄なディティールに富んだ会話の映画が好きでたまらない。うーん、これはクラウドファンディングしてあげたいなあ。でも、DVDやBlu-rayのBOXセットが特典に付くのは100ドルからかあ。うーん、うーん。

https://www.kickstarter.com/projects/260302407/henry-fool-trilogy-boxed-set/

→ハル・ハートリー→D・J・メンデル→アメリカ/2011→TCC試写室→★★★☆

監督:湯浅政明
声:下田翔大、寿美菜子、斉藤壮馬、鈴村健一、柄本明、菅生隆之、チョー、佐々木睦、谷花音、篠原信一
制作:ルー製作委員会(フジテレビジョン、東宝、サイエンスSARU、BSフジ)/2017
URL:http://lunouta.com
場所:池袋HUMAXシネマズ

『夜は短し歩けよ乙女』が公開されたばかりの湯浅政明監督の新作『夜明け告げるルーのうた』が続けざまに公開されて、観に行かなきゃな、とおもっているうちに上映館が縮小されてしまっていた。ところが、その『夜明け告げるルーのうた』がアヌシー国際アニメーション映画祭の長編部門グランプリにあたるクリスタル賞を受賞したことから、ここぞとばかりにまた上映館が拡大されたので、映画の日でもあったのですかさず観に行った。

『夜明け告げるルーのうた』は、多くの人がすでに語っているように、どうしてもジブリのアニメーションを重ねて観てしまった。もちろん音楽の扱い方はまったく違うし、ダンスシーンのアニメーションはオリジナリティに溢れているし、細かいところをしっかりと見て行けば湯浅政明監督のスタイルを確認できるんだけど、メインとなるキャラクターの「ルー」がどうみても「ポニョ」に酷似しているし、「ルーのパパ」はどことなく『となりのトトロ』をイメージしてしまうところが、なんとも、ジブリの呪縛におもえてしまう。そこをジブリへのオマージュとして緩やかに捉えて見ればいいんだろうけど、いや、いや、湯浅政明は日本のアニメーションの、ジブリとも、細田守とも、新海誠とも違う、もうひとつの極へ行って欲しいと願うばかりなのです。だから、『四畳半神話大系』→『夜は短し歩けよ乙女』の流れがここで途絶えたことがともて残念におもえてしまって。何度も同じことをやっていてもしょうがないんだけどね。

→湯浅政明→(声)下田翔大→ルー製作委員会(フジテレビジョン、東宝、サイエンスSARU、BSフジ)/2017→池袋HUMAXシネマズ→★★★

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:エイミー・アダムス、ジェレミー・レナー、フォレスト・ウィテカー、マイケル・スタールバーグ、マーク・オブライエン、ツィ・マー
原題:Arrival
制作:アメリカ/2016
URL:http://www.message-movie.jp
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『メッセージ』を2回観ると云うことは、すでにどんな結末を迎えるのかがわかったうえで、そのストーリーを見て行くことになる。これはつまり、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」の中で云っている、

“それら”はあらゆる事象を同時に経験し、その根源に潜む目的を知覚する。最小化、最大化という目的を。

をこの映画の中で疑似体験できることを意味しているのかもしれない。『メッセージ』は、そう云った意味においても、原作の中に潜んでいるテーマを実際に踏襲できる素晴らしい映画ではないかとおもう。

『メッセージ』を観賞する時に、主人公に感情を移入をして見て行くのならば、2回目の観賞ではすでにエイミー・アダムスがどのような行動を起こすか理解していて、それをわかったうえで彼女の行動をなぞって見て行くことになる。この場合、エイミー・アダムスの人生における「根源に潜む目的」は、その「最大化」としては、娘が自分よりも早く死を迎えることが解っていたとしても、一緒に過ごした日々を、言い争ったことも含めて、ハッピーなこととして認識することではないかとおもう。で、そのことを同時に体験することがこの映画の最大の目的であると同時に、このストーリーを2度観ることによって映画を「より楽しむ」ことが、鑑賞者たる「私」の「最大化」なのかもしれない。

原作を読まずに映画を観る。

原作を読む。

2度目の映画を観る。

を行うことによって、この『メッセージ』を「より楽しむ」ことができた。メディアミックスは、時には素晴らしい「最大化」の相乗効果を生むことになる。

→ドゥニ・ヴィルヌーヴ→エイミー・アダムス→アメリカ/2016→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★★

監督:エリック・ロメール
出演:シャルロット・ヴェリ、フレデリック・ヴァン・デン・ドリーシュ、ミシェル・ヴォレッティ、エルヴェ・フュリク、アヴァ・ロラスキ
原題:Conte D’Hiver
制作:フランス/1991
URL:
場所:角川シネマ有楽町

今回のエリック・ロメール特集上映会の3本目。

この映画もまた勝手な自分の主張で男たちを翻弄してしまう女、フェリシー(シャルロット・ヴェリ)のストーリーだった。客観的に見れば、結婚相手として登場する3人の男たちの中では図書館に勤めているロイック(エルヴェ・フュリク)がとても理知的で、控えめで、フェリシーの母親や娘にも好かれていて、いちばん彼女にぴったりだとおもうのに、バカンスと云う浮かれ気分の中で知り合ったちょっと野性的なイケメンに固執して、それをまるで白馬の王子のように追い求めて、ラストはそのイケメンと再会してハッピーエンドな映画になっているところが、おいおい、それで良いのかよ。おまえみたいな考え方の女がそんなちゃらいイケメンと上手く行くわけねえだろう、って多くの男たちがツッコミを入れるだろう映画になっているところが、うわ、エリック・ロメールすごい、ってなった。

フェリシーを演じているシャルロット・ヴェリも、ぱっと見た目は美人ではあるけれども、そこまで男を自由に選べる美貌でもないだろう、って女優を使っているところが、エリック・ロメールの確信犯的皮肉が見て取れて、また、すげえなあ、となった。

→エリック・ロメール→シャルロット・ヴェリ→フランス/1991→角川シネマ有楽町→★★★☆

監督:マイク・ミルズ
出演:アネット・ベニング、グレタ・ガーウィグ、エル・ファニング、ルーカス・ジェイド・ズマン、ビリー・クラダップ、アリア・ショウカット、ダレル・ブリット=ギブソン、テア・ギル、ローラ・ウィギンス、ナタリー・ラヴ、ワリード・ズエイター、アリソン・エリオット
原題:20th Century Women
制作:アメリカ/2016
URL:http://www.20cw.net/
場所:MOVIXさいたま

マイク・ミルズ監督の前作『人生はビギナーズ』は、ガンの宣告を受けた年老いた父から、実はゲイ、と告白される息子の顛末を描いていて、その「普通ではない」環境から生まれる「普通」に対する葛藤がペーソス溢れててとても面白かった。

今回の『20センチュリー・ウーマン』もこれまた不思議な雰囲気を持ってる映画だった。基本は、思春期の息子の教育に悩むシングルマザーのストーリー、なんだけど、母親も息子もべったりとした親子関係の中に存在するのではなくて、それぞれの独立した「個」を尊重している関係であるところがとてもクールでかっこよかった。その二人に関わる人間たちもどこかヒッピーを引きずっているような人物ばかりで、いまから考えると1979年は、80年代以降のインターネットや携帯電話などによって引き起こされる「個」と「個」との関係が変質する以前の、牧歌的な「リアル」が人間関係の中に残っていた最後の時代だったんじゃないのかなあ、とおもったりもした。その象徴が、この映画の中に出てくるカーター大統領の緊急テレビ会見だった。カーター大統領は「国民はアメリカの将来を悲観視している」という調査を真に受けて、なんとも、お人好しな会見を大まじめに行ってしまったのだ。もう、こんな大統領は、あり得ない。

1979年は、自分で云えば、江夏の21球、3年B組金八先生、世界名作劇場「赤毛のアン」、そして世界最強タッグ決定リーグ戦のザ・ファンクスだった。つまり、当時のザ・ファンクスのようなプロレスが代表されるように、あんな純粋さは、もう、あり得ない。

→マイク・ミルズ→アネット・ベニング→アメリカ/2016→MOVIXさいたま→★★★★