ゴーン・ガール

監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:ベン・アフレック、ロザムンド・パイク、キャリー・クーン、ニール・パトリック・ハリス、タイラー・ペリー、キム・ディケンズ、パトリック・フュジット、ケイシー・ウィルソン、ミッシー・パイル、セーラ・ウォード、エミリー・ラタイコウスキー、キャスリーン・ローズ・パーキンス、リサ・バネス、デヴィッド・クレンノン、スクート・マクネイリー、シド・ストリットマター、レオナルド・ケリー=ヤング
原題:Gone Girl
制作:アメリカ/2014
URL:http://www.foxmovies-jp.com/gone-girl/
場所:109シネマズ木場

むかし勤めていた会社の同僚たちとデヴィッド・フィンチャーの『セブン』を観に行った時に、他のみんなが不快感をあらわにしているのに自分だけが大絶賛していたことがあって、なんでみんなこの映画の不快さにばっかりに目が行くのだろうかと不思議におもったことがあった。キッチリとした構成のストーリーに酔いしれることがまず先決であって、その結果の不快さなんて二の次なのに。

その再来と云わんばかりに『ゴーン・ガール』も不快な映画だった。それも夫婦間に引き起こる不快さだから『セブン』よりももっとたちが悪い。だから、より以上に、この映画を不快に感じる人も多いとおもう。でも、もし、この不快さにより敏感になるのだとしたら、すでに自分たちがベン・アフレックとロザムンド・パイクの夫婦のような精神的局面に足を突っ込んでいて、まるで鏡を見るように自分たちを見るからじゃないかとおもったり。

それに、ちょうど「STAP細胞は検証できませんでした」の発表の日に観に行ったので、まるでベン・アフレックの「妻は生きてます!」が小保方さんの「STAP細胞はありまーす!」に見えて、それも不快さに輪をかけてしまった。

でも、不快な映画だけじゃなくて、少し笑えるのが『セブン』とは異なっている点だった。夫のベン・アフレックも妻のロザムンド・パイクもどこか間抜けで、とても可笑しい。ベン・アフレックなんて、ずっとボヤッとしたアホ面を通しているし、ロザムンド・パイクの計画的な犯行なんて、まるでプレストン・スタージェスの『殺人幻想曲』のようだ。最初の計画が破綻して、それを取り繕うためにあたふたする部分はドタバタ喜劇だ。これって、デヴィッド・フィンチャーのせいいっぱいのコメディなんじゃないのかなあ、もしかして。笑っていたのは自分だけだったような気もするけど。

→デヴィッド・フィンチャー→ベン・アフレック→アメリカ/2014→109シネマズ木場→★★★☆

インターステラー

監督:クリストファー・ノーラン
出演:マシュー・マコノヒー、アン・ハサウェイ、ジェシカ・チャステイン、マッケンジー・フォイ、ケイシー・アフレック、ティモシー・シャラメ、ビル・アーウィン、エレン・バースティン、マット・デイモン、マイケル・ケイン、 デヴィッド・ジャーシー、ウェス・ベントリー、ジョン・リスゴー
原題:Interstellar
制作:アメリカ/2014
URL:http://wwws.warnerbros.co.jp/interstellar/
場所:新宿ミラノ1

映画のストーリーを楽しむ時に、それって辻褄があってないんじゃない? と引っかかってしまうと、その後のストーリーをまったく楽しめなくなってしまう場合があって、その「辻褄」が重箱の隅をつつくような些細なことの場合もある。反対に、大きな論理的破綻を見せているのにまったく気にしないで映画を楽しんでしまう場合もある。クリストファー・ノーランの映画は、その両方がせめぎ合う微妙なライン上にいつも立っていて、どっちに転んでもおかしくないような映画ばかりだ。

『インセプション』はまったく気にせずに楽しんでしまった。でも、『ダークナイト ライジング』はまったくダメだった。

この『インターステラー』は、ところどころ気にはなったんだけど、勢いで楽しんでしまった。

以下、ネタバレ。

気になったのは、やはり、人類が何か得体の知れないものに突き動かされて進化した結果、時空を超越した「神」のような存在になって、その「神」のような存在が過去の人類に進化のきっかけを与えていると云うパラドックスだ。自分たちが進化できたのは、未来の自分たちのおかげと云う、なんともまあ、都合の良いこと。

SF映画にはパラドックスが付き物で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のパラドックスなんてご都合主義満載だ。それでも、楽しめるパラドックス映画は多い。だから、『インターステラー』のパラドックスもそれだけでは別に気にすることもない。全然OKだ。でも、ブラックホールの中に入って行ったり、5次元が可視化されている状態のイメージとか、そんなの無いんじゃない? が積み重なってしまうとだんだんと白けてくる。さらに、主人公マシュー・マコノヒーの都合の良いことが立て続けに起きたりする(どうやって五次元の世界からスペースコロニーに戻ったんだ!)と、それはあんまりだ! になってしまう。

テサラクト

ところが、クリストファー・ノーランはそんなことを考える余裕を与えないほどにストーリー展開を畳みかけるのが巧い。そして、男のロマンだの、家族愛だの、自己犠牲だの、約束を守る義務だの、を使って涙腺を突いて来るのだ。汚い野郎だ。

特に、フィリップ・カウフマン(そして原作のトム・ウルフ!)の『ライトスタッフ』が大好きな人間にとっては、危険を顧みず宇宙に飛び出して行く男のロマンがたまらない。最初にワームホールへ飛び込んで、移住可能な惑星の探査に向かった3人の博士の勇気を考えただけでも鳥肌が立ってしまう。クリストファー・ノーランは、マシュー・マコノヒーの役名をクーパーにしたことからもわかるように、絶対に『ライトスタッフ』(7人目の宇宙飛行士がゴードン・クーパー)を意識しているはずだ。

いろいろとご都合主義の映画だけれども、まあ、楽しめる映画であることは間違いなかった。

→クリストファー・ノーラン→マシュー・マコノヒー→アメリカ/2014→新宿ミラノ1→★★★☆

天才スピヴェット(3D)

監督:ジャン=ピエール・ジュネ
出演:カイル・キャトレット、ヘレナ・ボナム・カーター、カラム・キース・レニー、ニーアム・ウィルソン、ジェイコブ・デイビーズ、ジュディ・デイビス、ドミニク・ピノン
原題:L’extravagant voyage du jeune et prodigieux T.S. Spivet
制作:フランス、カナダ/2013
URL:http://spivet.gaga.ne.jp
場所:ユナイテッドシネマとしまえん

何度も云うようだけれど、3D映画が嫌いだ。メガネをかけてまでして、そしてそれによって画面が暗くなるまでして、そこから得られる3D効果が乏しいとおもうからだ。現状の3Dなんて、いくつかの2Dのレイヤーが重なっているの過ぎない。焦点の合ったメインの映像(例えば人の顔のクローズアップとか)の立体的効果はそれなりにあるとおもうけど、それが背景と相まった時に全体として3Dになっているとはまったく見えない。

でも、現状の3D技術を駆使して、映画を観ている人たちを楽しませようと腐心している映画作家の映画は大好きだ。最初にそれを感じたのはマーティン・スコセッシの『ヒューゴの不思議な発明』で、今回の『天才スピヴェット』もそれをとても感じた。あの手、この手を駆使して、いかにして現状の3Dが映画のストーリーに効果をあげるのか追求している。ローアングルからのショットもそうだし、手前に物を配置して奥行きを持たせるショットもそうだし、俯瞰などを多用するのもそうだ。この映画は、今までの3D映画の中でベストだった。

映画なんて、昔の見世物小屋と同じだから、暗〜い、怪しげなところで、何やら得体の知れないものを見て驚かせてもらうものなんだ。ジャン=ピエール・ジュネはそれをちゃんと踏襲している。えらい。

→ジャン=ピエール・ジュネ→カイル・キャトレット→フランス、カナダ/2013→ユナイテッドシネマとしまえん→★★★★

網走番外地

監督:石井輝男
出演:高倉健、丹波哲郎、南原宏治、安部徹、嵐寛寿郎、待田京介、田中邦衛、潮健児、関山耕司、沢彰謙、風見章子
制作:東映/1965
URL:
場所:丸の内TOEI

高倉健が亡くなった。

映画の黄金時代から50年以上が経って、銀幕のスタアたちが鬼籍に入るサイクルになっているとは云え、やはり高倉健クラスの大スタアが亡くなるニュースを目にすると、えっ! とショックを受けてしまう。

高倉健の映画を初めて映画館で観たのは『幸福の黄色いハンカチ』(なんと『ロッキー』と2本立て!1978年5月4日丸の内松竹にて )だった。映画を映画館で数多く見はじめた当時、なぜか山田洋次の『男はつらいよ』シリーズをバカにしていて、あんな同じようなことを何度も繰り返しているようなマンネリ映画はジジババのもんだ、と、いま考えれば映画のことを何もわかってない幼稚な思考に捕らわれていた。そんな山田洋次に対する過小評価を一変させたのが『幸福の黄色いハンカチ』だったのだろうとおもう。めちゃくちゃ面白くて、ご多分に漏れずラストの黄色いハンカチが掲げられるシーンで感動してしまった。それは、当時はまだ良くわかっていなかったのだろうけど、監督のテクニックによるところのなせる技だったのだ。俳優の使い方も巧かった。高倉健はもちろんのこと、桃井かおりや武田鉄矢など、今まで気にも留めてなかった俳優に対する評価もがらりと変わるほどの素晴らしい映画だった。

高倉健に対するイメージは、その後ずっと亡くなるまで、『幸福の黄色いハンカチ』の時に植え付けられたままだった。「スジを通す男」だ。過去の映画を名画座やビデオ、DVDでたくさん観ても、それはまったく変わらなかった。仁侠映画ではもちろんのこと、大作の映画でも、晩年の映画でもそうだった。

ただ、なぜか『網走番外地』シリーズはまったく見てなくて、先日のテレビでの追悼放送で『網走番外地 北海篇』と『網走番外地 南国の対決』をはじめて見たばかりだった。そして今回の丸の内TOEIでの追悼上映で『網走番外地』と、3本を立て続けに見た。そこにはやはり「スジを通す男」がいた。『網走番外地』での網走刑務所に入所する時の、教育課長の関山耕司に自己紹介をするシーンでも、そのものズバリ、「俺は、スジが通らねえことが大嫌いなんです」と云っていた。

自分でも高倉健のようにスジを通したいとおもいつつ、でも、それにこだわると世渡りが難しくなって、妥協を余儀なくされてしまう。そんな、スジの通らないことをする自分に嫌気がさしたりもする。いま一度、高倉健の映画を見て、やはりスジを通そうと決意をするけど、ああ、どうかなあ。それを許さない難しい世の中だ。

→石井輝男→高倉健→東映/1965→丸の内TOEI→★★★☆

滝を見にいく

監督:沖田修一
出演:根岸遙子、安澤千草、荻野百合子、桐原三枝、川田久美子、徳納敬子、渡辺道子、黒田大輔
制作:「滝を見にいく」製作委員会/2014
URL:http://takimini.jp
場所:新宿武蔵野館

前作の『横道世之介』が面白かった沖田修一監督の新作は、7人のおばちゃんたちが山で迷うだけのストーリーだった。それも前作の160分の映画から一気に88分と云う短さの映画に切り替えて、職人監督が撮るようなプログラムピクチャーを作ったのはびっくりした。

映画が全盛期のころにはこのようなB級映画がたくさんあって、短期間で撮影して、90分弱の上映時間の中にきっちりと起承転結をまとめて、テンポよく笑ったり、泣いたりできる映画がどこの映画館でも2本立ての一つとして上映されていた。そんな懐かしきプログラムピクチャーたちをおもい出してしまった。最近、無駄に上映時間の長い映画がやたらと多いので、この映画はわざとそこに切り込んだような気もする。沖田修一監督はウディ・アレンのように、このくらいの尺の映画毎年一本くらいのペースで作っても良いんじゃないのかなあ。

無名のおばちゃん俳優たちも素晴らしかった。根岸遙子や荻野百合子が素人と云うからびっくりだ。

→沖田修一→根岸遙子→「滝を見にいく」製作委員会/2014→新宿武蔵野館→★★★☆

日曜日の人々

監督:ロバート・シオドマク、エドガー・G・ウルマー
出演:ブリギッテ・ボルヒャルト、ヴォルフガンク・フォン・ヴァルタースハウゼン
原題:Menschen am Sonntag
制作:ドイツ/1930
URL:
場所:本郷中央教会

ユダヤ人であるためにナチスから逃れてハリウッドに渡ったロバート・シオドマクと、F・W・ムルナウと一緒にハリウッドへ渡って「B級映画の王様」と呼ばれるようになるエドガー・G・ウルマーが、まだアマチュアだったドイツ時代に撮った『日曜日の人々』は、脚本がビリー・ワイルダー、撮影助手がフレッド・ジンネマンと云う、今から考えるととても豪華なスタッフの映画。

1930年ごろのドイツ映画と云えばフリッツ・ラングやF・W・ムルナウなどの表現主義の映画を真っ先におもい浮かべるわけで、この映画もその影響が多分にあるのかとおもって構えて見たらその気配はまったくなく、どちらかと云えば戦後イタリアのネオリアリズモのような映画だった。同時に、ところどころに当時のベルリンの人々の日常風景も挟み込まれ、一般の人々を正面から捉えたクローズアップなども一緒に挿入されて、ドキュメンタリー映画のような体裁の映画でもあった。

このようなドラマ部分とドキュメンタリー部分がミックスされた映画をどこかで見たよう気がして、映画的記憶にサーチをかけて答えを見つけようとしたけれどまったくわからず、家に帰ってからネットを駆使しながらおもいを巡らせていたら突然とおもい出した。ロバート・フラハティの映画だ!

ロバート・フラハティはドキュメンタリー映画の父と呼ばれ、2年に1回開催される山形国際ドキュメンタリー映画祭の大賞は「ロバート・フラハティ賞」と呼ばれている。そのロバート・フラハティの映画は『アラン』しか見たことがないんだけど、それがドラマのような、ドキュメンタリーのような映画だった。

さらにいろいろと調べてみると、フレッド・ジンネマンはロバート・フラハティに影響を受けているらしい。エドガー・G・ウルマーの師匠F・W・ムルナウはハリウッドに渡ってからロバート・フラハティと一緒に『タブゥ』を撮っている。おお、どんどんと繋がって行く。エドガー・G・ウルマーやフレッド・ジンネマンが当時、どれだけロバート・フラハティの映画を見ていたのかわからないけれど、何かしら影響があったんじゃないかと推測している。積ん読の状態のままにしている「フレッド・ジンネマン自伝」を早く読まねば。

本郷中央教会での『日曜日の人々』の上映は、ピアニストの柳下美恵さんが毎年行っている「聖なる夜の上映会」の8回目だった。古い教会の中でピアノ伴奏(+菊池かなえさんのフルート)付きのサイレント映画を観るのはなかなかお洒落な感じで毎回のリピーター客も多いらしく(漫画家の今日マチ子さんもそうらしい!)150席が満席だった。礼拝堂の椅子がちょっと固いので背中が痛くなってしまったのだけれど。

→ロバート・シオドマク、エドガー・G・ウルマー→ブリギッテ・ボルヒャルト→ドイツ/1930→本郷中央教会→★★★☆

紙の月

監督:吉田大八
出演:宮沢りえ、池松壮亮、大島優子、田辺誠一、小林聡美、近藤芳正、石橋蓮司、伊勢志摩、佐々木勝彦、天光眞弓、中原ひとみ
制作:「紙の月」製作委員会/2014
URL:http://www.kaminotsuki.jp
場所:ユナイテッド・シネマとしまえん

角田光代の小説「紙の月」は、原田知世主演ですでにNHKがドラマ化していて、それを何となくダラダラと、そんなに熱中することもなく見てしまった。だから、ぼんやりとストーリーを理解してしまったので、この映画を見る楽しみと言えば原田知世と宮沢りえの女優比較をするくらいしかないのかな、とおもっていたところにいきなり小林聡美が切り込んで来た。

宮沢りえが勤めている銀行の同僚で「お局」的な存在を演じている小林聡美は、おかっぱの髪形には乱れが一つもなく、仕事上の些細なミスも許さない何事にもキッチリとした性格で、同僚の女性の服装や装飾品の変化までチェックして、銀行員としての品行方正さに目を光らせている(と言うシーンは出てこないけど、大島優子の言動からそんな感じ)ようなカタブツの女性銀行員。この映画は、次第に変化して行く宮沢りえとこの小林聡美とを比較することにポイントを置いて、二人の対決をラストのクライマックスに持って来るような構成となっていた。このようなシーンはテレビドラマには無かった。いや、小林聡美が演じているキャラ自体が無かったような気がする。とすると、映画用の創作なのか。原作を俄然読みたくなってしまった。

小林聡美のセリフのシーンにはクローズアップを多用していて、表情をあまり見せない能面のような顔がスクリーンいっぱいに広がるのはインパクトがあった。そのあまりの強烈さに宮沢りえが霞んでしまったほどだった。いわゆる、主役を食ってしまっていた。

→吉田大八→宮沢りえ→「紙の月」製作委員会/2014→ユナイテッド・シネマとしまえん→★★★☆

6才のボクが、大人になるまで。

監督:リチャード・リンクレイター
出演:エラー・コルトレーン、パトリシア・アークエット、イーサン・ホーク、ローレライ・リンクレイター、リビー・ヴィラーリ、マルコ・ペレッラ、ブラッド・ホーキンス、ゾーイ・グラハム、チャーリー・セクストン、ジミー・ハワード 、アンドリュー・ヴィジャレアル、イライジャ・スミス、ニック・クラウス、トム・マクテイグ、スティーヴン・チェスター・プリンス、エヴィー・トンプソン、ジェニファー・グリフィン、タマラ・ジョレイン、テイラー・ウィーヴァー、ライアン・パワー
原題:Boyhood
制作:アメリカ/2014
URL:http://6sainoboku.jp
場所:新宿武蔵野館

12年ものあいだ同じ俳優、子役を使って、彼らの肉体的成長とともにストーリーを同時進行で進めて行く方法は誰もが考えつきそうだけれど、でも、そのコストや俳優の拘束期間を考えたら今まで誰もが手を付けなかった事だとおもう。それをリチャード・リンクレイターが『6才のボクが、大人になるまで。』で実現させてしまった。その冒険心が素晴らしい。

そして、そこまで苦労して作り上げた映画を実際に見てみると、ストーリーはフィクションでも肉体的な成長はノンフィクションで、まるでリアルな事が展開されているドキュメンタリー映画を見ているような感覚に陥って、まったく新しいジャンルの映画を見ているようだった。特に子役のエラー・コルトレーンやローレライ・リンクレイターが大きく成長して行く姿は、まるで自分の親戚の子の成長をポイント、ポイントで見て、わぁー、見ないうちに大きくなったねえ、と言いたくなるほどだった。彼らが成長とともに関わる小道具たち、iPod、ボンダイブルーiMac、ドラゴンボールZ、ブリトニー・スピアーズ、ハリー・ポッター、Halo、Wii Sports、Facebookなども、自分がそれに関わった時代をオーヴァーラップすることが出来て、さらにリアルさを倍増させてくれた。

イーサン・ホークやパトリシア・アークエットも、実際の子供の親としての成長、歳の取り方を見ているようで、とりわけパトリシア・アークエットは、最初のシーンの容姿が『トゥルー・ロマンス』の時とそんなに変わらなかったので、何となく今もそのような容姿のままなんじゃないかと勘違いしてしまって、それが映画を見て行くうちにどんどんと膨らんで行ってしまうので、ああ、歳月と云うものは厳しいもんだなあと痛感して行くのもドキュメンタリーっぽかった。

2時間46分の上映時間は映画としては長いけれど、ドキュメンタリー映画として見ればあたりまえの長さで、家族の一人一人が12年間に渡ってさすらう時間の中に身を置くことを考えれば決して長くなかった。最後に、ポンッ、と終わった時には、どこか寂しさを感じてしまった。

→リチャード・リンクレイター→エラー・コルトレーン→アメリカ/2014→新宿武蔵野館→★★★★

誰よりも狙われた男

監督:アントン・コービン
出演:フィリップ・シーモア・ホフマン、レイチェル・マクアダムス、ウィレム・デフォー、ロビン・ライト、グレゴリー・ドブリギン、ニーナ・ホス、ダニエル・ブリュール、ホマユン・エルシャディ
原題:A Most Wanted Man
制作:アメリカ・イギリス・ドイツ/2013
URL:http://www.nerawareta-otoko.jp
場所:新宿武蔵野館

フィリップ・シーモア・ホフマンが今年の2月2日に亡くなった。まだ46歳の若さだった。彼を意識し出したのは、おそらくポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』あたりだとおもう。そして『カポーティ』で決定的となって、『その土曜日、7時58分』『脳内ニューヨーク』『ザ・マスター』と彼の演技の鬼気迫る凄さに夢中になってしまった。特にポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』の演技はどこか異次元に行ってしまったかのような神々しさを感じて、この人、ちょっとヤバいんじゃないのか、とおもったくらいだ。それが的中してしまったかのように今年、薬物の過剰摂取で逝ってしまった。

そのフィリップ・シーモア・ホフマンの遺作(厳密に云えば『ハンガー・ゲーム3』になるのかな)は、彼としてはフツーの演技の映画ではあるけれども、ジョン・ル・カレが原作なので男の哀愁が甚だしく、亡くなってしまったフィリップ・シーモア・ホフマンに重ね合わせてしまって余計にしんみりしてしまった。まあ、ドイツのテロ対策チームを率いる人間にはまったく見えないんだけどね。ドイツ人にも見えないし、肉体的にも精神的にもギリギリのプレッシャーに耐えうる人間の体躯にも見えないし。

CIAに出し抜かれて作戦が失敗するフィリップ・シーモア・ホフマンの最後のセリフが「FUCK!」の絶叫だった。まるで亡くなった彼が自分の死に様について絶叫しているようだった。

→アントン・コービン→フィリップ・シーモア・ホフマン→アメリカ・イギリス・ドイツ/2013→新宿武蔵野館→★★★☆

ニンフォマニアック Vol.1

監督:ラース・フォン・トリアー
出演:シャルロット・ゲンズブール、ステラン・スカルスガルド、ステイシー・マーティン、シャイア・ラブーフ、クリスチャン・スレーター、ユマ・サーマン、ソフィー・ケネディクラーク、コニー・ニールセン、ジェームズ・ノースコート、チャーリー・G・ホーキンス、イェンス・アルビヌス、フェリシティ·ギルバート、イェスパー·クリステンセン、ヒューゴ・シュペーア、サイロン・メルヴィル、サスキア・リーヴス、ニコラス・ブロ、クリスチャン·ガーデビヨ
原題:NYMPH()MANIAC
制作:デンマーク/2013
URL:http://www.nymphomaniac.jp
場所:新宿武蔵野館

ラース・フォン・トリアーの前作『メランコリア』は、映画館で観た時にはそんなに気にも止める映画でもなく、ラース・フォン・トリアーにしては不快さが足りないな、と云う感想しか持たなかったのだけれど、その後なぜかジワジワと『メランコリア』への愛着が募り、WOWOWで再見した時にはその映画がすっかり好きなっていた。でもそれは、ラース・フォン・トリアーへの期待がしっかりと映像化された結果に対する愛着ではなく、映画の中で描かれる絶望のイメージが自分の中でおもい描いていたイメージとぴったりと合致していたことが時が経つにつれて次第に鮮明になって来たにすぎなかった。自分にとってラース・フォン・トリアーに対する期待とは絶えず『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のラストシーンなんだとおもう。あのラストシーンは私が見てきた映画史上最低だった。最低の最低の最低映画だった。だからこそ素晴らしかった。

今回はそんなラース・フォン・トリアーの最低映画に久しぶりに会えるのかな、と期待したけど、またちょっとはぐらかされてしまった気がする。特に「第3章ミセスH」は何なんだろう? 笑えるのだ。ラース・フォン・トリアーの映画で笑えるとはおもっていなかった。それもしっかりと笑わす工夫をしているコントのようだった。ユマ・サーマンに復讐劇をやらせるなんて、タランティーノのパロディなのか!

パロディの兆候は「第1章コンプリートアングラー」からあった。アイザック ウォルトンの名著「釣魚大全」を引き合いに出した色情狂成長記録は、フライ・フィッシングの作法とセックスするために男をピックアップする手法を重ね合わせたパロディのような体裁で、そこかしこに笑わせるような仕掛けを用意していた。この段階からして今回のラース・フォン・トリアーの映画に対して?マークが付いたのだけれど、それが「第3章ミセスH」ではっきりしたわけだった。うーん、ラース・フォン・トリアーに対して求めているのはこれではまったくない。どうしてこんな映画を撮ることになったのだろう。はたしてこんな気持ちでVol.2も観るべきか。どうしよう。

→ラース・フォン・トリアー→シャルロット・ゲンズブール→デンマーク/2013→新宿武蔵野館→★★★